9. 騎士、見張りの夜に試される
横手に殺気が閃いた。
肌を刺してくる鋭い気配に、セドリックの身体が反射で動く。踏み込みは思考よりも速かった。眼前の魔物を斬り伏せると同時にそのまま剣を滑らせる。
空気を裂いた切っ先が、躍りかかる影を両断した。
どさりと音を立てて地面に崩れ落ちた死骸は狼によく似ている。しかし傷口から流れ出る黒い血が、この生き物は魔物──瘴気を宿す存在なのだと示していた。
「……多いな」
セドリックは一度だけ短く息を吐くと、剣先を軽く振って血糊を払った。
布で拭った剣を慣れた動きで鞘に収めながら、周囲に転がる3匹の魔物の死骸を順に瞳で追う。
「多いねえ」
少し離れた場所で、セルジュがのんきに相槌を打った。
リコリスを庇うように発動させていた結界が、魔力のきらめきとなって消えていく。
本来、村の周辺に魔物がうろつくことはほとんどない。
人間の気配と精霊樹があれば瘴気は薄まり、魔物は自然と遠ざかる。少なくとも、セドリックが知る王国各地の村や町はすべてそうだった。
にも関わらず、今回は道中に何度も襲撃に遭っている。
偶然で済ませられる回数ではなかった。
「やっぱり、精霊樹の生育が上手くいってないんだね」
セルジュは、息絶えた魔物に聖水を振りかけながらそう呟いた。
魔物は死骸からも瘴気が生まれる。放っておいても問題ない量ではあるが、旅人や流れの傭兵ならいざ知らず、王国に属する騎士や魔術師が放置するのはさすがに外聞が悪い。
聖水を浴びた途端、魔物の身体から薄く立ちのぼっていた瘴気が霧のように散っていく。
「そういえば精霊樹の若木って……王国は、精霊樹を育ててるの? マナ供給のため?」
リコリスは小首を傾げて傍らのセルジュを見上げる。
問いかける声は、好奇心と警戒が半分ずつ混じっているようだった。
「王城の一角に、精霊樹用の温室があるんだ」
セルジュはいつもの調子で軽く答えた。
「村や町の入植が決まれば、まず精霊樹の若木を植えて周囲の瘴気を浄化する。それが入植の第一歩、ってわけ。
瘴気を薄めて、ある程度大気中のマナが安定してから、ようやく人が住めるようになるんだよ」
「ふうん……」
リコリスは淡々と相槌を打った。
噴水を覗き込んでいたときと同じ目だ、とセドリックは思う。
単純な感嘆でも露骨な嫌悪でもない。ただ、世界の仕組みを測ろうとする目。
「育たないのはよくあることなの?」
「さあ?」
続いた問いに、セルジュの方も首を傾げた。
「正直、僕は入植については専門外だからよく知らなくてさ。村に着けば専門の魔術師がいるはずだから、彼らの話を聞けばもう少し具体的にわかると思うよ」
「明らかに異常ですよ」
部屋に通されて早々、女は開口一番そう言い放った。
ルーシー・クライス──入植担当官を名乗った女は、机越しに身を乗り出すようにして3人を見据えている。
年のころはセドリックとそう変わらないだろう。くすんだ金髪は後ろでひとつに結われているものの、後れ毛だらけの有様が持ち主の性格を物語る。
なにより悪い意味で目を引くのは隈の浮いた目元だった。瞳はどんよりと濁り、疲労と焦燥を露骨に滲ませている。
「ほかの村では問題なくいってたんです。先輩から仕事を教わって、ようやくひとりで入植の案件を抱えた途端にこれですよ。まるで私が悪いみたいじゃないですか」
ルーシーは机に広げられた書類を乱暴にかき回しながら、早口でまくし立てる。
今セドリックたちがいるのは入植拠点として使われている仮の詰所だ。西方戦線の天幕よりはいくらかマシ、といった程度の造りの小屋は、応接室と思しき部屋でさえひどく質素な机と椅子が並んでいる。
