19. 騙られた名は?②
※舞台となる時代の価値観に基づく、学習障害に対する偏見や誤解を含みます。
今朝、女男爵に虚偽広告事件の捜査をするように言われたアルバートとミセス・グレンロスは<メラヴェリー・マナー>の重厚な応接間で話し合っていた。
女男爵が夫と母の関係を誤解している件に話題が及んだとき、ミセス・グレンロスはいつもより数段真剣な口調で切り出した。
「あのね、アルバート。よく聞いてちょうだい。当家に後継者が必要なのは事実よ。でも、アメリアはその責任を一人きりで背負ってしまっているわ」
「ええ、そのようですね」
アルバートは自分の妻が女男爵としてメラヴェル男爵家の安定に心を砕いていることをよく知っていた。
特に、タイタニック号の悲劇が起こってから、それを自分だけの義務と責任として以前にも増して重く捉えている気配があった。
「あなたも察してくれているでしょうけど、だから、私はこの件については、あなたに言うようにしていたの。そうすれば、あの子も自分だけの責任でないとわかってくれると思って……」
アルバートはもちろん、義母の想いを理解していた。
だからこそ、彼女の手厳しい指摘を真正面から受け止めるようにしていたのだが——。
「でも、それであの子は、私たちが不仲だと誤解して、心配しているようね」
ミセス・グレンロスの口調は確かだったが、その瞳の奥が微かに揺れていた。
アルバートはそっと自分の足元に視線を落とした。
「つまり、お義母さんと私が協力して事件を捜査する姿を彼女に見せるべきだということですね?彼女の安心のために」
「ええ、そうよ。協力してもらえるかしら——?」
***
一瞬の内に駆け巡った記憶に、アルバートは皮肉な笑みを浮かべた。
妻の女男爵の方を見ると、彼女は戸惑いと不安が入り混じった表情で彼を見つめていた。
——お義母さんと私は、やはり……。
彼は躊躇わなかった。
素早くミス・エムの元に駆け寄り、「少し借りるよ」と声を掛けると、彼女の腕の中にあった麻布に包まれた大きなハムを受け取った。
そして、それをミセス・グレンロスの日傘を振り払おうとしているブレイクに向かって勢いよく投げつけた。
上手くいくかはわからなかった。
だが、やってみる価値はあると思った。
すると、思った通り、ブレイクは見事な反射神経でそのハムを捕らえた。
——さすがは元ラグビー選手だ。
——ミスター・ベントリーも言っていたが、「攻撃の要」だっただけのことはある。
ブレイクはアルバートがそれを彼にぶつけるために投げたのだと誤解したらしく、不遜な笑みを浮かべていた。
しかし、ハムがブレイクの手に収まったことを確認したアルバートは、大きく息を吸い込んで叫んだ。
「ハム泥棒!」
イートン時代の最後の競漕会で、相手を追い抜く際に舵手の掛け声に呼応して声を上げたとき以来の大声だった。
それを間近で聞いたミス・エムも彼の意図を理解して叫んだ。
「ハム泥棒!」
すると、間もなく、三人の男が駆け付けてきた——今の今までエールを飲んでいたらしいサンダース警部と部下の二人だ。
更にダニーの愛犬プリンスもどこか楽しげに吠えながら彼らの後についてきた。
三人の警察官と一匹の犬は、一直線にハムを持っているブレイクに向かって行った。
それを見たブレイクは駆けだした。
さながらラグビーの試合の一場面だった。
とはいえ、さすがに引退して何年も経過しているブレイクと現役の警察官では、最初から勝負はついている。
ブレイクは20ヤードも走らぬうちに警察官により地面に組み伏せられた。
メラヴェル女男爵はこの急展開に言葉を失っているようだったが、アルバートが目配せすると確かな頷きが返ってきた。
そして、二人は、動揺するミセス・ブレイクをミセス・グレンロスとミス・エムに任せ、ブレイクを取り押さえている警部の元へと向かった。
「サンダース警部、申し訳ありません。ハム泥棒というのは、私の勘違いでした」
「ええ?!卿、どういうことです?困りますよ」
ブレイクと警察官たちに追いついたアルバートが言うと、困惑したサンダース警部がブレイクから取り上げたハムを腕に抱えたまま言った。
ブレイクは二人の警察官によって地面に拘束され、プリンスに顔を舐められていた。
周りには騒ぎを聞きつけた村人たちが集まってきた。
「しかし、彼には別の罪があるので、自由にはしないでください」
アルバートが静かに言うと、警部も部下の二人も首を傾げた。
「あなたはレディ・メラヴェルのご夫君、アルバート・モントローズ=ハーコート卿ですね?」
