第11話 都合のいい景色
雨は、まだ止みません。
校庭に響くのは悲鳴と非常ベル、そして武器がぶつかる音だけ。
十彩獣団はそれぞれの敵と対峙し、戦いは乱戦の様相を見せ始めます。
蓮が向き合うのは、鬼暗憎という「理屈」です。
彼の言葉には、確かに社会の歪みへの実感がこもっています。
けれど、その歪みを盾にして、自分がしたことから目を逸らす者がいる。
蓮はその歪んだ景色に、ただ静かに槍を構えます。
一方、慎悟と悪路漢の刃も、再び交差しようとしていました。
今回は少し長めの一話です。
雨の中の攻防を、どうぞごゆっくりお楽しみください。
大振りの刀が、雨を裂いて振り下ろされる。
蓮は半歩だけ引いた。切っ先が頬をかすめ、冷たい飛沫が首筋を打つ。鬼暗憎の巨体が、泥を撥ね上げながらなおも迫ってくる。
非常ベルと生徒たちの悲鳴が、遠く近く、絶え間なく校庭へ響いていた。土はすでに泥へと変わり、水溜まりが灰色の空を映して揺れている。
大振りの刀が唸りを上げる。空気ごと押し潰すように振り下ろされる一撃には、力任せの粗さと、それを補って余りある質量があった。
蓮は正面から受けなかった。
半歩だけ引く。蒼流槍の柄で軌道をわずかに逸らす。それだけの動きだった。刀は蓮の頬をかすめ、その先の水溜まりを大きく爆ぜさせる。
「またかわすのかよ」
鬼暗憎が舌打ちする。
「冷静な奴は得だよな」
返事を待たずに、言葉が続いた。息が上がっているのか、それとも別の何かでかすれているのか、声の端がわずかに震えている。
「黙って立っているだけで、大人から信用される」
「俺たちみたいな奴は、何をしても最初から疑われる」
言葉には、粘つくような実感がこもっていた。教師に呼び出されるのはいつも自分だった。理由も聞かれずに疑われた。誰かが冷静に説明すれば、それだけで信用された。自分が同じことを言っても、言い訳としてしか扱われなかった。
蓮はその言葉を否定しなかった。
学校という場所に、そういう歪みがあることは知っている。理不尽な信用の偏りも、態度ひとつで扱いが変わる不公平さも、蓮自身が見てきたものだ。
だが鬼暗憎は、その歪みの話だけをしている。
警察官を斬りつけたことも、通りかかった恋人を襲ったことも、口にしない。自分に都合の悪い部分だけを、器用に切り離している。
蓮の脳裏に、一瞬だけ別の記憶がよぎった。
冷静でいようとして、言いたいことを飲み込んだ夜。誰にも話さなかった迷い。それは蓮だけが知っている感情で、今ここで語るつもりのないものだった。
蓮は静かに槍を構え直す。
「お前が俺をどう思うかは自由だ」
雨音の中で、声だけが妙にはっきりと届いた。
「だが、それを誰かを傷つける理由にはさせない」
鬼暗憎の顔が歪む。
「……その余裕が、気に食わねえんだよ!」
咆哮とともに、鬼暗憎が地面を蹴った。
蓮は動かなかった。正確には、無駄に動かなかった。
鬼暗憎の踏み込みに合わせ、蒼流槍の石突が前足を軽く払う。体勢がわずかに傾いた瞬間、槍先から放たれた水流が刀の軌道をさらに逸らす。
一撃、また一撃。
鬼暗憎の攻撃は止まらない。だが、当たらない。
蓮は槍を回転させ、勢いを受け流しながら半歩ずつ後退する。
その後退には意味があった。
避難する生徒たちの動線から、鬼暗憎を遠ざけるための後退だった。誰にも説明せず、誰にも気づかれないまま、蓮は戦場の形を少しずつ塗り替えている。
「くそっ、くそっ、動くな!」
苛立ちが大振りをさらに大きくする。振り下ろした刀が空を切り、深い水溜まりへ叩き込まれる。
飛沫が視界を奪う。
その一瞬を、蓮は待っていた。
槍が水流をまとい、大きく崩れた鬼暗憎の腕を横から強く押し流す。武器を持たない拳が、明後日の方向へ流される。
完全な隙が生まれた。
