7. 魔女、古き契約を取り交わす
「あなたたちが求める古代魔術の知識はなに?」
単刀直入な問いに、返されたのは淡々とした声だった。
「大体すべて。セルジュは言わなかったか? 智は力だよ」
「それは私にも理解できるわ。でも、はいそうですか、と協力できないとも言ったわ」
クレイヴンは一度だけ目を伏せ、すぐに視線を上げた。
睫毛の影が落ちたのはほんの一瞬。そのわずかな間に、思考だけが進んだように見える。
「アルカディアという国を知っているか?」
不意に出された国名に、リコリスは眉根を寄せた。
「……知らないわ」
「海の向こうにある皇国だ。これはまだ噂の段階だが、アルカディアはおそらく星術師を手中に収めている」
「……本当に?」
思わず問い返してしまう。
星術師──その存在も魔術も、リコリスは実際に目にしたことがない。ただ遠い昔、木漏れ日の下で、母が詠うように語ってくれたことがある。
彼らは星を読み、運命を操るのだと。
「あくまで噂だが、おそらく真実だ。あちらの前線では、占いのように当たる撤退判断や、偶然としか思えない天候の追い風が続いているという情報がある。
なによりアルカディアは、周辺国に『星は我が手に』と吹聴している」
クレイヴンは断言した。
その言葉が落ちた瞬間、天幕の外で鎧の擦れる音がひときわ大きく響いた気がした。
「幸いにして、アルカディアとエルドランは同盟関係にある。だが、アルカディアが古代魔術を軍事利用しているのであれば、『古き誓い』だけを理由に手をこまねいていられるほど世界は甘くなくなった。
エルドランの興りに、樹術師と交わしたと伝わる不可侵の約定は尊重したいが──それで国が沈み、神樹の森が脅かされるのであれば、きみにとっても本末転倒だろう?」
「……」
リコリスは言葉を返さない。いや、返せない。
「リコリス。いいや、最後の樹術師よ。
きみが死ねば、樹術師の知識は消えてなくなる。それは避けるべきことだ」
クレイヴンの声には、確かな熱が宿っていた。
それは、王国に捕らえられたあの日の会話には無かったものだ。
リコリスは膝の上で拳を握った。
感情さえ廃すれば、クレイヴンの言うことは間違ってはいない。
外つ国の脅威。その中で、エルドランを支えるマナの供給源がちっぽけな女ひとりの肩にかかっていること。
──樹術師は不老でも不死でもない。
魂を結んだ神樹に引きずられるように成長や老化が遅くなっているにすぎず、いずれはリコリスの命も尽きる。
森の奥で、神樹と重なる鼓動に耳を澄ませるそのたびに。
リコリスは、いつか来る終わりを背後に感じていた。
「きみの家の中をあらためさせてもらった。樹術師の魔術とは厄介なものだな」
「っ!」
クレイヴンの言葉に、びくりと肩が震えた。
リコリスは家に魔術をかけていた。周囲の植物と同化させる、認識阻害の魔術だ。
魔術に素養のない者はもちろん、森に慣れない者なら、あの小屋一軒を見つけることすら難しいはずだった。
それが破られた動揺と、自らの家に踏み込まれた怒り。そのどちらともつかない感情が、リコリスの頬を熱くする。
しかし目の前の男は顔色ひとつ変えず、数枚の紙を取り出して机上に広げた。
見覚えのある筆跡。見覚えのある線。
それは、リコリスが家で書き記していた古代魔術の術式の記録だった。
「古代魔術の知識には乏しいが……きみは一体、神樹になにをしようとしている?」
その問いに、リコリスは諦観するように息を吐いた。
「……そこまでわかるのね」
怒りはとうに過ぎ、身体の強張りすらも溶けていく。
それでもリコリスの背筋を伸ばし続けたのは、樹術師としての意地と誇り、それだけだった。
「あなたたちに迷惑はかからないわ。責任を果たそうとしているだけよ。あなたの言うように、最後の樹術師として、ね」
「きみは──いや」
クレイヴンはなにか言いかけて、ひとつため息をついた。
一瞬だけ視線が机上の資料に落ち、再びリコリスへと据えられる。
「それを我々が判断する術がないのが難しいところだな。きみが古代魔術の知識を提供してくれるのであれば、別かもしれないが?」
「……そうね」
リコリスはしばしクレイヴンを見つめた。
灰色の瞳には、同情も躊躇もない。ただリコリスの出方を窺い続ける、憎たらしいほどの落ち着きだけがある。