「でも! 王都の研究班が来てくれて本当に良かったです!」
勢いよく顔をあげたルーシーの瞳が、そこで急にぎらりと光る。
研究班というのは初耳だった。ちらりとセルジュに視線をやれば、小さく肩をすくめられる。リコリスを《魔女》と明かせないため、そういうことになっているのだろう。
「入植が失敗して出世に響いたらどうしよう、と師団長に1日3通嘆願書を送り続けた甲斐がありました!」
「……魔術師団って変なやつしかいないのか?」
『失礼な。こんなにまともなのに』
セルジュとルーシーに、声を揃えて抗議される。
送り続けたという嘆願書も、大半は師団長の手でそのまま火にくべられていそうだ、とセドリックは遠い目をした。
ルーシーはわしっ、と勢いよくリコリスの手を取った。
「リコリスさん、でしたっけ。頼りにしてます! 今すぐなんとかしてください! 魔物の襲撃が怖くて夜も寝られないんです! おかげさまで昼に8時間くらい寝てます!」
「ただの昼夜逆転だろ、それ」
セドリックは思わず突っ込むが、ルーシーはまるで聞いていない。リコリスの手を固く握りながらぐいぐいと顔を近づけている。
その勢いに押されながら、リコリスは困ったようにセドリックを振り返った。
「えっと……どうしよう? 今から行く?」
頼るような声音に、セドリックは窓へと視線をやった。
差し込む陽の光はもう弱く、窓の外から覗く空の端は藍が滲み始めている。
道中の魔物の襲撃のせいもあり、予定より到着が遅れてしまった。
「やめとけ。もう陽が落ちる」
今から外に出て、入植地の外周に植えられた精霊樹を見て回るとならば完全に夜になるだろう。そうなれば、森の中の魔物が一斉に動き出す時間だ。精霊樹の生育を確かめるどころか、その途中で魔物に襲われかねない。
「ええ!? じゃあ私の安眠はどうするんですか!?」
ルーシーの抗議に、知るかよ、と口走りそうになるのをなんとか堪える。
この騒がしい女とセルジュはともかく、リコリスの身の安全は本気で考えなければならない。
セドリックは軽く頭をかいて、ため息とともに口を開いた。
「俺が番をすればいいだろ。お前らは勝手に寝てろ」
「……いいの?」
リコリスの心配そうな声音が、躊躇いがちに投げかけられる。
彼女の手はまだルーシーに握られたままだったが、その瞳はまっすぐにセドリックを見つめていた。
「別に。ただの仕事だ」
セドリックは、いつも通りそう返した。
静まり返った世界の中で焚火の弾ける音がする。
枝を投げ込むそのたびに、赤い火の粉がひとひら、ふたひらと夜の空気へ吸い込まれていく。
火の輪から半歩も外れれば、そこはもう宵闇だった。
地面はとうに日中の温もりを手放し、風が吹くたび足元から冷気が這いあがってくる。彼方から響く狼だか魔物だかの遠吠えと、風に騒ぐ樹々の音と、頭上に張りついた星々。どこにでもあるそんな夜だけが、セドリックの相手だった。
不意に近づいてくる気配を感じ取り、セドリックは顔を上げた。
焚火の向こう、暗がりの中で影がひとつ揺れる。赤毛を夜風になびかせながら火の輪へ踏み出したリコリスの輪郭が、橙色の光の中にぼんやりと浮かび上がった。
「お前……なに勝手に出歩いてるんだよ。セルジュはどうした?」
セドリックは思わず眉をひそめる。
仮詰所はセドリックの視界にも映る距離だが、だからと言って《魔女》ことリコリスがひとりで出歩いていいわけがない。
しかし彼女は悪びれた風もなく、軽い調子で言った。
「セルジュはルーシーと精霊樹の記録を見てるわ。セドリックのところに行きたいって言ったら、『いってらっしゃい』って」
よし、戻ったらしばこう。
セドリックは固く決意をした。