蓮は自分の強さを、一度も言葉にしなかった。
敵の癖を見ること。攻撃が仲間や生徒へ向かわない位置を選ぶこと。危険を引き受けながら、被害を最小に抑える動きを積み重ねること。
それは才能ではなく、繰り返された選択の結果だった。
蓮が蒼流槍を構え直す。
穂先が雨を裂き、鬼暗憎の心臓へ向けて放たれようとした、その刹那。
校庭の別の場所で、悪路漢が体勢を崩した。
慎悟の刃が、松影を弾き飛ばす寸前まで迫っていた。
鬼暗憎の視線が、そちらへ引き寄せられる。
理屈より先に、身体が動いた。
自分たちだけは仲間だ。悪路漢だけは自分を見捨てない。
その歪んだ確信にすがりつくように、鬼暗憎は蓮の攻撃へ自ら飛び込んだ。
「待て――」
蓮は槍を止めようとした。だが勢いと距離は、すでに間に合わなかった。
蒼流槍の穂先が鬼暗憎を貫く。浄化の水流が、その輪郭を崩していく。
鬼暗憎は膝から崩れながら、それでも笑おうとしていた。
「俺たちは……悪くなかった」
「ただ、最初から疑われていただけだ」
その言葉の中に、悪路漢を守れたことへの満足だけは、確かに滲んでいた。
水煙とともに、鬼暗憎の身体が霧散していく。
悪路漢は駆け寄らなかった。
名前も呼ばなかった。
松影を握る手だけが、柄を締め上げるように強張っていた。指の関節が白く浮き、雨水がその上を伝い落ちていく。
倒れた場所の向こうから、ただ慎悟だけを睨みつける。
「またお前が奪った」
「北潟さえいなければ、あいつは死ななかった」
蓮はその言葉を、雨の中で黙って聞いていた。
鬼暗憎を斬ったのは自分だ。鬼暗憎が飛び込んだのも、鬼暗憎自身の選択だった。
それでも悪路漢は、事実の順番を組み替え、すべてを慎悟の存在へ押しつけている。
見ているのは、起きたことではない。
慎悟を憎むための形に、都合よく作り替えた景色だった。
雨が、鬼暗憎の消えた場所を叩き続ける。
血も泥も流れ去っていくが、そこにあった責任だけは、流されずに残っていた。
◇
校庭の反対側では、鬼乱怠の金棒が空気を裂いていた。
一振りごとに泥と水が爆ぜ、地面が抉れる。
柿原翔一が、その周囲を高速で駆け回る。
「おいおい、そんな振り回し方じゃ、校舎の窓ガラス代まで請求されるぞ!」
軽口に、鬼乱怠が牙を剥く。
「うるせえ、うるせえ、うるせえ!」
金棒が翔一の頭上へ叩きつけられる。翔一は紙一重で跳び退るが、風圧だけで頬が痺れた。
冗談を言っている場合ではない。
だがその軽さこそが、翔一が背後の校舎へ攻撃を向けさせないための、唯一の盾だった。
少し離れた場所で、熊坂健太は玄牙棒を構えたまま動かない。
「おい、そこの図体だけの方はビビってんのか」
鬼乱怠の挑発を、健太は無視した。
動くべき瞬間はまだ来ていない。
翔一が必ず隙を作る。それを疑ったことは一度もなかった。
翔一の烈翔棍が、鬼乱怠の腕を、手首を、金棒を、繰り返し叩く。一撃では崩れない。だが角度は少しずつ、上へ向けられていく。
「重いの一発、頼むぜ健太!」
「お前は黙って隙を作れ!」
短い応酬が、雨の中に交錯する。
翔一が最後の加速に入る。烈翔棍が下から金棒を撥ね上げ、鬼乱怠の視線ごと空へ跳ね上げた。
胴体が、無防備に晒される。
健太が地を蹴った。
玄牙棒が、鬼乱怠だけでなく地面ごと叩き潰す勢いで振り下ろされる。
衝撃で泥と水柱が同時に噴き上がった。
速度が道を作り、重量が決着をつける。
鬼乱怠の巨体が、水溜まりへ深く沈んだ。
誰もが、決着したと思った。
だが、指先が動く。
砕けた金棒を杖に、鬼乱怠はもう一度立ち上がった。
骨が軋む音がする。身体の一部が崩れ、呼吸すら乱れている。
それでも悪路漢の前へ立とうとする足だけは、止まらなかった。
鬼になったことを、頭のどこかがまだ数えている。殺したことも、逃げてきたことも。
