5. 新たな容疑者?①
午前11時過ぎ——。
外出用のフェドーラハットをかぶったアルバートは、<メラヴェリー・マナー>から教会へと続く道を歩いていた。
傍らには、どうしてもついていくと言って聞かなかった従者のミスター・エドガーが付き従っている。
ミスター・エドガーは、アルバートの結婚が決まったときに、彼の実家の侯爵家がメラヴェル男爵家の一員となる息子のために雇った従者だった。
これまで数々の「要求水準の高い紳士」に仕えてきたと自負しているミスター・エドガーは、まるで秘書のように有能な従者だった。
外出の際にはアルバートがまさに着たいと思っていた服を用意してくれるし、執筆の際には彼がデスクに着く前に筆記用具だけでなく必要な本まで並べておいてくれる。
しかも、何故か原稿のスケジュールまで把握していて、遅れた場合には編集者の追及をかわす手紙の代筆もこなす。
——だが正直、エドガーは……。
「周囲に好かれていない」という続きをアルバートは敢えて考えなかった。
特に<メラヴェリー・マナー>の使用人たちの間での彼の不人気は明らかだった。
彼は侯爵の子息で女男爵の夫である自分の主人こそ屋敷で一番偉いと考えている。
度々それを通そうとするので、当主である女男爵が一番だと考えている元々のメラヴェル男爵家の使用人たち——特に女男爵の忠実な侍女ミス・アンソン——と軋轢が生じているらしかった。
ただ、ミスター・エドガーも他の使用人たちも主人夫妻の前では、まるで軋轢など生じていないように振舞っているので、アルバートは何も知らない体を装っていた。
使用人たちの領域である階下で不都合が起こっていても、彼らが取り繕えている間は介入は慎むべし——というのが家の運営に長けていた彼の亡母の教えだった。
主が余計な干渉をして上級使用人たちの権威を損なえば、それこそ階下の秩序にかかわるからだ。
とはいえ、もし、ミスター・エドガーがあからさまに女男爵を蔑ろにする素振りを見せれば、個人的に注意の一つくらいはしなければならないとアルバートは考えていたが、有能な従者は主の意図などお見通しのようで、彼は少なくともアルバートの前では完璧に女男爵を尊重した。
また、女男爵もミスター・エドガーの本心に気づいているはずなのに、困惑するどころか愉快そうにしているので、アルバートはこの件で自分の出る幕はなさそうだと結論付けていた。
アルバートがそんなことを考えている内に、彼らは教会のすぐ隣にある牧師館に到着した。
ここで牧師のミスター・ベントリーから話を聞くのが、先ほど義母との「作戦会議」で決まったアルバートの役割だった。
彼と義母ミセス・グレンロスは、それぞれが最も怪しいと思う人物がいる家に相手を送り込んで捜査することで合意していた。
その人物が本当に怪しいのか、もう一人の目で確認するのだ。
そのため、アルバートはミセス・グレンロスが一番怪しいと睨んでいる牧師の義妹ミセス・ブレイク——先月から夫が出奔したという理由で息子連れで牧師館に移ってきた女性だ——を捜査することになった。
ただ、彼の立場でいきなりミセス・ブレイクに話を聞きたいと申し出るのは不躾なので、まずは彼女の義兄であり庇護者であるミスター・ベントリーを訪ねることにしたというわけだ。
***
「アルバート卿、大変なことになりましたね。先ほど、うちのメイドがアダムス商店の配達の男の子から聞いたそうですが、あれは虚偽広告だったのですね?おかしいと思いましたよ。開催当日の広告だなんて」
牧師館の簡素な応接間で、大柄な牧師が窮屈そうに椅子に座りながら言った。
アルバートは、牧師館のメイドが運んできた紅茶の湯気越しに彼の大きな目がいつも以上に大きく見開かれているのを見た。
「ええ、そうなのです。困ったことになりましたよ、ミスター・ベントリー」
