15. 助けが必要ですか?
※家庭内暴力への言及を含みます。
メラヴェル女男爵夫妻がミス・エムと話していた頃——。
ミセス・グレンロスは白いテントの群れを挟んで彼らとは反対方向へと歩いていた。
彼女は一人ではなかった。
先ほど、エッグ・スプーンレースの会場で牧師夫妻や子供たちと一緒にいるところを見つけ、半ば無理やり連れだしたミセス・ブレイクと一緒だった。
ミセス・グレンロスは移動の途上、日傘の陰からさり気なく彼女の様子を観察した。
今日の彼女は、濃紺のデイドレスに揃いの地味な帽子を合わせ、首元には相変わらず流行遅れの黒いベルベットのチョーカーを着けている。
時々、その左手が所在なさそうにドレスの襟を撫でていた。
二人が人気のない場所——くじ引きのテントの裏——に着くとミセス・グレンロスは彼女に向き直った。
「ミセス・ブレイク、急に二人きりで話したいなんて言ってごめんなさいね。でも、もしかすると、あなたには助けが必要なのではないかしら?」
一瞬、ミセス・ブレイクの指が首元のチョーカーへと伸びたが、すんでのところで思い留まったようで、その指先はただドレスの襟元をなぞった。
その青い瞳——ダニーと同じ色だ——に警戒の色が滲んでいた。
「今回、虚偽広告のせいでこの秋祭りを開くことになって、改めて周囲に目を配ってようやく気づいたの。あなたが息子を連れて、ロンドンからこの村にやって来た本当の理由に」
「ミセス・グレンロス、おっしゃる意味がよくわかりませんが……。息子と私がこの村に来た理由は、夫が出て行ってしまったからで……あなたもご存知のとおりかと……」
ミセス・ブレイクは視線を逸らしながら言った。
一方、ミセス・グレンロスは彼女に視線を向けたままはっきりと語りかけた。
「妙だとは思っていたの。当初から今に至るまで、あなたも牧師夫妻も、あなたの夫を積極的に探す様子がなかったわ。あなたとダニーは牧師館にこもりきりだし、そして何より、その流行遅れのチョーカー。……あなたは夫の暴力から逃れてこの村に来たのでしょう?」
「いえ、まさか!そんなことあり得ません!」
ミセス・グレンロスはミセス・ブレイクがこんなにはっきりと話すのを初めて聞いた。
法廷弁護士の未亡人である彼女は、この反応の裏にある事情に心当たりがあった。
当代の英国の法の下では、当然、夫が妻に暴力を振るうことは禁止されている。
家長たる夫による「教導」の一環として暴力が容認されていた数十年前から考えれば随分良くなったとミセス・グレンロスは心から思っていた。
しかし、だからといって、暴力を受けた妻が容易に救われるわけではない。
——身の安全だけを考えれば、離婚するのが一番だけど、現実にはそうもいかないわ。
この社会において離婚は女性にとって最大の恥だ。
離婚した女性は、どんな理由であっても、世間の冷たい目に晒される。
上の階級ほど影響は深刻で、特に貴族にとっては王族と同席できなくなることが致命的だ——これは社交界からの事実上の追放を意味する。
ミセス・ブレイクは中産階級の女性だが、それでも、親戚や友人から付き合いを避けられ、居場所をなくしかねない。
そして、それを覚悟の上で離婚を望むとしても、次の難関がある。
妻から離婚を申し立てる場合、夫の不貞とその他の不行状を同時に証明しなければならない。
夫が申し立てる場合は、妻の不貞を証明するだけで良いにもかかわらず。
「その他の不行状」には暴力も含まれるが、生命の危機や継続性があるものでなければならない。
——狡猾な夫なら暴力の証拠を残さないようにするし、証拠を集めようとしていることに気づかれれば、どんな苛烈な報復が待っているかわかったものではないわ。
——そもそも、そういう夫が都合よく不貞を働いてくれるとも限らないし……。
離婚が困難となれば、別居が当座の解決策になるが、夫が夫婦の同居義務を主張すれば、まず反論できない。
裁判により法的に別居を認めてもらうこともあり得るが、やはり別居に足る事由を一つは証明しなければならないので、証拠がないと厳しい。
ミセス・グレンロスは内心でため息をつきながらも、話を続けた。
「ミセス・ブレイク、あなたはきっと証拠を揃えて正式な手続きを進める間もなく家を出ざるを得なかったのね?」
「いえ、ミセス・グレンロス。何か誤解なさっていますわ。私は……いえ、夫は……」