崩れた指先が泥を掴み、そこにわずかな力を探す。
膝が震え、崩れかけ、それでもまた持ち上がる。
その繰り返しだけが、鬼乱怠を前へ運んでいた。
鬼暗憎を失い、悪路漢たちの連携は崩れていた。
悪路漢は慎悟しか見ていない。
鬼乱怠は痛みを無視して突進を繰り返す。
翼の御札に追い詰められた恨禍は、周囲の憎悪を無差別に増幅させようともがいている。
戦術は失われ、乱戦だけが残っていた。
慎悟は、その空気の変化を肌で感じ取る。
統率された敵が、崩壊寸前の獣へ変わっていく。
◇
雨の中で、蒼王と松影が激突した。
一合、二合。
慎悟はすぐに違和感を覚える。
以前の悪路漢は、怒りに任せて斬りつけるだけだった。
だが今は違う。
松影の刃が、慎悟の踏み込みより先にそこへ置かれている。蒼王が受け流す方向を読み、二撃目が正確に重ねられる。
わざと肩を空け、慎悟の攻撃を誘っては、水溜まりを蹴り上げて視界を奪う。
泥の深い場所へ、じわじわと足を誘導される感覚もあった。
踏み出した右足が、思っていたより深く沈む。
一拍分、体勢が遅れる。
(俺の癖を、調べ尽くしてる)
踏み込む方向。守ろうとして半歩前へ出てしまう間合い。誰かを庇うために身体が勝手に動く、その瞬間の癖。
そのすべてが、松影の間合いに先回りされていた。
悪路漢は、ただ力を得ただけではない。
慎悟を倒すためだけに、この技を磨いてきた。
その努力は本物だった。
だが、向けられた先が違う。
誰かを守るためでも、自分を高めるためでもない。
選ばれなかった現実を消すためだけに、積み重ねられた刃だった。
鬼暗憎の死さえ、悪路漢の中では慎悟への憎悪に変換されている。
南海を見ているわけでも、仲間を悼んでいるわけでもない。
悪路漢が見ているのは、慎悟に勝って「選ばれた側」に立つ、自分自身の姿だけだった。
刃と刃が再び噛み合い、火花のような飛沫が散る。
悪路漢が力任せに蒼王を弾いた。
松影の切っ先を、まっすぐ慎悟へ向ける。
「お前を斬ることだけ考えてきた」
雨に濡れた声が続く。
「お前に勝てば、俺が選ばれる」
その一言に、慎悟は違和感を覚えた。
南海に選ばれる、という意味だけではない。
仲間に。社会に。自分自身に。
誰かを倒すことで、これまで得られなかったすべての承認を、まとめて手に入れられると思い込んでいる。
慎悟は長い言葉を返さなかった。
蒼王を構え直し、短く言い放つ。
「誰かを倒しても、お前の選択は正しくならない」
答えの代わりに、悪路漢の目が濁った憎悪で染まる。
二人が、同時に地を蹴った。
蒼王と松影が、雨を切り裂きながら再び激突する。
その響きの向こう、戦場のさらに遠くから、獣の咆哮に似た音と、少年の声がかすかに雨音へ混じっていた。
第11話、お読みいただきありがとうございました。
今回のタイトル「都合のいい景色」は、悪路漢の在り方そのものです。
鬼暗憎の死さえも、彼は自分への攻撃材料としてしか受け取りません。
起きた事実ではなく、慎悟を憎むために作り替えた景色だけを見ている。
その歪みに、蓮は言葉ではなく行動で応えました。
「お前が俺をどう思うかは自由だ。だが、それを誰かを傷つける理由にはさせない」
このセリフに、蓮というキャラクターの芯が表れていればうれしいです。
そして慎悟と悪路漢の一騎打ちも、いよいよ核心に近づいています。
悪路漢が積み重ねてきた刃の理由、その先にあるものとは。
次回「二つの覚醒」もどうぞお楽しみに。
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※本作の執筆・編集にはClaude(Anthropic)を使用しています。キャラクター設定・世界観・構成・最終判断は作者が行っています。




