8. 騎士、故郷に帰る
セドリックたちが西方戦線キャンプを発ったのは、昼を回った頃だった。
天幕の群れを眼下に眺めながら歩く山道は、王都へ戻る道ではない。踏み固められた土が靴底に馴染み、乾いた枯葉が時折かさりと小さく鳴った。獣道というほど荒れてはいないが、整備されているとも言い難い。
わざわざ街道を避けて山道を選ぶ一行など、腕に覚えのある冒険者か、ただの貧乏な冒険者か、迷子か、あるいはそんな人間を狙う野盗くらいのものだろう。
そしてもちろん、セドリックたちはそのどれでもない。
「……お前、意外と慣れてるんだな」
傍らを歩くリコリスの足取りは目を瞠るほど軽快だった。小柄な背丈に似合わぬ安定した歩調で、凹凸の多い山道を進んでいく。
「ええ。足元の悪さなら、神樹の森の方がよっぽどね」
軽く笑う横顔は、旅の疲れを引きずっているようには見えない。むしろ外に出られること自体を歓迎するような、浮ついた機嫌さえ滲んでいた。
「馬車での移動よりずーっと気が楽だわ。1日歩き詰めだって平気よ」
「いやー、助かるよ。リコリスがそう言ってくれて」
リコリスの威勢の良い宣言に、セルジュがにこにこ笑顔でそう返す。
「これなら予定通り、明日の昼には目的地に着きそうだね。樹術師と精霊樹の調査ができるなんて、すごく楽しみだな」
魔女と、騎士と、魔術師と。
すっかり馴染んでしまった3人が向かう先は、西方戦線キャンプから北東へ、馬車で数時間ほどの距離にある村だ。
数年前まで戦場のひとつだったその場所は、地図の上ではまだ名もない点に過ぎない。
その村への入植の過程で植えられた、精霊樹の若木。
どうにも、それが上手く生育していないという。
本来であれば瘴気を吸い上げ、澄んだマナを吐き出しながら成長する樹々が、土に根付くどころか弱りかけている。
だから一度、樹術師に診て欲しい──
そう師団長からリコリスへと告げられたのが、ほんの2時間ばかり前のこと。
自らを捕らえた王国からの依頼に、彼女は存外、二つ返事で頷いた。代わりに対価を求めるでもなく、まるで対等な仕事相手に向き合うかのように。
そういうわけで、3人は入植地点を目指して山道を進んでいた。
「しかしまあ、徒歩とはな……」
愚痴にも近いぼやきが、セドリックの唇から勝手に漏れる。
《魔女》が外を出歩くのだから、当然馬車が出るか、せめて数人の監視がつくだろうと踏んでいたのだが。
すると前を行くリコリスは平然と言った。
「私が徒歩が良いって言ったの。馬車、嫌い」
「いや、お前かよ」
聞き入れる魔術師団も魔術師団だ。
思わず半眼になるセドリックをなだめるように、セルジュが苦笑を浮かべた。
「まあまあ。師団長も馬車や大人数での移動は目立つから、徒歩で迂回路を行くのが良いって考えだからさ。この辺りなら魔物も少ないし」
「あーまったくだ。国家機密への扱いには適してるな」
「国家機密だからこそ、だよ」
捨て鉢な気分で吐き捨てると、セルジュは柔らかく返してくる。
もちろん、距離としては徒歩でも十分移動できる。騎士であるセドリックは尚更だ。
だが案じるべきは、魔物の襲撃や目立つことよりも、《魔女》への監視を緩めることではないのだろうか。師団長の判断が、セドリックにはどうにも読めない。
リコリスに事の次第を説明したあと、彼は最後に一言だけ付け加えた。
──くれぐれも、彼女を死なせることのないように。
それは単に、《魔女》が希少な魔術的存在だからなのだろうか。あるいは、リコリスと師団長がふたりきりで話したときに、『囚人』という立ち位置が変わったのか。
いずれにせよ、かけられた言葉以上の説明はなく、どこまでを任せるつもりなのかも曖昧だった。
あるいはリコリスに問えば答えてくれるのかもしれないが──そう思っても、セドリックの喉は動かない。
