8. 疑うべきなのかしら?②
「お待たせしましたわ、ミセス・グレンロス。こちらが今、当家で制作活動をしている画家のミスター・ハンフリーズです」
「初めまして、ミセス・グレンロス」
ミスター・ハンフリーズは礼儀正しく挨拶した。
その柔和な印象に、ミセス・グレンロスは些か拍子抜けした。
先ほどのサー・ジュリアンの話からは、もっと陰鬱で怪しげな男性を想像していた。
「初めまして、ミスター・ハンフリーズ。今、サー・ジュリアンからあなたの素晴らしい才能について伺っていましたの」
「素晴らしい才能だなんて……私はただ絵を描くのが好きなだけなのです」
ミスター・ハンフリーズはにこやかに言って、手に持っていたものをミセス・グレンロスの前のテーブルに並べた。
「まあ、こんなにたくさん!」
テーブルの上にハンカチと絵画が合計で十ほども並んだのを見たミセス・グレンロスは、つい素直に喜んでしまった。
まず、レディ・トラヴァーズの手による刺繍が施されたハンカチは、実に見事だった。
刺繍の図柄は、雛菊、スズラン、薔薇のつぼみなど——レディ・トラヴァーズが産着に刺繍する図柄を練習したのだろうが、どれも優美な仕上がりだった。
「レディ・トラヴァーズ、あなたの刺繍は本当に素敵だわ。刺し方が上手なだけでなく、図柄が洗練されているのですもの」
ミセス・グレンロスが惜しみなく称賛すると、レディ・トラヴァーズはにっこりとした。
そして、絵画——こちらは手にとれる大きさの水彩画で、いずれもきちんと額に入れられている。
スイート・ピーやデルフィニウム、ラベンダーが鮮やかな筆致で描かれていた。
「ミスター・ハンフリーズの絵も素敵だわ。文字通り村人の生活に花を添えてくれそうね」
「恐れ入ります、ミセス・グレンロス」
ミスター・ハンフリーズは穏やかに微笑んだ。
「どれも夏の花ですね。やはり戸外で自然をお描きになることが多いのかしら?」
ミセス・グレンロスはミスター・ハンフリーズに問いかけたが、答えたのはサー・ジュリアンだった。
「そうなのですよ。一人戸外に出て自然を観察しながら一気に完成させてしまうのが、彼のやり方なのです。偶には制作途中の様子も見てみたいものですがね」
ミスター・ハンフリーズは、苦笑しながらも頷いていた。
「さて、これならさっきあなたがおっしゃった通り、村人たちの感性を養うことができますでしょう?ミセス・グレンロス」
ミセス・グレンロスの嬉しそうな反応を満足げに眺めていたレディ・トラヴァーズが言った。
「ありがとうございます、レディ・トラヴァーズ、サー・ジュリアン。そして、ミスター・ハンフリーズも」
ミセス・グレンロスは改めて礼を言った。
「皆さん、良かったら当家の秋祭りにいらしてくださいな」
「そうしたいところですが、あいにく私たちは客を迎える予定がありましてね。でも、君は行けるだろう、ハンフリーズ?」
サー・ジュリアンが言うと、ミスター・ハンフリーズは穏やかに微笑んだ。
「そうですね。メラヴェリー村には行ったことがありませんし、写生がてらに伺ってみようかと思います」
そして、彼は「書きかけの手紙があるので」と言って、ミセス・グレンロスに丁寧に挨拶してから自室へと戻っていった。
ミセス・グレンロスは正直、ミスター・ハンフリーズに好感を抱いた。
疑うべき人物ではないと言いたいところだが——。
——でも、だからこそなのかしら……。
どうにも胸騒ぎがしてならないのだった。
***
その後、ミセス・グレンロスは協力のお礼として、今回の秋祭りでレディ・トラヴァーズの慈善活動への募金も呼びかけると約束した。
慈善活動に熱心な彼女は、地元の病院や教会への支援もさることながら、最近は慈善家同士のコネクションを活かして医学の進歩により新たに認知されるようになった疾患を抱える人々への支援を模索しているらしい。
准男爵邸を後にしたミセス・グレンロスは、メラヴェリー村への帰りの自動車に揺られながら、改めて虚偽広告事件の容疑者について考えた。
——准男爵家の食客の画家ハンフリーズ。
——さすがサー・ジュリアンのお眼鏡に適った画家ね。見事な水彩画だったわ。
——それに、とても感じが良かった。
——でも、心が落ち着かないのはどうして……?
