18. 騙られた名は?①
※舞台となる時代の価値観に基づく、学習障害に対する偏見や誤解を含みます。
フットマンのサムから女男爵が呼んでいることを知らされたアルバートがくじ引きのテントの裏に辿り着いたとき、そこには四人の女性と一人の男がいた。
彼は状況を見極めようと、一同から少し離れたところで立ち止まり、一人ひとりに視線を向けた。
まず目についたのは、一同の中心に立っている一人の男。
どこか侮蔑が覗く笑みを浮かべている。
アルバートは、妻のメラヴェル女男爵がミセス・ブレイクを探していたことと、この場の異様な緊張からして、彼こそがミスター・ブレイクなのだと理解した。
——この男が妻に暴力を振るっていたことは明らかだ。
秋祭りで会ったブレイク母子の様子からそう確信した彼は、義母ミセス・グレンロスと話した際に、そのことを伝えていた。
今、その義母は怯えているミセス・ブレイクを庇いながら、さり気なくその場から遠ざかろうとしているようだった。
義母の視線が一瞬だけアルバートの方に向けられたので、彼は頷きを返した。
それから、ミス・エム。
立ち尽くす姿に、先ほど案内板の前で所在なさそうにしていた姿が重なった。
皆、どうやら彼女の言葉の続きを待っているらしい。
そして、彼の妻メラヴェル女男爵。
アルバートが到着した際に、微かに体をこちらに向けたので、彼の存在には気づいているようだが、そのヘーゼルの瞳はミス・エムだけを見つめていた。
まるで彼女の次の言葉に全てがかかっているとでもいうように。
暫しの沈黙の後、ついにミス・エムが話し始めた。
「女男爵様、おっしゃる通りです。新聞社への手紙を書いたのは私ではありません。私には書くことができませんでした。私は……文字の読み書きができないのです」
一息に言ったミス・エムの頬は真っ赤に染まっていた。
「もちろん、前に住んでいた村の小学校で一通りのことは習いました。友達も助けてくれました。でも、どんなに練習してもできるようになりませんでした……」
アルバートは、思わず瞬きをした。
頭の中に今日見聞きしたことが浮かんでは消えていく。
——ミスター・ベントリーに「抜けている」と評されていた彼女。
——秋祭りの案内板の前で戸惑っていた彼女。
——ダニーから犬の首輪に刻まれている名を正確に描いてくれないと不満をぶつけられていた彼女。
——……そういうことだったのか。
彼女は識字障害——つまり、知能には問題ないのに文字を読んだり書いたりすることに困難を抱えていたのだ。
女男爵が気づいたのはそれだった。
しかし、無理に暴き立てず、ミス・エムの勇気に賭けたのだろう。
「ミス・エム、ありがとう。あなたの勇気に深く感謝するわ」
女男爵はミス・エムに優しく言って、ブレイクの方に向き直った。
「お聞きになりまして?ミスター・ブレイク。読み書きのできないミス・エム一人の力では、広告の掲載依頼の手紙を書くことはできません。新聞社に届いた手紙は紳士らしい筆跡だったと聞いていますが、牧師のミスター・ベントリーと同じパブリック・スクール出身のあなたであれば、紳士らしい筆跡で書くことができますね?新聞社が受け取った手紙の筆跡とあなたの筆跡を専門家に鑑定してもらえば、動かぬ証拠になります」
女男爵が言い切ると、ブレイクの顔が歪んだ。
「ミス・エム、発言を今すぐ撤回するんだ。人前でそんなことを言って……君はどこまで頭が悪いんだ!」
彼は叫ぶように言った。
しかし、それでも、ミス・エムは震えながら話し始めた。
「ミスター・ハンフリーズ……いえ、ミスター・ブレイク、そうです。私は読み書きすらできません。だから、頭が悪いのは本当です。でも、もう黙っていられません」
ミス・エムは痛みに耐えるように一度息を吸い込んだ。
「こんなことになったのは、私のせいです。私がある望みを叶えたいと、あなたに相談してしまったからです。木曜市で出会ったときに、あなたは私の絵をとても褒めてくれて、准男爵様に売り込むと言ってくれたので、すっかり信じていたんです」
「お願いだ。少し黙ってくれ、ミス・エム」
ブレイクが鋭く言ったが、ミス・エムは首を振った。
「私が望みを打ち明けたとき、あなたはメラヴェル男爵家に秋祭りを開いてもらえれば、それが叶うだろうと言いました。嘘の広告を出して、無理に祭りを開かせればいいのだと。お優しい女男爵様と気高い旦那様、賢いお母君なら、村人の期待を裏切れないから、きっとそうするだろうと……」
ミス・エムの瞳には涙が光っていた。
女男爵が彼女に向けて優しく頷くと、ミス・エムは更に話を続けた。
「私はすっかりその気になって、叔母さんが未開封のまま取っておいた男爵家からのお見舞い状を彼に渡してしまいました——最初に会ったときに、世間話として子豚泥棒の件を話してしまったのです。あなたはそのお見舞い状からナイフで封蝋を剥がして再利用するのだと言いました。私もお見舞い状の便箋の図柄をお手本に、便箋に女男爵様の紋章を描き写して、偽物の便箋を作ってしまいました。予備用を含めて何枚も。そして、あなたは読み書きができない私に代わって、手紙の中身や宛名を書いてくれました。でも、でも、まさか——」
ミス・エムの瞳から涙が零れ落ちた。
