7. 疑うべきなのかしら?①
同じ頃——。
ミセス・グレンロスは隣村シーニア・エンドの准男爵邸を訪れていた。
「いやあ、災難ですな、ミセス・グレンロス」
応接間でミセス・グレンロスから虚偽広告の一件を聞いて、まずそう言ったのは、窓際のソファに座っていた准男爵のサー・ジュリアンだった。
彼は恰幅の良い中年の紳士で地主らしい立派な口髭を生やしている。
「レディ・メラヴェルとアルバート卿もさぞ驚かれたでしょうね」
続いて言ったのは、准男爵夫人レディ・トラヴァーズだった。
サー・ジュリアンとは対照的にほっそりとしている女性で、慈善活動に熱心な感じの良いレディだ。
彼女はミセス・グレンロスのすぐ近くの長椅子に座っていて、傍らには薔薇の刺繍が刺し掛けになっている白い布が置かれていた。
赤子用の産着に刺繍を施しているのだろう。
ウィルトシャーに嫁いだ夫妻の娘がそろそろ初めての出産を迎えるのはミセス・グレンロスも知っていた。
——本当に素晴らしいことだわ。
——これでご夫妻も、嫁いだお嬢様も安心できるもの。
ミセス・グレンロスは素直にそう思った。
その娘の婚家は貴族ではないもののそれなりの地主なので、財産を相続する子が必要だ。
彼女には出産への期待と重圧がかかっていることだろう。
男の子が望まれるのは事実だが、女の子だっていい。
まずはとにかく一人産むことができれば、心が軽くなるはずだ。
なかなか子ができなかったミセス・グレンロス自身も一人娘のアメリアが無事に生まれたときには、心から安堵したものだ。
——当家にも早く良い知らせがあると良いのだけど……。
——あの子はどうも一人で背負いすぎるところがあるから……。
ついそんなことを考えてしまったミセス・グレンロスだが、今の状況に合わせて微かに当惑が滲む表情を保つことは忘れていなかった。
「ええ、娘も婿も驚いていました。でも、結局は秋祭りを開催することにいたしましたの。ただ、とんでもないことでしょう?どなたかにお話ししたくて……」
ミセス・グレンロスは准男爵夫妻の表情をさり気なく窺った。
二人とも特に慌てている様子はなく、純粋にこの事件に驚いているようには見えた。
「我々にも何かお手伝いできることはありますかな、ミセス・グレンロス?レディ・メラヴェルとアルバート卿には先日当家の晩餐会にお越しいただきましたからね。できることがあれば何なりと」
「いえいえ、お気持ちだけで十分ですわ、サー・ジュリアン」
ミセス・グレンロスは微笑んだが、一拍置いてから深くため息をついた。
すると、狙い通りレディ・トラヴァーズが口を開いた。
「ミセス・グレンロス、もしかして、村人を楽しませる材料が足りなくてお困りなのではないかしら?」
「そんなことは……と言いたいところですが、あなたのことは誤魔化せませんわね、レディ・トラヴァーズ。実は、くじ引きの景品のことで悩んでいるのです。思い切って一等はソヴリン金貨に決めてしまったのですが、それだけだとあまりに物質的でしょう?何かもっと村人たちの感性を養うような美しいものがあると良いのですが……」
ミセス・グレンロスが意識して眉を寄せながら答えると、レディ・トラヴァーズは深く頷いた。
「そうでしょうとも。ちょうど当家には画家がおりますから彼の習作で差し上げられるものがあるか確認しますわ。それから、私が手慰みに刺繍を入れたハンカチでよろしければ、何枚かあったと思いますの」
そう言うとレディ・トラヴァーズは「少し失礼しますわね」と言って応接間を出て行った。
ミセス・グレンロスは内心で笑みを浮かべた。
くじ引きの景品が足りないのは事実だが、彼女の真の目的は先ほどアルバートが怪しいと指摘した画家についての情報を集めることだった。
彼の作品を見れば本当に怪しむべき人物なのかわかるかもしれない。
続いて、ミセス・グレンロスは、応接間に残っているサー・ジュリアンに向けて言った。
「本当に有難いことですわ。刺繍入りのハンカチと絵画をいただければ、何とかくじ引きも形になりますもの。ところで、今、こちらにいらっしゃる画家の方は、ミスター・ウォーターハウスとおっしゃいましたかしら?」
ミセス・グレンロスが当てずっぽうに言うと、サー・ジュリアンは可笑しそうに笑った。
「いやいや、今こちらにいるのは、ハンフリーズという男ですよ」
「ああ、そうでしたわね」
ミセス・グレンロスは軽く言って、質問を進めた。
「私、あなたの審美眼にはいつも感心してしまいますの。数年前に、ルプトン伯爵家のご家族の肖像画を描いて評判になった画家バイアットも元々あなたが見出した画家だったのでしょう?」