リコリスは国に捕らえられた《魔女》で、セドリックは監視で、あるいは護衛で、結局はただの牢番だ。
魔術師団が彼女をどう扱う気なのかわからない以上、王都に戻れば牢番の役目さえ解かれる可能性がある。
だからきっと、なにも知らないままで良い。
自らに言い聞かせるように、セドリックは胸中でそうひとりごちた。
やがて、昼の山道がふっと開けたところで、セルジュが手を挙げた。
「ここで1回休憩しない? 道の確認もしたいし」
木立の切れ間に、陽だまりのような小さな空き地がぽっかりと口を開けていた。踏み固められた土だけが少し明るい色をして、周囲の樹々がその場所を丸く縁取っている。
確かに、一度足を止めるには絶好の場所だ。3人はそこで荷を下ろす。
セルジュは水分を取ったあと、懐から折りたたんだ地図と方位磁石を取り出した。
街道を歩いているわけではない以上、こまめな確認は欠かせない。
「ここがこうで……うん、大丈夫かな。予定通り進んでるよ」
何度か頷くセルジュの横から、セドリックも地図を覗き込む。
一方、リコリスは道のことには興味がないのか、少し離れた場所にしゃがみ込み、道端の草花になにやら話しかけている。摘むでもなく、ただ指先で葉の縁をなぞる仕草だけが妙に慣れていた。
セドリックは道筋をなぞるセルジュの指先を追い、眉をひそめた。
「……この道で行くのか? いくら迂回路ったって、遠回りすぎるだろ」
「あれ、言ってなかったっけ。ここから少し行ったところに廃村があってさ。今日はそこに泊まる予定だよ」
「聞いてねえよ!」
苛立ちを隠すことなく言い返す。
とはいえ、廃村で野営をするのは理に適っていた。屋根や壁が残っていれば雨風をしのげるし、焚火の跡でもあれば燃料を集める手間も省ける。
「で? どこだよ」
「うん、ここ」
セルジュの指が地図の上を滑っていく。
書かれた線と線の間を躊躇いなく横切り、その指先がある一点を掠めた瞬間──セドリックは微かに息を呑んだ。
冷たい手のひらを内側から押し当てられたような、妙な重さが腹の底に沈む。
地図の上にある、その場所がどこか浮き上がって見えた。
「どうかしたの? エド」
いつの間にかそばに来ていたリコリスの声が耳朶を打つ。
翠の瞳が覗き込んでくる気配に、セドリックは反射的に視線を逸らした。
「……いや」
ただそう返し、喉の奥に詰まった言葉を無理やり飲み下す。
「まあ精々、道だけは間違えるなよ」
「大丈夫、大丈夫」
セルジュはいつも通りの軽い調子で頷いた。
そして移動を再開した一行は、つつがなく目的地に辿り着き──
と、なれば良かったのだが。
「……お前、道に迷っただろ」
「あっはっはっはっは」
傾く陽射し。茜に染まり始めた空。細い樹々の影が長く伸び、橙色の光が3人の足元を斜めに切る。
その中を、セルジュの笑い声だけがやたらと元気に響いていた。
本来であれば、もう目的地に着いていてもおかしくない時間だ。にも関わらず、木と木の間に村の影は見えない。代わりに視界に映るのは、永遠に続くかのように連なる木立と歩き慣れてしまった山道だけだった。
「いやー合ってると思ったんだけどね。僕、地図読むの苦手みたい」
「苦手みたいで済むかボケ!」
「……ねえ、どうするの? 一応、私がどうにかできなくもないけど……」
リコリスはそう言って腕を持ち上げる。
彼女の視線は、自らの手首に嵌められた魔封じの腕輪に落ちていた。
「──リコリスはまだなにもしないで」
セドリックに襟元を掴まれながら、セルジュは不意に真面目な顔をした。
いつもの軽さが引っ込み、丸眼鏡の奥だけが静かになる。
「今、きみの魔封じの腕輪の管理権は師団長から僕に限定譲渡されてる。でも、いたずらにきみの力を振るうわけにはいかない。きみの力を頼るのは、本当に必要なときだけだ」
「それは良いけど……今は平気なの?」
リコリスの問いに、セルジュは一度ぴたりと固まった。