ミセス・ブレイクの視線が地面を彷徨った。
その反応からして、ミセス・グレンロスは自分の推測が当たってしまったことを確信した。
ミセス・ブレイクが正式な手続きを経ないまま家を出たとすると、様々な問題が生じる。
——そうなると、形式上は、ミセス・ブレイクが一方的に妻としての義務を放棄したことになってしまうわ。
——ダニーの扱いもそう。今の状況では、勝手に息子を連れ出したことになってしまう……子の親権は原則父親の権利だから彼女は不利な立場に置かれるわ。
このままでは法的にも世間からも、責められるのはミセス・ブレイクの方だ。
だからこそ、牧師夫妻は、ミセス・ブレイクが差し当たって村で暮らせるだけの体面を保つために、彼女が家を出たのではなく、夫が出奔したことにしなければならなかったのだ。
ミセス・グレンロスは俯いたままの彼女に向けて語りかけた。
「ミセス・ブレイク、どうかわかってちょうだい。私はあなたの味方です。法律や世間がどうあれ、私はあなたが家を出た判断を支持します」
その言葉にミセス・ブレイクは、はっとして顔を上げた。
「そのチョーカーで隠しているものが最後のきっかけになったのでしょう?」
ミセス・グレンロスの鋭い視線がミセス・ブレイクのチョーカーに向けられる。
その黒いベルベットの下には何らかの暴力の痕跡が残っているはずだ。
昼餐前に執事のミスター・ウェルズとフットマンのトムがダニーが杖を怖がっていた話をしていたが、それを踏まえて考えると、杖による暴力だったのかもしれない。
トムはダニーが学校の教師が持つ懲罰杖を連想して怖がったと思ったようだが、まだ学校に通っていないダニーが教師の懲罰を想像したとは思えない。
「でも、あなたはそれを公に訴えることはできなかったのよね。裁判所に訴えても夫婦間の問題だと言われてまともに取り合ってもらえないし、ミスター・ブレイクから報復を受ける可能性もあるもの。よくわかるわ。本当よ」
ミセス・ブレイクは視線を落として考えを巡らせていたようだったが、間もなくため息を漏らし、どこか諦念の滲む沈痛な面持ちで頷いた。
「ええ、全てあなたのおっしゃる通りです、ミセス・グレンロス。でも……一度は、何か方法がないか、知人の事務弁護士に密かに手紙を送って相談したこともあったのです。ただ、いつの間にか夫がその内容を全て知っていて……。それ以上はもう……」
ミセス・ブレイクはチョーカーを手でそっと押さえた。
「その後はずっと耐えていたのね」
ミセス・グレンロスが言うと、ミセス・ブレイクは小さく頷いた。
「ええ……私がちゃんとしていれば……我慢していれば大丈夫だと思っていました。でも、先月ようやく気づきました。このままではダニーの心に取り返しのつかない傷を負わせてしまうと。それで、夫の留守中に息子と共に家を出ました。幸い姉夫妻は私たちの味方になってくれました。ミセス・グレンロス……どうか、気づかなかったことにしていただけないでしょうか。このまま夫から隠れて、どうにか方法を考えたいだけなのです。もしくは、夫が諦めるのを待ちたいのです。でも、私が正式な手続きを経ずに家を離れたことが世間に知れれば、姉夫妻にも迷惑が……」
彼女の言う通り、よりにもよって牧師とその妻が、妻としての神聖な義務を放棄した女性を庇っていると知れれば、保守的な村人からは白い目で見られるだろう。
村人たちからの信用を失えば、牧師夫妻はこの村にいられなくなるかもしれない。
「私もそうしてあげたいわ、ミセス・ブレイク。でも……ミスター・ブレイクが数週間前にこの村に来ていたことを知っていて?当家の執事が<アザミ亭>で彼と会ったと言っているの」
「まさか……」
ミセス・ブレイクは息を呑んだが、作ったような明るい声で言った。
「でも、大丈夫だと思います。今のところ夫からは何の音沙汰もありませんから。牧師館に来ないのは地位でも腕力でも勝てない義兄を恐れているからでしょうが、普通なら私たちの居場所が分かった時点で、警察や治安判事に訴えて息子の引き渡しだけは求めてくるはずです。それをしないということは、もう家族への関心を失ったのだと思います」
ミセス・グレンロスはできることなら頷きたかったが、どうしてもできなかった。