その瞳に向かって、リコリスは自らの人差し指を立てた。
「──私が求める《現代魔術》の知識をひとつ。対価として、あなたたちが求める《古代魔術》の知識をひとつ与えるわ」
「ふむ……」
クレイヴンは顎に手をやり、しばし沈黙した。
天幕の外から、いくつかの足音と鋼の擦れる音が微かに届く。
《魔女》と王国の交渉の隙間に入り込むのは、遠くて近い戦場の気配だけだった。
やがて灰色の瞳が、再びリコリスをまっすぐに射抜く。
「きみが求める知識とは?」
「マナの循環方法について」
リコリスは間髪入れずに答えた。
噴水の《核》。心臓と血液。起点と循環。
セルジュが見せてくれた《現代魔術》の基礎──あれは、神樹アシェンディールの在り方にもきっと繋がる。
「それで、あなたたちは?」
「──『魂移し』について」
それまで乱れることのなかったクレイヴンの声音が、わずかに低くなる。
その変化が、王国にとってどれほど欲しい情報なのかを示していた。
「どうして? 言っておくけど、不老不死をお望みなら無駄よ」
「なによりも重要でなによりも危ういのは、神樹の存在そのものだよ」
リコリスの軽口に、クレイヴンは真面目な声でそう言った。
「樹術師が神樹を成長せしめたように、我々は『魂移し』を応用して、各地の精霊樹を神樹に準ずる存在に育てたい。膨大なマナ供給源がひとつである現状は、あまりに脆い」
リコリスは目を細めた。
目の前の男がどこまで本心を語っているかは知りようもないが──ここまでの話と合わせれば、筋としては通っている。
精霊樹とは、各地に自生する樹木だ。
神樹アシェンディールが瘴気を浄化しマナを生み出すのも、あくまで精霊樹の特性にすぎない。“彼”も、もとはただの精霊樹の1本でしかなかった。
それが今は──ああなった。
「……ええ、いいわ。きちんと教えてあげる」
しばしの間を置いて、リコリスはひとつ頷いた。
それからすぐに腰を上げ、クレイヴンに向かって自らの腕を差し出す。
「この魔封じの腕輪を解いてくれる? 樹術師の魔術契約を交わすわ」
クレイヴンは黙ったまま、リコリスの手首に嵌められた金属の輪を見つめる。
彼の魔力で封じられ、彼にしか解けない錠前。
無言のまま、室内の空気が少しだけ硬くなる。
「心配しなくても暴れないわよ。ただ、お互いに魔術的な契約は必要でしょう?」
リコリスは肩をすくめてみせた。
これは本心だった。元より緑の少ないこの場所で魔力が解放されたところで、リコリスは満足に力を振るえない。再び捕らえられるのがオチだ。姿こそこの場にないものの、天幕の外には数名の魔術師が控えているのも目にしている。
なにより──今のリコリスには、《現代魔術》の知識を得るという目的がある。
だからこそ、契約をどうしても交わしたかった。
契約魔術はシンプルだ。
魂と魂を薄く繋ぎ、条件を刻む。ただそれだけの術式。
だからこそ強力で、破りがたいもの。
「交わす魔術契約とは?」
まだ腕輪には触れないまま、クレイヴンは静かにそう問いかけた。
「魔術知識の交換において、我々はお互いに嘘をつかないこと」
リコリスが答えると、クレイヴンはわずかに眉を動かした。
「それだけでは曖昧だ。きみの“嘘”の定義は?」
「人間の嘘ほど器用ではないつもりだけれど。そうね──じゃあ、“自分が真実だと信じていないことを断言するな”でどうかしら」
「不十分だな。追加として、知らないことは知らないと答える。推測は推測と明言する。沈黙は許可。こんなところか」
「……面倒だわ。虚偽禁止、だけにさせてちょうだい」
リコリスは芽生えた苛立ちをぶつけるように、肩にかかった赤毛を払いのける。
それから、ふっと口元に笑みを浮かべた。
「安心して。魂はとっても素直なの。魂と言葉が重ならなければ、術式はそれをすぐに見抜いて契約違反を教えてくれるから」
「……なるほど。ならば判定は術式に任せよう」
まだ御託を並べてくるかとも思ったが、存外素直に頷かれる。
リコリスの胸中を察したのかどうか、クレイヴンは微かに微笑んだ。
「きみを信用してやるのも、国の役目だろう。『我々は、虚偽を口にしない』」
「ええ。それで十分よ」
リコリスが頷くと、クレイヴンは静かに灰色の瞳を細めた。