それからゆっくりと顔を逸らし、どことも知れぬ空の彼方を見上げる。
「……いや、だってさー。1回魔封じの腕輪を解除する毎に、ちゃんと報告書を書けって言われちゃってさー。僕の上長くらいなら適当に済ませちゃうけど、師団長から『私が直接目を通す』って言われちゃうと、さすがにさー」
「お前……やっぱりかなり信用されてねえだろ……」
正直、同じ組織にいてほしくないタイプの人間である。
巌のような師団長の顔が脳裏をよぎり、あのひとも大変だな、と妙なところで人間味を見た気がした。
胸の内側の苛立ちを吐き出すように、セドリックは深く長いため息をつく。
「……もういい。ついてこい」
踵を返し、周囲の地形と太陽の位置を確かめるように稜線へ視線を走らせる。
踏みしめた土の硬さを足裏で確かめ、セドリックは歩き出した。
樹々の合間を抜ける足取りは、自分でも驚くほど迷いがなかった。獣道を踏みしめながら、曲がりくねった道のわずかな傾きや分かれ道の正解を、身体が勝手に選び取っていく。
そうしてしばし歩くうち、深い緑と土のにおいに混じって、乾いた灰のようなにおいがふと鼻をかすめた。長く伸びた草むらをかき分けた先で、靴底がひどく軽い音を立てる。
柔らかな地面ではない。踏みしめたのは、石畳だった。
足元の変化に胸の奥が微かにざわめくのを感じながら、セドリックは顔を上げた。
折り重なり続けていた樹木の壁が、ふと切れる。
その向こうにいきなり姿を現したのは、かつての村の成れの果てだった。
「あ……」
「あ、着いた」
リコリスとセルジュの驚きの声をさらうように、一陣の風が通り抜ける。
すっかり傾いた陽が、崩れた屋根や石壁の隙間を紅く染め上げていた。
地面には、かつての生活の名残がところどころに散っている。割れた陶器、瓦礫の欠片に押しつぶされた鍋、風に揺れるなにかの布切れ。それらの輪郭をなぞるように、雑草や薄い苔があちこちに広がる。
並ぶ家々は、かつての時間に取り残されたまま沈黙していた。まるでこの場所そのものが、呼吸をやめた巨大な生き物の骸であるかのように。
「……すごく、静かね」
リコリスのどこか呆けたような呟きが、夕方の空気に溶けていく。
「オーウェン隊長、なんで道わかったの?」
「この村の出身だからな」
セルジュの問いに、セドリックは淡々と告げた。
瓦礫を踏み越えつつ、視線を遠くに投げる。草に埋もれた井戸、倒れた柵、角の丸くなった石段。見渡すどれもが、記憶の中の形とは微妙に違っていた。
「……そう、なの?」
リコリスは微かに眉を下げ、窺うようにセドリックを見つめる。
労りを含んだその視線が、却って居心地を悪くする。セドリックはひとつ息を吐き、小さく肩を竦めた。
正直──セドリックは、なんとも思っていなかった。
故郷を訪れればなにがしか感情が動くかと予想していたが、微かに胸が痛む程度である。
それすらも、変わり果てた村への思いというよりは、滅びに向かうものへのささやかな感傷に過ぎないような気がした。
「……大丈夫?」
「別に。なにも」
傍らで問いかけてくるリコリスに、短く答えを返す。
緩く吹いていた風が止み、不意に辺りが静まる。遠くの空で鳥が一羽鳴いた。
沈黙の中で、夕陽がゆっくりと山の端に沈みかけていた。
3人が野営を始めたのは、村の中でも屋根と壁がまだしっかりと形を保っている家の軒先だった。屋根の端には焦げ跡が残り、割れた窓枠からは蔦が覗いていたが、雨風をしのぐには十分である。
壁を背に荷を下ろし、柱に布を張って風除け代わりに簡易の幕屋を拵える。拾い集めた木切れに火を点けると、乾いた柱と古い梁が微かに煙のにおいを返した。
携帯した干し肉と硬くなったパンという、特に美味くもない夕食。