「そういうことになりますな。私は毎年ロンドンの美術学校の学生展に足を運んでいましてね。そこで『これぞ』と思う学生に声をかけているのです。バイアットももう十年以上前にそこで見出した画家でしたが、貧しい家の出だったので数年間この家に置いて食客として世話をしてやっていました。しかし、私はどこぞの趣味の悪い後援者と違って画家の才能を独占する気はありませんよ。十分に育ったと思ったらもっと良いパトロンを紹介してやるのです。その方が画家のためになりますからね」
「まあ、素晴らしいこと!」
ミセス・グレンロスの称賛を受けてすっかり気を良くしたサー・ジュリアンは満面の笑みを浮かべた。
「今回のミスター・ハンフリーズも美術学校から見出したのですか?」
ミセス・グレンロスが機を逃さず踏み込むと、サー・ジュリアンは首を横に振った。
「いや、彼は自分から売り込んできたのですよ。彼は美術学校に行くには年を取り過ぎていますしね。先月の終わり頃でしたかな。彼が急に訪ねて来て、『絵を見て欲しい』と言ったのです。あいにく土砂降りだったので——ほらよくある夏の午後のにわか雨ですよ——追い返すのも可哀そうで一応作品を見てやりました。すると……彼の才能は明らかでした。40近い男が描いたとは思えないほど新鮮で瑞々しい作品ばかりで。画材を揃える金がなかったそうでスケッチブックを破いたような紙に描かれた鉛筆画でしたが。私はこれを伸ばしてやらねばならないと思ったわけです」
「素敵な巡りあわせですわね」
「ええ、全くです。何でも元は没落した地主の息子だそうですが、シーニア・エンドに画家の発掘に熱心な准男爵がいると聞いて、訪ねてみたのだと言っていました。ハンフリーズにその話をしてくれた人に感謝ですな。今は次回のアカデミーの展覧会に応募する作品を制作させています。彼ならきっと入選します。そうすれば、すぐに仕事が舞い込んで、身を立てられるようになりますよ」
サー・ジュリアンは自分で自分の言葉に同意するように何度も頷いていた。
ミセス・グレンロスはサー・ジュリアンのハンフリーズという画家への評価には嘘はないだろうと思いつつも、彼がこの准男爵家にやってきた経緯については少し首を傾げたくなった。
いくら才能があるとはいえ、紹介も約束もなしに自分から絵を持ち込んできた男など信用して良いのだろうか。
「でも、サー・ジュリアン、そのミスター・ハンフリーズの身元は確かなのでしょうか?」
ミセス・グレンロスが遠慮がちに言うと、サー・ジュリアンは可笑しそうに笑った。
「その点は心配無用ですよ、ミセス・グレンロス。彼は紳士的でシーニア・エンドの村人からも評判が良いのです。それに、当家の娘はもう結婚してこの家にはいませんし、まあ、レディ・トラヴァーズはおりますが、私と長男がついていますからね。大学が休みの間は次男もいます。万が一、悪漢だったとしても家に男が二人以上いれば、そうそうおかしな真似はできませんよ」
「そうですわね。余計なことを申しました。心配するのが癖になってしまっているのですわ。私には一人娘しかおりませんので、夫が亡くなって婿が来るまで家に男手がなかったものですから」
ミセス・グレンロスが軽く微笑むとサー・ジュリアンも鷹揚に笑った。
しかし、彼女の内心には疑問が残った。
画家の村人からの評判が良いのは、サー・ジュリアンの食客だからだろう。
田舎ではどの村の村人も新参者には厳しいが、村の名士の家の客人扱いであれば、彼らの視線も自ずと和らぐ。
それから、一つ屋根の下に置くことの危険についても、どうも見立てが甘い気がする。
サー・ジュリアンは恰幅は良くても決して頑強な紳士ではない。
彼の長男は親切な好青年ではあるが、細身であまり頼りになりそうにない。
——メラヴェリー村の牧師ミスター・ベントリーくらい屈強ならともかく……。
そこからサー・ジュリアンは、最近の美術界の動向について熱く語り始め、ミセス・グレンロスは聞き役に徹した。
彼女がそろそろ話を聞き続けるのに苦痛を覚え始めたとき、ようやくレディ・トラヴァーズが応接間に戻ってきた。
彼女は一人の男性を伴っていた。
40手前くらいに見える彼は先ほどレディ・トラヴァーズが持ってくると言っていたハンカチや絵画を両手に抱えていた。
やや小柄ではあるものの、チャコールグレーのラウンジスーツを自然に着こなし、黒髪を品よく整えているので、明らかに使用人ではない。
ミセス・グレンロスが当てずっぽうに言った画家の名「ウォーターハウス」は、実在のラファエル前派の流れを汲む画家です。