「しかし、本当に開催なさるのだから、貴族の方の豪胆さには驚きます。まあ、ご夫妻とミセス・グレンロスのお人柄を考えれば、さもありなんですね。うちの妻も何かの助けになればと、ついさっき、村のご婦人方に秋祭りに持ち寄れるものがないか聞きに出かけて行きましたよ。妻自身もうちで作り過ぎて余っていたポプリを寄付したいと言っていました」
「おや、それは有難いことです」
アルバートは穏やかに言った。
今頃、<メラヴェリー・マナー>では、使用人たちが押し寄せる村人を楽しませる術を模索している。
おそらく、くじ引きや子供向けのゲーム、チャリティ・バザーなどに落ち着くとは思うが、ポプリなら何かの景品にもなりそうだし、チャリティ・バザーで売ることもできそうだ。
しかも、他の女性たちにも声を掛けてくれているとは非常に有難い。
「それで、アルバート卿。そんなお忙しいときにどうしてこの牧師館に?ミセス・グレンロスの使用人が来ることは聞いていましたが……」
牧師は少し首を傾げながら言った。
確かにミセス・グレンロスの指示で彼女が住む別邸の使用人たちも、本邸<メラヴェリー・マナー>の秋祭りの手伝いに駆り出され、牧師館に椅子やテーブルを借りにくることになっている。
暫く使っていない<メラヴェリー・マナー>の設備を今からメンテナンスするより、定期的に教会のバザーで使っている設備を借りた方が早いというのが執事ミスター・フィリップスの判断だった。
しかし、アルバートは別の用事を用意していた。
「それとはまた別に、あなたに秋祭りで説教をお願いしたくて来たのです。虚偽広告により半ば無理やり開催することになった今回の秋祭りですが、これを改めてタイタニック号の悲劇の犠牲者や遺族に心を寄せる機会としたいのです。なので、そのような説教をしていただけると有難いのですが……」
これは口実でもあるが、半分以上は彼の本心だった。
牧師はこの提案に非常に感銘を受けたらしく、何度も深く頷いた。
「素晴らしいことですね。是非お話しさせていただきましょう。そういえば、ご友人に直前に急病で乗船を取りやめた方がいらっしゃったのでしたね?本当に人生何があるかわかりませんね」
「ええ……」
アルバートは曖昧に頷き、牧師の真っ直ぐな瞳から視線を逸らした。
牧師が言及したのは、アルバートの友人セッティンガム男爵のことに違いなかった。
彼は「急病で乗船を取りやめた」のだが、沈没事故後の混乱で名前が一時安否不明者名簿に載ってしまった。
それを見つけたときにはアルバートもひどく心配したが、数日後に無事が判明して胸を撫で下ろしたのだった。
ただ、「急病で乗船を取りやめた」というのは真っ赤な嘘だった。
真相はこうだ。
セッティンガム男爵は奥方の男爵夫人と犬も食わない喧嘩をしてタイタニック号でアメリカに逃げようとしていたのを、乗船前にサウサンプトン港で捕まって連れ戻されたのだ。
喧嘩をして以来、男爵夫人は彼が受け取る手紙も送る手紙も全て監視していて、サウサンプトン港に先回りしていたらしい。
事前に指摘すればかえって意固地になる男爵の性格を熟知し、不意打ちで捕まえた男爵夫人の作戦勝ちだった。
「まさか彼女の封蝋を傷つけずに手紙を開封する特技に命を救われるとは!」と後日男爵夫人と共に、わざわざ<メラヴェリー・マナー>まで生存報告に来たセッティンガム男爵は、すっかり元通りに仲直りした夫人の手紙傍受技術を称賛して笑っていた。
命が助かったので良かったことには間違いないのだが、それに至る経緯が情けなさ過ぎて、アルバートはこの件をどう捉えるべきか心の整理がついていなかった。
「ああ、その水彩画、素晴らしいでしょう?」
この名状したがたい感情について考え込んでしまっていたアルバートは牧師の言葉で一気に現実に引き戻された。