普段であればセルジュのどうでもいい世間話がひとつふたつは挟まるところだが、この夜ばかりは、誰も余計なことを口にしなかった。セドリックもまた、その沈黙をわざわざ破ろうとは思わない。
黙々と食事を済ませるころには、周囲はすっかり藍の色に染まっていた。
さすがに疲れていたのか、リコリスは食事を終えるとすぐに焚火のそばで横になる。
セルジュはしばらくなにやら書きつけていたが、火が弱くなるころには彼も寝袋へと潜りこんだ。
廃村を撫でる風の音と、遠くの獣の鳴き声だけが夜に残ったころ。
セドリックはひとり、軒先の外へ出た。
「……」
崩れかけた石段に腰を下ろし、黙って夜空を仰ぐ。
雲の切れ間から覗く白い月光が、荒れた庭と散らばる瓦礫に降り注いでいた。
鎧の隙間から沁みる夜気が、セドリックの胸の奥まで冷やしていく。
焚火の届かない一画は息をひそめたように静かで、遠くでこだまする獣の声と、どこかで軋む木材の音だけが闇に混じる。
かつての営みの影はとうに無く。
自然に埋もれた夜の静けさだけが、そこに在った。
「──眠れないんじゃない」
ふとかけられた声に、セドリックは肩を跳ねさせる。
思わず振り返ると、いつの間にか背後に赤毛の魔女が佇んでいた。
月明りを受けた彼女の髪は、昼間の目のくらむような赤とは違い、絹のように繊細に光を返す。
瓦礫を踏む音ひとつ立てず、まるで夜の片割れのように、彼女はそこにいた。
「リコリス……」
名を口にしたのは半ば無意識だった。
舌の上を転がった音が、自分のものとは思えないほど素直に漏れる。
彼女は呼びかけに応えるでもなく、ただひとり分の間を空けて、セドリックの傍らに腰を下ろした。古びた家屋のにおいに混じって、微かに森の気配を感じたような気がした。
ふ、とリコリスの唇から短い吐息が漏れる。
「なんで、いちいち平気なふりをするのかしら」
「悪かったな!」
「悪いなんて言ってないでしょ……」
むきになって言い返せば、リコリスは呆れたように眉を下げた。月明りに縁取られた横顔は、怒っているというより聞き分けのない子どもでも見るような表情だった。
足元の石の隙間から伸びた小さな草を、リコリスはそっと指先で撫でる。
「人間って不便ね。植物なら、触れるだけで思いを語ってくれるのに」
「俺は、ごめんこうむる」
ただ触れ合うだけで他人に己の考えが伝わるなど、想像しただけで背筋が寒くなる。
そっけなく言い捨てるセドリックに、しかしリコリスはどこかいたずらっぽく翠の瞳を細めた。
「でも私、エドって結構わかりやすいと思ってるわ」
「……あ?」
横目で睨むように見やっても、リコリスは気にも留めていない。
ただ淡い微笑みを浮かべながら、言葉を紡ぐ。
まるで野に咲く草花の話でもしているかのように、ごく自然に。
「あなたの言葉、好きよ。どれだけ荒っぽくても、エドの温かさを伝えてくれるから」
──夜が、一瞬止まったような気がした。
言葉を返そうとしても舌が動かない。代わりに肺から出てこようとした息だけが、途中で行き場を失う。
しばしの沈黙の後で。
セドリックは、自分でも驚くほどあっさりと唇を動かしていた。
「……悪い。俺の名前、エドじゃない。セドリックだ」
「え!? なんで嘘ついたの!?」
リコリスが驚きに目を丸くする。
勢いよく身を乗り出されて、セドリックは思わず視線を逸らした。
「いや。その。魔女に名前を知られると呪いをかけられるから、教えるなって……」
「なにそれ。樹術師にそんな魔術ないわよ」
リコリスは呆れ返ったようにため息をつく。
しかし、すぐにふっとその口元を綻ばせた。
「わかったわ。セドリックね」
澄んだ声で紡がれたその音が、月明りの下で柔らかく響く。
セドリックは微笑む魔女から目を逸らせずに、ただ自らの鼓動の音を聞いていた。
──これは呪いだろう、と思った。
ただ笑って名前を呼ばれただけで。
こんなにも、心臓が苦しくなるのだから。