「セルジュは私のことを信頼してくれるみたい」
昨晩と同じように、リコリスはセドリックの傍らに腰を下ろした。
「職務放棄と紙一重なんだよ、それは」
「私が《魔女》だから?」
火の粉が爆ぜる音の合間に、静かな問いが落ちる。
翠の瞳は、夜の色をひとしずく混ぜたような深い色をしていた。炎を映し込みながら、どこか探るようにこちらを見上げてくる。その視線を受け止めたセドリックは、返答を喉に詰まらせた。
「なんて、ね」
軽く笑ったリコリスの視線が焚火に落ちる。
このまま会話を終わらせてはいけないような気がして、セドリックは無理やり言葉を紡いだ。
「……別に、お前がなにかすると思ってるとか、そういうわけじゃ」
「わかってるわよ。本名も教えてくれたしね」
抱いた不安に反して、リコリスは穏やかな笑みを浮かべていた。
焚火の光が彼女の横顔の線を柔らかくなぞる。夜風が吹くたびに、赤い髪が揺れて火の色と混ざり合った。
炎を見つめるリコリスの表情が、ふと薄くなる。
どこを見ているのかよくわからないまま、彼女は静かに呟いた。
「安心して。しばらくは、逃げる気も暴れる気もないから」
「……しばらく、ね」
なんとも反応しがたい言い方である。
夜の冷たさと焚火の熱さの境界に漂うかのような、曖昧で居心地の悪い言葉だった。
「ねえ」
不意に、リコリスは明るい声音で呼びかけた。
落ちた沈黙をわざと断ち切るように、笑みとともに振り返る。
「セドリックはなんで髪を伸ばしてるの?」
「面倒だろ、切るの」
話題転換としては随分急だったが、とりあえず乗ってやることにする。
ぞんざいに答えつつ、セドリックは首の後ろでくくった髪を無意識に指先で抑えた。
リコリスは小首を傾げるように、セドリックを覗き込む。
「ふうん……いじってもいい?」
「嫌だ」
「代わりに私の髪、いじってもいいわよ」
「…………」
どんな交渉だ、と思う。
焚火を受けた赤毛が、炎を照り返しながら夜風に揺れている。夜闇と朱炎の境界に座る彼女の髪は、触れれば焼けてしまいそうで、けれどどうしようもなく手を伸ばしたくなる。
セドリックは、ゆっくりとその手を近づけた。
自分の意思なのか、それともなにかに惹かれたのか、判然としないまま。
指先が、リコリスの耳の後ろの髪をそっとなぞった。
ひどく柔らかな感触が指の間を流れていき、その奥に宿る微かな温もりに触れる。夜気の冷たさと焚火の熱と、彼女の体温とが一度に押し寄せてきて、ぞくりと肌が粟立った。
目の前の魔女は、くすりと笑みをこぼす。
「ふふ、くすぐったい」
その無邪気な笑みや言葉のひとつひとつの振動までもが、触れている指先からそのまま伝わる。
近すぎるその声は、耳の奥を直接撫でられているかのようだった。
嫌がってくれよ、と頭のどこかで切実な悲鳴が上がる。
頼むから、どうか彼女に触れているこの手を、今すぐ払いのけて欲しい。
でなければセドリックは──。
「ねえ」
再び、リコリスが静かに呼びかけた。
「もういい? 私もセドリックの髪に触りたいわ」
「……………………」
火の音と、風の音と、心臓の音が一瞬混ざり合う。
今さらのように心臓が早鐘を打ち始めるのを感じながら、セドリックは深く呼吸を繰り返した。
冷たい空気を肺いっぱいに吸い込んでも、胸の鼓動は少しも収まらない。
「……今度な」
ゆっくりと自らの手を引きながら、ようやく絞り出した声はひどく掠れていた。
「なにそれ、ずるいわ!」
リコリスの抗議があがる。
けれどセドリックは、それ以上相手をしなかった。
夜風がふたりの間を通り抜けていく。焚火の灯りが、ただ黙って揺れていた。




