3. 捜査しないといけませんか?①
応接間を出て行った妻を義母と共に見送ったアルバートは、ひとまずマホガニーのソファに座り直した。
表情からは特段の感情は窺われないが、彼の耳には先ほどの妻の言葉——「お願いね、あなた」がこだましていた。
アルバートは右手でさり気なく茶色のラウンジスーツの襟に触れた。
結婚前、彼女は彼を「アルバート卿」と称号を冠して呼んでいた。
しかし、当然ながら、結婚を機に親しい呼び方に変わった。
一番よく使うのは、単に「アルバート」と名で呼ぶ呼び方だ。
彼はこの変化を大いに歓迎していたが、つい先ほどの呼び方には少々問題があった。
彼女はアルバートを名で呼ぶのと同じくらい自然に「あなた」と呼ぶ。
もちろん、彼女が私的に夫のことをそう呼ぶこと自体に問題などあるはずもない。
——その影響が問題なんだ。
アルバートはゆっくりと脚を組み替えながら、数か月前に彼女にそう呼ばれたときのことを思い出した。
ある日の朝、「警部から殺人事件の容疑者の話を聞きに来てほしいと頼まれているのだけど、一緒に来てくれないかしら、あなた?」と彼女が言ったことは覚えている。
そして、気がつけばロンドン警視庁の執務室の衝立の影に用意された椅子に座っていて、隣の椅子には真剣な表情で殺人犯(結局は冤罪だったのだが)の供述を聞く妻の姿があった。
アルバートはこれについて考えると、いつも結婚の宣誓のことを思い出す。
教会で執り行われる結婚式においては、夫婦が相互に宣誓をする。
しかし、その内容は夫婦間で若干の違いがある。
夫は「妻を愛し、慈しむ」ことを誓う一方で、妻は「夫を愛し、慈しむ」だけでなく「夫に従う」ことまで誓うのだ。
この違いは、夫がその宣誓の前段で、妻を保護し養うことも誓うので、それに対応するものなのだというのがこれまでのアルバートの見解だった。
しかし、実際に結婚してわかったが、この見解は完全なる誤りだった。
——夫というものは、誓うまでもなく妻に従ってしまうからなんだ……。
思わず頭を抱えそうになったアルバートは我に返った。
——しかし、今回ばかりはだめだ。
彼は気を強く持とうと決めた。
自分に夫として妻に服従を求める権利があることは認識しているが、それを行使しようと思ったことはない。
二人の結びつきの本質は支配と服従ではないからだ。
それと同様に、彼の妻にはメラヴェル男爵家の当主としての権威はあるが、彼女がそれを振りかざすことはない。
だから、今回だって彼女は彼に何がなんでも従ってほしいとまでは思っていないはずだ。
そもそも、事件の解明は明らかに彼の領分ではない。
彼は自分の知性を信じてはいる。
ただ、彼のそれは彼女の稲妻のような閃きとは違って、無数の石を延々と積み上げるような地道で時間を要する種類の知性だ——古典の研究には向いているが、事件の解明には向かない。
それに、元々今日の午前中は、愛犬と庭を散歩した後で、古典学雑誌に掲載予定の論文を書き進めるという大事な予定をこなすつもりでもあった。
もちろん、秋祭りの準備に手を貸す必要があれば喜んでそうするが、事件の捜査をする気にはなれない。
しかし——。
「アルバート、やはり私たちはこの虚偽広告事件の捜査をしなくてはいけないと思いますよ」
ミセス・グレンロスは静かに告げると、ティーカップから紅茶を一口飲んだ。
「そうでしょうか、お義母さん?私は論文の締め切りがあるので、できればそちらに取り組みたいものです。庭にテントを建てるのに誰でも良いから人手が必要だということであれば別ですが」
アルバートはサイドテーブルのティーカップを手に取りながら言った。
当然、テントのくだりは皮肉(本当に家の主人がテントを建てるのに参加したら、使用人がやりづらくなるだけだ)だが、今回のミセス・グレンロスは僅かに眉を上げただけだった。
「あら、その論文の締め切りは『本当に本当の真の絶対的最終締め切り』なのかしら?」
義母の言葉にアルバートは心臓が微かに跳ねるのを感じ、口に運ぶ途中だったティーカップをゆっくりとソーサーに戻した。
「……いえ、『最終締め切り』です」
「それなら、まだ本当の締め切りまでにひと月くらいあるでしょう?アメリアがあなたの編集者は、いつも本当の締め切りの一か月以上前を締め切りとして伝えているようだと言っていたわよ。あなたがよく締め切り直前で大幅に改稿するものだから。でないと、『締め切り』以外に『最終締め切り』だけならまだしも『真の最終締め切り』とか『本当に真の最終締め切り』なんていうのが存在することの説明がつかないのですって」
アルバートは一瞬だけ天井のアザミ模様のレリーフに視線を遣った。
これが「探偵女男爵」を妻にするということなのだ。
そんな彼の様子を意に介さないミセス・グレンロスが意味ありげに目配せした。
「アルバート、さっきのあの子を見たでしょう?あれはもう謎をほとんど解いた顔だったわ」
これにはアルバートも深く頷いた。
先ほどの彼女のヘーゼルの瞳は、謎をほぼ手中に収めたとでも言いたげな輝きを放っていた。
「そうでしょうね。すると、やはりお義母さんと私が捜査する必要はないでしょう。彼女はもうほぼ謎を解いています。その上で警察に届けるどころか素人に捜査を任せようとしている……ということは、この事件は深刻なものではないのだと思います」
アルバートは、それとなく会話を終えようとした。
しかし、ミセス・グレンロスの鋭い視線がそれを許さなかった。
「そこまでわかっているのなら、アメリアの本当の狙いが虚偽広告事件の捜査ではないこともわかっているわね?」
「まあ、そうですね。彼女はどうやら事件よりも私たち二人のことを気にしているようではあります」
アルバートはそう言いながら、先ほどの彼と義母の「意見交換」を心配そうに見つめていた彼女の瞳を思い出した。
「あの子は私たちのことを少し誤解しているのよ……」
それから、二人は暫し話し合い、ある結論に至った。
「——つまり、お義母さんと私が協力して事件を捜査する姿を彼女に見せるべきだということですね?彼女の安心のために」
アルバートがミセス・グレンロスに視線を送ると、彼女は彼を真っ直ぐに見つめて言った。
「ええ、そうよ。協力してもらえるかしら?」
アルバートは顎に手を当てながら再び思案した。
先ほども検討した通り、自分は明らかに事件の捜査には向いていない。
ミセス・グレンロスだってそうだ。
彼女は人生経験豊かで、娘と同様鋭いレディだが、さすがに事件の捜査をしたことはないだろう。
一方で、彼女の安心のためにというのは一理ある。
夫として妻が日々安心して生活できるようにすることは、彼が大切にしている義務だ。
そうすると、今回の場合の最善は——。
「わかりました。やりましょう。事件を解明することはできなくても、彼女の心配を取り除くことはできるかもしれません」
アルバートが頷きながら言うと、ミセス・グレンロスは厳かに頷いた。
「素晴らしいわ。でも、やるからには事件の解明の方も最善を尽くすわよ」
ミセス・グレンロスは口元に微かに笑みを浮かべた。
「さて、まずは作戦会議といきましょう」
そのミセス・グレンロスの言葉に、アルバートは皮肉だがどこか楽しげな笑みを浮かべた。
目の前のレディは、間違いなく彼の妻の母なのだ。
「惚れた弱み」で済むことを長々考察してしまうアルバート卿です。




