第1話 雨に濡れなかった心
十彩獣団、新章開幕です。
第三章の激戦から三日後。北潟慎悟と坪江南海は、まだ戦いの重さを抱えたまま、雨の日曜日を過ごしています。
そして――二人を遠くから見つめる、もう一つの視線。
「選ばれなかった者」の物語が、ここから動き出します。
雨の匂いを感じながら、お楽しみください。
軋み。
誰も乗らないブランコの鎖が、風もないのにわずかに揺れていた。
遊歩道の水たまりには、絶え間なく落ちる雨粒が幾重もの波紋を広げていく。
六月の日曜日だった。
福江市には朝から、梅雨の冷たい雨が降り続いていた。
人通りの少ない公園に、傘を差す者の姿はほとんどない。
◇
北潟慎悟と坪江南海は、公園の奥にある大きな木の下で雨宿りをしていた。
葉群れが傘の代わりになっているとはいえ、二人の前髪も肩も、すでに半分は濡れている。
冷たい空気の中で、互いの体温だけが妙にはっきりと感じられた。
「まだ、手が震えてる」
慎悟は自分の右手を見つめたまま呟いた。
盤角と岩砲を倒してから、まだ三日しか経っていない。 刃を握った感触が、いまだに掌から抜けない。
元人間だった少年たちを、自分の手で沈めた。
勝ったという実感よりも、人を一人殺めたかもしれないという重さのほうが、ずっと長く居座っている。
「慎悟くんだけじゃないよ」
南海は慎悟の濡れたTシャツの袖を、そっとつかんだ。
「あたしも、まだ怖い。あの時の音、耳から離れない」
「俺がもっと早く動いてれば」
「それ言い出したら、あたしだって同じこと言える」
南海は慎悟の顔を見上げた。
雨の雫が頬を伝い、笑っているのか泣きそうなのか分からない表情になる。
「一人で抱え込まないで。あたしも一緒に、怖がっていいでしょ」
慎悟は何かを答えようとして、言葉が出なかった。
代わりに、南海の手をそっと握り返す。
指先が冷たい。
生きている人間の冷たさだった。
「俺も、同じだ」
それだけ言うのが、精一杯だった。
南海は小さく頷くと、目を閉じた。
互いが今も人間としてここにいることを確かめるように、慎悟も顔を寄せていく。
雨音が二人を包む幕になった。
唇が触れたのは、ほんの数秒。
それでも、そこには恋人同士の幸福だけではない、もっと切実な何かがあった。
痛みを分け合える相手がいる。
まだ自分は、鬼ではない。
唇が離れたあと、二人はどちらからともなく小さく笑った。
照れくささよりも、安堵のほうが大きかった。
◇
二人から三十メートルほど離れた木立の陰に、一人の少年が立っていた。
黒い傘も差さず、全身を雨に晒しているのは、轟木栄一だった。
彼はすでに赤黒い装甲鱗の姿ではなく、人間の輪郭を保っている。
だが腰には、金津美里から与えられた日本刀――松影が、濡れた鞘ごと差されていた。
栄一は木の幹に半身を隠したまま、視線を一度も外さなかった。
三十メートルという距離は、声を届けるには遠すぎ、表情を読み取るには近すぎる。
雨音が会話を溶かし、断片的な言葉だけが届いては消えていく。
南海の口元が動くのは見える。
だが何を話しているのかまでは分からない。
分からない部分を、栄一は自分の都合で埋めていった。
慎悟が南海を抱き寄せている。 南海が慎悟に縋っている。 きっと慎悟が、戦いで弱った南海につけ込んだのだ――
そんなはずがないと、頭のどこかでは分かっている。
それでも栄一の中では、見えない部分ほど都合よく塗り替えられていった。
◇
中学生の頃から、栄一は南海の明るさに惹かれていた。
誰に対しても分け隔てなく接する人懐っこさ。
学級委員の仕事で一人居残っていた栄一に、南海がふらりと顔を出して「手伝おうか」と笑いかけたことがあった。
体育祭の準備で道具を運びきれずにいた時、南海が黙って半分を持ってくれたこともある。
あの時の笑顔は、栄一の中学三年間でいちばん鮮明な記憶だった。
だが南海は、同じ親切を他の同級生にも、当たり前のように向けていた。