言われて気が付いたが、無意識に壁に向けていた視線の先には、スイートピーやデルフィニウムが咲き誇る夏の牧師館の庭の風景を描いた水彩画が飾られていた。
「時々ダニーの子守りを手伝いに来てくれる女の子が描いてくれたのですよ。養豚農家のミス・ケリーの姪御さんのミス・エムです。あの子は少し抜けたところがありますが、絵は非常に上手なようです」
「ええ、そのようですね」
アルバートは頷いた。
ただ、そのミス・エムのことはよく知らなかった。
ミス・ケリーが姪と暮らしていることは知っていたが、その姪とは顔を合わせたことがなかった。
先日、子豚の盗難被害の視察のためにミス・ケリーの養豚場を訪ねたときも、ミス・エムの姿はなかった。
教会の日曜礼拝には来ているのだろうが、ミス・ケリーとその姪は新参者の遠慮からいつも末席にいるらしく、領主一家として最前列の席に着くアルバートからはよく見えなかったし、これまで意識して探すこともなかった。
水彩画を見つめていたアルバートは遠景にぼんやりと人影が描かれているのに気が付いた。
女性と子供のようだ。女性の方は茶色の犬を連れている。
「遠景に人物が描かれていますね。犬を連れているのがミセス・ブレイクで、その隣はダニーでしょうか?」
牧師夫人とその息子の可能性もあるが、アルバートは話題をある方向に導こうと、試しにそう言ってみた。
「おや、よくわかりましたね。ミス・エムはよくミセス・ブレイクやダニーの絵を描いてくれます。それから、二人がロンドンから連れてきたセッター犬も。これは水彩画ですが、本物と寸分違わぬほどの出来の鉛筆画を描いているのも見たことがありますよ」
アルバートは牧師がこの話題に乗ってくれたことに心の中で感謝した。
「ミセス・ブレイクといえば……彼女は大変な思いをなさっていますね」
そう言いながらアルバートは眉を寄せた——これは彼の率直な思いからだった。
妻子を置いて出て行ってしまうなど、彼らの夫であり父であるミスター・ブレイクはとんでもなく無責任な男と言わざるを得ない。
「しかし、義兄であるあなたが彼女を息子ともども庇護してくださっているのが救いです」
「そう言ってくださるのはあなたくらいなものですよ、アルバート卿。世間は何でもかんでも妻の方に問題があると考えます。でも、少なくともブレイク夫妻については……ドロシーは何も悪くないのです。ご存じの通り、夫婦は共に暮らす義務を負っています。しかし、互いに慈しみ合うこともまた神聖な義務なのに……」
ドロシーというのがミセス・ブレイクの洗礼名らしい。
アルバートは沈痛な面持ちで俯く牧師に同情しつつも、更に問いかけた。
「どうしてもそのミスター・ブレイクは見つからないのでしょうか?」
「ええ、まあ……見つからないようですね」
牧師は牧師用の黒いフロックコートの袖を逆の手で引っ張った。
「彼の親兄弟から連絡することもできないのですか?」
「彼には妻子以外の家族がいないのです。学生の頃に両親が亡くなり、元々兄弟はいません。両親が亡くなった後、彼を後見していた伯父さんも最近亡くなって……。私は彼とパブリックスクール時代からの友人だったもので、よく知っているのです」
牧師は昔の記憶に思いを馳せるように遠くを見ていた。
アルバートはもう少しミスター・ブレイクのことを探ってみようと、努めて何気ない口調で尋ねた。
「彼は何か仕事をしていたのですか?」
「ロンドンのボンド街で骨董店を営んでいました。アンティーク家具や美術品を扱っていて、それなりに成功していました」
「なるほど、最近は不況で名家が家財や美術品を手放すことも多いですから、機会の多い事業ですね。成功していたということは審美眼があるのでしょう」
「そうかもしれませんね。昔から自分で絵を描いたり、木工細工を作ったりするには、壊滅的に技量に欠ける男でしたが、価値のあるものを見分ける目はありました」