男の武骨な指が腕輪に触れる。
無言のうちに魔力が流れこむと、冷たい腕輪が微かに熱を帯びた。
かちゃん、と小さな音を立てて錠前が外れる。
その瞬間──金属の輪に封じられていた魔力が弾けるように空気へ散った。
天幕の中のランプが一度だけ揺らぎ、互いの影が長く伸びる。
「──師団長!?」
《魔女》の魔力に気づいたのか、外で控えていた魔術師がふたり、天幕の中へと飛び込んでくる。
しかしクレイヴンは横目で見やり、ただ短く告げた。
「下がっていろ」
その一言に、魔術師たちの動きが止まる。
リコリスは一度だけ無力な闖入者に冷たい視線を送ってから、そっと両手を胸の前で組んだ。久しぶりに自由になった手首への感慨は、特になかった。
指と指を絡める順番を、記憶の通りになぞる。
古い古い言葉が、リコリスの唇からこぼれた。
今使われている言葉とは響きの違う音。まるで、忘れ去られた森の奥で吹く風のような。
次の瞬間、リコリスの足元に金色の光が灯った。
細い線が床を走り、枝葉のような文様を描いて広がっていく。幹のように伸びたひと筋がリコリスの足元からクレイヴンの足元へと伸び、その途中でいくつもの枝を生やして絡み合う。
それは魔術式と呼ぶにはあまりにも有機的で、輝く光線は一本の樹木を描くようだった。
やがてリコリスの胸の前で、絡み合う線がひとつの複雑な輪を形作る。輪の中心から細い光の糸が伸び、まっすぐに正面の男の胸元へと向かった。
光は空気を裂くこともなく、ただそこに在るだけのものとして、クレイヴンのローブも皮膚も骨肉すらも通り過ぎていく。
やがて触れた場所で、どちらかの鼓動が一瞬だけ強く跳ねたのがリコリスにもわかった。
同時に、クレイヴンの魔力が逆流するようにリコリスの胸へと流れ込んでくる。
冷たいわけでも熱いわけでもない。ただ、魂と魂が薄く重なり合い、他者の輪郭がはっきりと刻まれる。
天幕の内側に吊るされたランプの灯りが、光の文様に呼応するように明滅した。
床の魔法陣は一度だけ緩やかに脈動し、それから段々とその輪郭を薄めていく。
「……これで、『魂移し』についてあなたが尋ねることに、私は嘘をつけない。同じように、あなたたちはマナの循環について嘘をつけない」
「承知した」
クレイヴンの声は、戦場の空気に似た冷たさを保ったままだった。
両者の心からの合意が落ちた途端、ふたりを結ぶ魔力の帯は弾けるように光を散らし、そのまま跡形もなく消える。
残ったのは、互いに感じているであろう胸の奥に芽生えた静かな重みだけ。魔力の余韻が薄れていくにつれて、その重みだけがはっきりと残り続ける。
リコリスも、クレイヴンも、飛び込んできた魔術師たちもそれ以上はなにも言葉を発しなかった。
かつて交わされたと伝わる古き約定は、この場の誰にとっても記憶ですらない過去のもの。
それでも確かに、数百年を隔てたさきで。
最後の樹術師とエルドラン王国の間に、新たな約定が刻まれた。
* * * * *
クレイヴンとの交渉を終え──再び、腕には魔封じの腕輪をつけられて──天幕を出ると、空は既に白から薄い青へと色を変えつつあった。
遠くで号令の声が上がり、兵士たちが動き出す気配がする。焚火の煙が風に引かれ、細くたなびいていた。
来たときと同じように案内の魔術師に連れられて進むと、少し離れた場所に並ぶ小さなテント群が見えてきた。
そのうちのひとつの前に、見慣れた黒髪の背中と、薄茶の癖毛が並んでいる。
近づくリコリスの気配にいち早く気づいたのか、エドが不意に顔を上げる。
薄暗い地下とも馬車とも違う、乾いた戦場の朝の光を受けた銀灰の瞳がリコリスを捉えた。
その顔を見た瞬間、リコリスの身体のどこかに残っていた緊張がほどけていく。自分でも驚くほどにあっさりと、まるで陽を浴びた氷のように。
その理由を考える前に、セルジュがひとつ手を振った。
「あ、おかえり、リコリス」
「……ええ。ただいま」
反射的にそう返してから、リコリスは自らの唇をそっと指先で撫でる。
ただいまなどと口にしたのは、一体いつ以来のことだろうか。
──クレイヴンとの交渉などよりも、ずっと。
彼らの何気ない声と眼差しに、どうしてか、リコリスは涙がこぼれそうだった。