「まさか……『地元の皆さまは残らずお越しください。お子様大歓迎』だなんて。そんな広告文だったとは聞いていません!あなたがミスター・ハンフリーズではなくミスター・ブレイクで、あなたの暴力から逃げてきたミセス・ブレイクを呼び出して、連れ戻すための広告だったなんて……!」
ミス・エムの叫びが芝庭に響いた。
近くで秋祭りを楽しんでいた人々の一部が彼女の叫びに気が付き、数人がテントの裏の様子を窺った。
ブレイクは苛立たしげに顔を隠すように帽子のつばを下げると、冷たい口調で言った。
「じゃあ、仮にミス・エムは読み書きができなかったとしよう。だとしても、君は絵が上手いのだから、見本があれば文字だって書けるだろう?例のお見舞い状はきっと紳士の筆跡で書かれていたはずだ。君はそれを真似て紳士らしい筆跡で書いた手紙を新聞社に出したんだ。彼女一人では、文字を使って文章を作れないということなら、私が何に使うかは知らないまま文章だけ作ってやったことにしてもいい。いずれにしても、手紙を書いたのは彼女だ」
「いいえ、それも彼女には困難なのです。皆さんにスケッチブックを見せても良いかしら、ミス・エム?」
女男爵に問われたミス・エムはおずおずとスケッチブックを差し出した。
それを受け取った女男爵はパラパラとページを捲り、あるページを掲げるようにブレイクに見せた——青い瞳のダニーと眠る犬の精緻な絵が描かれたページだ。
「この絵を見てください。ダニーと彼の愛犬プリンスの絵です。この犬のことは、ミスター・ブレイクもよく知っていますね?先月までロンドンのブレイク家で暮らしていた犬なのですから」
「それがどうしたんだ?」
ブレイクは喘ぐように言った。
「プリンスの首輪には、名前が刻印されたプレートがあるはずです。プリンスはこの秋祭りにも来ているので、私もさっき実物を見ました。しかし、ミス・エムが描いたこの絵の中のプレートには何も描かれていません」
「だから、それがどうしたんだ?敢えて省略しただけだろう?そうだ。犬は動き回るから字がよく見えなかったんだ。きっとそうだ」
ブレイクは誰かに同意を求めるように辺りを見回していたが、女男爵は首を振った。
「『敢えて省略した』というのは不自然です。他の部分がこんなに正確なのに首輪のプレートだけ手を抜く理由がありません。『犬は動き回るから』というのも妙です。この絵のプリンスはよく眠っています。動かない犬の首輪の文字なら、読み取ることができるはずです。通常であれば。しかし、ミス・エムは目の前に文字があっても正確に読み取ることができないのです。お手本があったとしてもその通りには書けないのです。無理に書こうとすれば、文字が反転したり、不格好になったりしてしまうのでしょう」
女男爵が鋭く指摘すると、ブレイクは一歩後ずさったように見えた。
「全部でたらめだ!全ては君がやったことだ、ミス・エム。君の幼児以下の頭の悪さが知られたら、君や君の叔母さんの村での立場はどうなる?そんなこともわからないなんて!罪を免れるために、できないふりをしているだけだろう?さあ、そうだと言うんだ!」
ブレイクは最早焦燥を隠せていなかった。
「いいえ、ミスター・ブレイク。私も先日慈善活動に熱心なレディ・トラヴァーズから最新の研究動向を聞いて初めて知りました。世の中には、識字障害といって、読み書きに困難を抱えている人がいます。『できないふり』をしているわけではありません。必要であれば彼女の叔母やアダムス商店のミセス・アダムスも証言するでしょう。叔母のミス・ケリーは少なくとも察しているようでしたし、ミセス・アダムスもミス・エムの買い物メモを代わりに読んであげていたようですから」
ブレイクの怒りに燃えた視線が女男爵に向けられたが、彼女の声は少しも揺らいではいなかった。
「それに、先ほども言いましたが、ミス・エムが自分の目的のために計画したことなら、広告に『地元の皆さまは残らずお越しください。お子様大歓迎』という文言は必要ありません。この広告文を考えたのは、ミセス・ブレイクを公の場に引っ張り出したかったあなたです。そして、実際に手紙の文面を書いたのもあなた。そうなれば、虚偽広告事件の犯人は、やはりあなたであると言わざるを得ませんわ、ミスター・ブレイク」
女男爵のヘーゼルの瞳は、よりいっそう鋭くなった。
「そもそも、ミス・エムの頭が悪いだなんてとんでもない誤解です。彼女は自分の告白が持つ意味をきちんと理解しています。それでも、ミセス・ブレイクとダニーを助けるために勇気を出してくれたのです」
「そんなことはどうでもいい!とにかく私は妻を家に連れて帰ります。夫として当然の権利ですから」
ブレイクはそう言うとミセス・ブレイクの方に駆け寄った。
ミセス・ブレイクと彼女を庇うミセス・グレンロスは、彼から少しずつ距離を取っていたが、当然すぐに追いつかれてしまう。
アルバートは彼女たちの方に一歩踏み出したものの、ブレイクは既にミセス・ブレイクに手が届く範囲まで踏み込んでいた。
しかし、すんでのところで、ミセス・グレンロスが開いた日傘を盾のようにして、彼の手がミセス・ブレイクの腕を掴むのを防いだ。
「アルバート!なんとかしてちょうだい!」
ミセス・グレンロスは、普段の彼女からは考えられない大声で叫び、アルバートを見た。
そして、そのまま娘であるメラヴェル女男爵の方に心配そうな視線を送った。
その瞬間、アルバートの脳裏にある記憶が蘇った——。