牧師は昔を懐かしむように少し目を細めた。
「しかし、妻子の元からいなくなったということは店を離れたということになる。損害が出るだろうになぜ……」
アルバートはそう言いながら考えを巡らせた。
「しかし、まあ、起こってしまったことを嘆いても仕方がありません。今は二人ともこの村で何とかやっていこうとしていますから、私としては村の皆さんにも温かく見守ってもらいたいものです」
牧師が作ったような明るい調子で言ったので、アルバートは微かに眉を上げた。
彼はそのままもう一歩踏み込んでみることにした。
「我が義母ミセス・グレンロスは二人にもっと村の行事に参加してほしいようですが、まだ難しいでしょうか」
彼は牧師の表情を密かに観察したが、幸い特段反発するような反応はなかった。
「今は落ち込んでいますから……。でも、今日の秋祭りには二人も参加しますよ。ダニーは最近文字に強く興味を持っていまして、毎日新聞を眺めては読める単語を探しているのですが、今回の秋祭りの広告に『お子様』と書いてあるのを見つけてすっかり行く気になっていました。どうも『お子様』と書かれていると自分向けの催し物だと思うようです。ロンドンにいた頃もそういうことがあったそうで。ダニーが行くとなれば、ミセス・ブレイクも母親として付いて行かないわけにはいきません」
牧師の言葉にアルバートは頷いた。
今回の秋祭りが母子が牧師館の外に出て人と交流する機会になるのであれば、開催のしがいもあるというものだ。
そう考えていたアルバートは牧師が窓の方を眺めているのに気づき、その視線の後を追った。
すると、そこには、庭で犬と遊ぶ牧師夫妻の息子たちとダニーの姿があり、ミセス・ブレイクがそれを少し離れたところから見守っていた。
牧師夫妻の息子たちは、ダニーよりも少し年上だが、村の一般の子供たちと違って公立小学校には通わず、数年後のパブリックスクール進学に備えて家庭で教育されている。
この教区の牧師であれば、幸いにして二、三の息子をパブリックスクールに入れて紳士としての教育を受けさせるのに十分な収入はあるはずだが、それ以上は厳しいかもしれない。
すると、甥に過ぎないダニーについては、5歳になる来年から村の小学校に入れることもあり得るが、牧師の性格を考えれば、きっと多少無理をしてでもダニーも実の息子たちと同じように育てるのではないかとアルバートは考えた。
牧師は彼らを眺めながら、独り言のように呟いた。
「あの男……ブレイクを妻の妹に紹介してしまったのは私なのです。パブリックスクールで同じフィールドを駆け回っていた頃には気づけませんでした。小柄で俊敏だった彼は、チームの攻撃の要として頼りにされていたものでしたが、今となっては……」
牧師の黒い瞳は揺れていた。
毎週日曜日に皆の前で堂々と説教をする彼とはまるで別人のようだった。
■使用人間の軋轢
厳密に言うと、英国における「貴族」は自身の権利で爵位を持っている男爵、子爵、伯爵、侯爵、公爵(女男爵もそうです)とその夫人(◯爵夫人)のみなので、女男爵は貴族でも、アルバート卿の身分は平民です。
ただし、侯爵の子息として名乗ることができる「卿」の称号が示すとおり、生まれは圧倒的に高貴(女男爵は元は法廷弁護士の令嬢)であり、宮中席次も男爵や男爵夫人(女男爵)よりも侯爵の次男以下の方が高位です。
また、夫と妻とでは、当時は圧倒的に夫の権限が強かったので、そうした女男爵夫妻の身分や地位、立場の捻れが使用人同士の軋轢の背景にあるのでしょう。
■セッティンガム男爵夫妻の馴れ初めはこちらです。
「アーサー・スタンリーの愉快な人生」(https://ncode.syosetu.com/n2388lt/)
アルバート卿を「名状しがたい感情」に陥らせることができるのは、彼だけかもしれません。