「どうかしら……。確かにまだ家族への関心があるなら、息子だけは取り返そうとすると思うわ。普通であればね。でも、もし、彼がダニーよりもあなたを連れ戻すことにこそ、こだわっているとしたら……?」
「そんな……!でも、そうであったとしたら、尚更ダニーの引き渡しを要求するのではないですか?ダニーが戻るなら私も母親として一緒に戻らざるを得ないことは彼もわかっているはずですから。そうですよね、ミセス・グレンロス?」
ミセス・ブレイクは切実に言い、ミセス・グレンロスを見た。
同意を期待されていることは明らかだった。
しかし、ミセス・グレンロスはただ視線を落とし、これまで見てきた数人の女性たちのこと、そして、彼女たちの夫のことを思い返した。
まだ郊外の牧師の娘だった頃、両親の牧師夫妻が気にかけていた村の婦人の痣と無気力な表情。
法廷弁護士の妻になってから、彼女の立場を頼りに相談を寄せた女性のか細い声と合わない視線。
一方、彼女たちの夫は決まって感じが良く、社会的な序列に気を遣って過剰なほど礼を尽くす紳士だった。
しかも、弁が立つので、彼らと話しているとまるで妻の方に問題があるように思えてくる——妻本人でさえそう信じ込む。
だが、結局は、どの夫も妻を支配することへの異常な執着を隠せなくなるか、その前に妻共々支援者の前から消えてしまうのだ。
「おそらく……彼はダニーに対する親権を利用して母としてのあなたを取り戻すより、妻として自発的に『戻る』と言わせたいのよ、ミセス・ブレイク」
——一度失った支配を完全な形で取り戻すために。
ミセス・グレンロスは、ミセス・ブレイクを怯えさせたくなくて最後の言葉は内心に留めたが、それでも彼女の青い瞳にははっきりと恐怖が映っていた。
ミセス・グレンロスは彼女が人目に触れないよう、さり気なく日傘の角度を変えた。
「あなたの言う通り、彼が義兄のミスター・ベントリーを恐れているなら、明日以降はこれまで通り牧師館から出ず、接触の機会を絶てば大丈夫だとは思うの。『説得』の隙を与えることが一番危険ですからね。日曜日の礼拝は仕方ないけれど、住んでもいない村の教会で騒ぎを起こすなんて、体面を傷つけることはしないでしょう。でも——」
ミセス・グレンロスは一度長く息を吐いた。
「でも、どうもそれだけでは安心できないの。すごく嫌な予感がするのよ……。あなたも同じように感じているのではないかしら?」
ミセス・ブレイクは否定しようと口を開きかけたように見えたが、やはり肯定せざるを得ないのか、蒼白な顔で黙り込んでしまった。
そこで、ミセス・グレンロスは改めて彼女に向き直った。
「ミセス・ブレイク、もう一度言いますが、私はあなたの味方です。娘のレディ・メラヴェルにはまだ話していませんが、娘も必ず味方になります。娘の夫も同じです。だから、ここは女男爵の権威に頼りましょう」
「でも、貴族の方にご迷惑をおかけするわけには……!」
ミセス・ブレイクは勢いよく首を振ったが、ミセス・グレンロスは彼女の肩に優しく手を置いた。
「大丈夫。この村の人々を守ることもまた娘の女男爵としての義務であり責任です。あなたはもうこの村の一員ですから、レディ・メラヴェルとその家族が必ずあなたの力になります。実際、娘も私もこの地域のほぼ全ての治安判事と知り合いだから、きっとできることがあるはずよ」
ミセス・グレンロスが微笑みを作ってそう言うと、ミセス・ブレイクも微かな笑みを返した——ように見えたが、その笑みはすぐに消えてしまった。
彼女はミセス・グレンロスの背後に視線を向け、凍り付いていた。
その視線の先に誰かがいるのだと悟ったミセス・グレンロスは、彼女の視線を辿って日傘を肩にかけたままゆっくりと振り返った。
そして、静かに息を呑んだ。
いつの間にか背後に立っていた男性にはっきりと見覚えがあったからだ。
それどころか、彼とは先ほど会って話したばかりだった。
やや小柄だが、黒髪を品よく整えた40歳前後の柔和な紳士——准男爵家の食客である画家ハンフリーズ。
——……いえ、違ったのだわ。
先ほど彼が言った言葉が思い出された。
——「あの執事は足に怪我をしているようだ。別邸のあなたの執事ですよね?」
午前中、隣村の准男爵家で会ったときには、ハンフリーズはこれまでメラヴェリー村に行ったことがないと言っていた。
それなのに、彼はミスター・ウェルズを見て、すぐに彼が別邸のミセス・グレンロスの執事だと気が付いた。