地面に拘束されたままのブレイクが取り繕ったような笑みを浮かべて言った。
「それが何か?ミスター・ブレイク」
アルバートの声は彼が意図した以上に冷ややかだった。
「でしたら、レディ・メラヴェルに教えて差し上げてください。夫婦には同居の義務があります。私にはミセス・ブレイクを家に帰るよう求める権利があるのです」
彼の口から続けざまに二度も妻の名を聞いたアルバートは、つい眉を寄せてしまった。
しかし、落ち着き払って答えた。
「まあ、そうだろう。君にはその権利がある」
「なら、あなたからレディ・メラヴェルに——」
「いや、その必要はない。彼女は元は法廷弁護士——それも、勅撰弁護士の令嬢だから、そのことはよく知っている」
ブレイクは一瞬言葉に詰まった。
彼らを取り囲む村人たちは事態を把握しかねているようで、互いに何事か囁き合っていた。
「それなら、私に罪がないことはわかっていただけますね?」
ブレイクはぎこちなく笑った。
「残念だが、それには同意しかねる。君が罪を犯したことは疑いようがない。当家の紋章入りの便箋や封蝋を偽造して、新聞社に虚偽広告の掲載を依頼する手紙を出したのだから」
アルバートが言うと、まるでその言葉を理解したかのようにプリンスが一度小さく吠えた。
周囲の村人たちもそれぞれに驚きの言葉を述べている。
事情通の誰かが「偽造罪は重労働刑になることもあるって聞いたことがあるぞ」などと言う声も聞こえた。
「でも、それは妻を家に帰させるためです。アルバート卿、同じ夫ならわかるでしょう?あなたなら私の罪を許してくださるはずです」
ブレイクはアルバートに縋るように手を伸ばしかけたが、警察官により阻まれた。
「ミスター・ブレイク、どうも君は記憶違いをしているようだ。これは君と私の問題ではない」
アルバートが静かに告げると、ブレイクは顔を引きつらせた。
「虚偽広告で騙られたのは私の名ではない。あの虚偽広告の末尾は『メラヴェル女男爵の名の下に』だった。君は我が奥方メラヴェル女男爵の名を騙ったのだよ」
アルバートはそう言って後ろを振り返った。
そこにいた彼の妻メラヴェル女男爵のヘーゼルの瞳には一片の迷いもなかった。
彼女は前に進み出ると、はっきりと言い切った。
「サンダース警部、先ほどの言葉——『虚偽広告事件を告訴しない』と言ったのを取り消します。私、レディ・メラヴェルは、この事件の犯人ミスター・ブレイクを告訴します」
その言葉にサンダース警部は姿勢を正し、村人たちはどよめいた。
「馬鹿な!そんなことをしたらあの子はどうなる?あの子も罪に問われるぞ!」
ブレイクは叫んだが、女男爵のヘーゼルの瞳は揺らがなかった。
それどころか彼女の瞳は輝きを増していた。
女男爵は周囲の数人だけに聞こえるように声を落とした。
「先ほどあなたが自分でおっしゃったのではなくて、ミスター・ブレイク?『幼児以下の頭の悪さ』——私は同意しかねますが、識字障害のある人が世間でそう見られてしまうのは残念ながら事実です。そして、そうだとすると、彼女は『何もわからないままに、道具として使われただけ』ということになりますわ。『道具』に罪はありません。私も女男爵として、そのような裁定が下されるよう力を尽くします」
「そんな……あり得ない。絶対に……」
ブレイクは力なく言い、地面に沈み込むように脱力した。
警部の指揮の下、二人の警察官が苦労して彼を立ち上がらせ、そのまま連行して行った。
先ほどまでブレイクの顔を舐めていたプリンスは、不思議そうに元主人の背中を見つめていたが、追いかけることはなかった。
プリンスはミセス・グレンロスとミス・エムに付き添われて遠巻きに成り行きを見守っていたミセス・ブレイクを見つけると、尻尾を振りながら彼女の方へと戻って行った。
一方、メラヴェル女男爵夫妻も寄り添いながら遠ざかるブレイクと警察官たちを見ていた。
彼らの姿がすっかり小さくなると、アルバートはため息をついた。
「やれやれ、散々な一日だね」
「そうかしら?私はあなたがハムを投げる姿を見られて良かったわ」
妻の悪戯っぽい微笑みを見て、アルバートは思わず苦笑した。
「素敵だったわよ、あなた」
「君には負けるけどね、マイ・ディア」
二人は密やかに笑みを交わし、村人たちの方を振り返った。
先ほどの出来事は忘れて、残りの時間いっぱい秋祭りを楽しんでほしいと告げねばならない。
きっかけは虚偽広告だったが、やはりこの秋祭りの主催者はメラヴェル女男爵とその家族なのだから——。