いつの間にか自動車はメラヴェリー村に入り、牧師館の前を通り過ぎようとしていた。
道の向こうからは村の小学校から戻って来る小学生の一団が見えた。
自宅で昼食をとるためだろう。
もしかすると、今回のメラヴェリー・マナーでの秋祭り開催を受けて校長が生徒たちに半休を与えることにしたかもしれないとミセス・グレンロスは思った。
それからも自動車はミセス・グレンロスの今の住居である男爵家の別邸を目指して走り続けたが、途中で奇妙な二人組を見つけた。
別邸の執事ミスター・ウェルズが彼の部下であるフットマンのトムに支えられながら歩いている。
「ウェルズ!一体どうしたのです?」
車を止めさせたミセス・グレンロスが問いかけると、ミスター・ウェルズは恐縮して答えた。
「奥様、大変お恥ずかしいのですが、牧師館の設備をお借りしに行った際に転んで足を捻ってしまいまして」
よく見るとミスター・ウェルズの手には木製の杖が握られていた。
杖をつき、更にフットマンに支えられないと歩けないとは相当悪いようだ。
「ウェルズ、自動車に乗りなさい。なるべく足を動かさない方がいいわ」
ミセス・グレンロスが言うと、ミスター・ウェルズは躊躇っていたが、フットマンのトムは嬉しそうに礼を言い、すぐにミスター・ウェルズを運転席の隣に押し込んだ。
「全く、荷馬車に乗って帰って来た方が良かったでしょうに」
「申し訳ありません、奥様。牧師館で手当てを受けたのですが、長引きそうだったので荷馬車は先に帰してしまったのです。秋祭りの準備が滞るといけませんから。しかし、かえってご迷惑をおかけしてしまい……」
運転席の隣に落ちついたミスター・ウェルズはすっかり縮こまっていた。
「怪我をしたときも、運んでいた木箱がちょうど牧師様を訪ねにいらしていた旦那様のお顔の方に飛んで行ってしまって……大変なご迷惑をおかけしました」
ミセス・グレンロスは少し眉を上げた。
彼女が准男爵家を訪ねる間、「旦那様」——つまり、アルバートも牧師館を訪ねることになっていたが、ミスター・ウェルズは、彼の顔に木箱をぶつけてしまったということなのだろうか。
そもそも、アルバートは数年前に殺人犯に監禁されたアメリアを助ける際に、額に傷を負ったことがあった。
その傷跡がやっと消えてきたというのに、また新たな傷を得てしまったとしたら可哀想だ。
しかし、すっかり落ち込んだミスター・ウェルズに仔細を尋ねるのも気の毒な気がして、ただ頷くだけに留めた。
「——転んだ直後は大したことはないと思ったのです。しかし、どんどん悪化してしまって、牧師様が昔骨折した際に使った杖をお借りする事態になってしまいました。しかも、私ときたら杖すら上手く使えず、玄関に向かう途中で更に転んでしまいまして……牧師様の甥っ子のダニー坊やを泣かせてしまいました。坊やのセッター犬にも吠えられましたし。もう散々です……」
「ミスター・ウェルズ、ダニーはあなたが杖を持った瞬間から泣き出していましたよ。ですから、あなたが不器用なせいじゃありません。懲罰用の杖を持った学校の先生に見えたのでしょう。それにあの犬の吠え方は威嚇ではありませんでしたから、ただあなたが遊んでいると思っただけですよ」
慰めになるようでならないことを述べたのはトムだった。
彼は深く落ち込むミスター・ウェルズに呆れたように肩を竦めた。
そして、自分はそのまま秋祭りの準備に合流すると言って、ミセス・グレンロスが准男爵家でもらってきたくじ引きの景品を預かると、本邸の方へと走って行った。
ミセス・グレンロスはようやく静かになったミスター・ウェルズに優しく語りかけた。
「ウェルズ、その様子だと秋祭りの手伝いは無理ね。午後は別邸で休んでいなさい」
ミスター・ウェルズは目を見開いて首を振った。
「それだけはどうかご容赦ください。どうしてもお手伝いしないと……」
普段のミスター・ウェルズであれば無理せず休みそうなものなのにとミセス・グレンロスは内心で首をかしげた。
しかし、すぐに思い当たった。きっと臨時手当のことだ。
別邸の使用人たちが本来の業務に加えて本邸の仕事を手伝うと、男爵家の当主であるアメリアから心付けとして臨時手当が支給される。
ミスター・ウェルズが最近パブに飲みに行くのを控えていると他の使用人が噂しているのを聞いたことがあったので、もしかすると、買いたいものでもあるのかもしれない。
「わかったわ、ウェルズ。でも、物を運ぶのは禁止よ。監督役に徹しなさい」
「肝に銘じます、奥様」
ミスター・ウェルズが神妙に言った瞬間、ミセス・グレンロスの心にある疑いが過った。
後でアルバートに相談した方が良いかもしれない。
彼なら公平に物事を見てくれるだろう。