——確かにウェルズは執事にしか見えない服装と振る舞いだったわ。
——でも……。
メラヴェル男爵家には、本邸の執事もいる。
そして、あのとき、ミスター・ウェルズの近くには、その本邸の執事ミスター・フィリップスもいた。
村人ですら彼らと面識がなければ、一見しただけでどちらがどちらの執事なのか判別することはできない。
まして初めて村に来た人間なら、尚更わかるはずがない。
つまり、彼の正体は、ミスター・ウェルズの顔や身分をよく知っている人間——そして、メラヴェリー村に来たことがないというのもおそらく嘘。
ミセス・グレンロスが日傘の柄を強く握り締めるのと同時に、男はにこやかに言った。
「ドロシー、やっと見つけた。ロンドンの家に帰ろう」
***
その頃——。
アメリアは、アルバートとミス・エムを伴って、ミセス・ブレイクを探しながら芝庭を歩いていた——正確には歩くよりは若干速く足を動かしていた。
まずは、ココナッツ倒しの会場で牧師夫妻と子供たちを見つけ、ミセス・ブレイクの居場所を尋ねたところ、彼女はアメリアの母ミセス・グレンロスと共にどこかへ行ったらしいことがわかった。
そこで、アメリアは屈強な牧師にダニーの側から絶対に離れないようお願いして、今度はミセス・ブレイクに加えて母も探し始めた。
アルバートとミス・エムが走って遠くの方を探すと言ってくれたので、会場の端は彼らに任せることにした。
アルバートが走り去る直前に、ちらと彼女の表情を窺ったことから、アメリアは自分が青ざめているのだと知った。
――ああ、私は早く結論を出し過ぎたのだわ。
アメリアは未だに先ほどと同じ場所でエールを飲んでいる三人の警察官と目礼を交わしながら考えた。
午前中、早々に虚偽広告事件の犯人はミス・エムであるという結論に至ったが、それは表層に過ぎなかった。
あることを前提にすると、事件の全てがひっくり返る。
——さっきアルバートが言っていた……案内板の前で所在なく見えたというミス・エム。
——そして、あのダニーとプリンスの絵。
——そもそも、午前中に彼女の叔母が言っていたのに……!
アメリアはチャリティ・バザーのテントの前を通り過ぎていた——牧師夫人が手作りしたラベンダーのポプリはもう品薄だ。
その隣のくじ引きのテントのテーブルに置かれた景品に視線を遣ると、先ほどミス・エムが言及した絵画が目に入った。
画題はスイートピー、デルフィニウム、ラベンダー。
先月までならどれも牧師館の庭で見ることができたはずだ。
——この事件は先月から動き始めていたのだわ。
——そう考えれば、あの広告の文面「地元の皆さまは残らずお越しください。お子様大歓迎」の目的も明白……。
アメリアは日傘の柄を握る手に力を込めた。
――手遅れにならない内に見つけないと……。
――どうか間に合って。
——ミセス・ブレイク、それから、お母様も、一体どこにいるの?
「女男爵様!」
くじ引きのテントの陰から走り出てきたのはミス・エムだった。
「こちらに……!」
アメリアが彼女が指し示すテントの裏手を見ると、探していた二人の女性の姿があった。
だが、そこにいるのは、彼女たちだけではなかった。
彼女たちの近くには、見知らぬ男が立っていた。
アメリアは近くにいたフットマンのサムを呼び寄せ、アルバートを呼んでくるように頼んだ。
差し迫った雰囲気を察したらしいサムが走っていくのを見送ったアメリアは、すぐにミセス・ブレイクと母の元へ向かった。
ミス・エムもそれに続いた。
アメリアはできればすぐに二人の女性の側に駆け寄りたかったが、近くにいた男がこちらに視線を向けてきたので、彼から少し距離を空けて立ち止まった。
その男は、アメリアとミス・エムを見て、少し目を細めた。
そして、フェドーラハットを少し持ち上げ、微笑んだ。
整えられた黒髪、やや小柄だが筋肉質な体格、柔らかな物腰——どこからどう見ても立派な紳士だ。
しかし、アメリアは彼に微笑みを返さなかった。
彼が誰なのかはよくわかっていた。
「当家の秋祭りにようこそ、ミスター・ブレイク。是非一度お話ししてみたいと思っていましたのよ」
■推理中の方向けのご案内
次章以降、メラヴェル女男爵が全ての謎を解きます。
明確な答えに行きついている方もそうでない方もお楽しみいただける内容になっていれば良いのですが……。
引き続きよろしくお願いします!