教室の隅で南海が誰かの忘れ物を届け、誰かの相談に付き合い、誰かと一緒に笑っているのを、栄一は何度も見てきた。
それを知らなかったわけではない。
それでも栄一は、自分にだけ特別な意味があると信じたかった。
今は皆に優しくしているだけで、いつか自分だけを選ぶはずだと。
告白したことは一度もない。
行動を起こしたことすらない。
それでも「自分が選ばれるはずだった」という確信だけが、孤独と劣等感の中で育っていった。
◇
南海が誰かに笑いかけるたび、栄一の喉の奥が細く締まった。
自分に向けられる笑顔だけが、他の誰のものとも違う特別な形をしているはずだと、そう思い込むことでしか、栄一は自分の輪郭を保てなかった。
だが今、南海は自分の意思で慎悟に近づき、自分の意思で唇を重ねた。
その光景は、栄一が長年かけて育ててきた幻想を、容赦なく打ち砕いた。
松影の柄に、栄一の指がゆっくりと伸びる。
強く握り込むほど、節が白く浮き上がった。
南海は誰かに与えられる賞品ではない。
奪い合う対象でもない。
自分の意思で慎悟を選んだだけだ。
喉の奥に、言葉にならない何かが引っかかっていた。
栄一はそれを飲み下すように、一度だけ強く目を閉じる。
瞼の裏に浮かぶのは、答えではなく、答えから目を逸らすための別の物語だった。
慎悟が、自分から南海を奪った。 慎悟が、何も知らないまま自分の居場所を奪った。
◇
木陰では、南海が小さく笑い、慎悟がわずかに表情を緩めている。
その何気ない自然さが、栄一には自分を嘲笑しているように見えた。
胸の奥で疼いていた何かが、じわりと熱を持ち始める。
栄一はそれに名前をつけようとしなかった。
名前をつけてしまえば、もう後戻りできなくなる気がした。
栄一の背後に、赤いアクロカントサウルスの鬼――悪路漢の気配が、影のように滲んだ。
周囲に降る雨粒が、その熱に触れて細かな蒸気となって消えていく。
それでも栄一は、二人へ襲いかからなかった。
今ここで斬るだけでは、足りない。
南海の目の前で、慎悟が選ばれる価値のない人間だったと思い知らせなければならない。
そのうえで、自分こそが選ぶ側に回ったのだと証明しなければ、意味がない。
◇
慎悟と南海は、最後まで栄一の存在に気づかなかった。
やがて二人は一本の傘へ身を寄せ合い、公園の東屋へ向かって歩いていく。
南海が水たまりを避けようとすると、慎悟が自然に歩幅を緩めた。
そのささやかな気遣いさえ、栄一の胸の奥を逆なでした。
二人の姿が雨の向こうへ消えたあとも、栄一はしばらく動けなかった。
木の葉から落ちた大粒の雫が頬を伝う。
それが雨なのか、それとも別の何かなのか、栄一自身にも分からなかった。
松影の柄から、栄一はゆっくりと手を離す。
だが殺意が消えたわけではない。
形のなかった嫉妬が、明確な目的へと変わっていくのを、栄一は確かに感じていた。
「北潟……」
押し殺した声が、雨音の中へ沈んでいく。
「お前が選ばれた理由ごと、俺が斬る」
栄一は踵を返し、誰にも気づかれぬまま、濡れた遊歩道を一人で歩き出した。
靴が水たまりを踏むたび、濁った雨水が黒いズボンへ跳ねる。
◇
公園の奥では、慎悟と南海が穏やかな時間の続きを歩いている。
その背後で、栄一の足音が雨の中へ消えていく。
同じ六月の雨の下を、二人は寄り添って歩き、一人は一人で歩いていく。
その距離が、いつからこれほど開いていたのか。
栄一自身にも、もう分からなかった。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
轟木栄一という少年は、誰かを傷つけたくて生まれたわけではありません。ただ、「自分が選ばれる価値のある人間だ」と誰かに証明してほしかっただけなのだと思います。
その飢えが、彼をどこへ連れていくのか。
次話「選ばれなかった五人」では、栄一と同じ傷を抱えた者たちが姿を現します。
第四章、雨はまだ止みません。
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