6. 魔女、西方へ向かう
リコリスはもう丸5日、馬車に揺られ続けていた。
揺れの向こうで鳴る、車輪が土を踏む音。樹木の枝や風が車体を叩く音。時折聞こえる馬のいななき。
眠りに落ちかけるたび、そうした些細な音がリコリスの意識を現へとすくい上げる。
おそらく今は真夜中の──はずだ。
外の景色を見ようにも、カーテンは開けるなと釘を刺されている。そのため、場所はおろか時間さえもよくわからない。
まるで、どこまでも続く夜の底でただ揺られ続けているようだった。
4人がけの車内はひどく狭い。
リコリスの隣は空いているが、正面の座席はふたりの男で埋まっている。
地下牢から出てなお監視を担っているらしい騎士のエドと、古代魔術研究者──『友達』のセルジュ。
馬車がひとつ揺れるたび、ランプの灯がふたりの顔を淡く照らしては、また影へと沈めていく。
外には御者がふたりいる。乗車や休憩のときに目にした格好を見る限り、彼らも魔術師なのだろう。
走行と、護衛と、《魔女》の警戒。ご苦労なことに、随分と役目を負わされていそうだ。
師団長に会わせて欲しいと頼んでから、許可が下りるまでが長かった。
それでもなんとか遠征しているクレイヴンと会えることになり、今は王都を出て、西方の戦闘地域へと向かっている真っ只中。
リコリスは揺れる馬車の壁に背を預け、細く息を吐く。
王国の待遇は手厚いのか、手厚くないのか、よくわからない。
監視が解かれることはない。魔封じの腕輪も嵌められたまま。
けれど本のことといい、今回の遠征といい、大抵の頼み事は叶えてもらえた。
檻に閉じ込められたまま、けれど望んだ餌は与えられる。
もちろん、そんなものはただの懐柔に過ぎないと頭ではわかっていた。けれど真綿で拘束されるような、あるいは棘だらけの手で撫でられるような心地に、時折心の置きどころがわからなくなる。
──なにをされても、エルドランなんて好きにならない。
リコリスは膝の上で拳をつくり、胸中でそう吐き捨てた。
だが、この国がどうなろうと、リコリスは神樹だけは守らなければならない。
そのためなら、王国の技術である《現代魔術》でさえも利用してみせる。
心の中でそう決意を固めながら、しかし自らの唇から漏れたのは力のない吐息だった。
「……疲れたか?」
不意に向かいからかけられた声に、リコリスは思わず顔を上げた。
薄暗い車内で、銀の滲む灰色の瞳がこちらを静かに見つめている。その眼差しは牢の前に立つときと変わらない光を湛えていた。
ランプの灯が、肩のあたりでひとまとめに括られたエドの黒髪を縁取る。整える気配のない髪型も、無愛想に引き結ばれた口元も、地下牢生活で見慣れたままのものだ。
けれどこうして鉄格子なしに向かい合ってみると、鎧の下の体躯の厚みや、膝の上に置かれた指先の節くれだった形までもが、妙にはっきりと目に入ってくる。
飾り気のない顔立ちなのに、今はどこか目を離しがたくなる。
揺れる灯が、彼の顔にいつもより深い陰影を刻んでいるせいなのだろうか。
少し落ち着かないような心地がして、リコリスは微かに視線を逸らした。
「……少し。馬車での移動なんて初めてだもの」
「だろうな」
慰めでもねぎらいでもない、ただそれだけの相槌。
けれどその少ない言葉数の奥に、わずかな気遣いの気配があったような気がして、リコリスはひとつ瞬きをした。
「エドは? 馬車には慣れてるの?」
「隊長程度じゃ、そうは使わねえよ」
つまり、あまり慣れていないということだろうか。
問いを重ねようとしたところで、エドはまぶたを閉じた。
「夜明けには目的地に着くはずだ。無理にでも寝とけ」
「……うん。そうする」
それで寝られたら楽だけれど──と、喉まで出かかった言葉を呑み込む。
言われた通り座席に身体を横たえると、視界には向かいに腰かけたふたりの膝から上だけが収まった。
剣を抱えたエドは背を壁に預け、大小の揺れに襲われても体勢はほとんど崩れない。どんな場所でも眠りに落ちるための姿勢を、身体が知っているかのようだった。
セルジュは書類を膝に置き、薄暗い中でも時折ペン先でなにかを書きつけている。インクのかすかなにおいが、夜気に混じって鼻先を掠めた。
監視としてついてきたであろう彼らは、どちらもリコリスを覗き込んではこない。
まるでそれが当然のことのように、ただそばにいるだけ。
同じように穏やかにそこにいるはずなのに──エドとセルジュではどうしてか居心地が少し違った。
セルジュはいつだって柔らかすぎて、却って思考の輪郭が掴めない。その点エドの沈黙は、妙にわかりやすかった。
「ねえ、エド」
思わず呼びかけると、しばしの間のあと、低い声が返ってくる。
「……なんだよ」
「呼んでみただけ」
リコリスの言葉にエドは一瞬眉をひそめ、それから深いため息をついた。
不思議な人間だ、とリコリスは思う。
彼はリコリスが『エド』と呼びかけるそのたびに、どこか戸惑うような顔をする。
その理由を知りたくて、リコリスは繰り返し彼の名前を呼んでしまうのだ。
エド、と口の中でもう一度名前を転がしながら、リコリスはようやく重くなってきたまぶたを閉じた。
暗く落ちた視界の中に、ふと神樹アシェンディールの姿が浮かぶ。
馬車の揺れとは別のリズムで、遠い森の鼓動が静かにリコリスの内側を揺らす。
ふたつの振動と、近くの気配を感じながら。
リコリスの意識は、ゆっくりとほどけていった。
馬車がようやく止まったのは、夜空が白みきる頃だった。
長く続いていた揺れが途切れた途端、身体の奥にまで染みついた振動だけが遅れて残る。
外から扉が開かれ、促されるままに外へ出る。足を下ろした世界は、森はもちろん王都とも空気のにおいがまるで違っていた。
早朝のせいか、皮膚に触れる風は冷たい。焚火の煙に入り混じった鉄と油のにおいが鼻腔をついた。
あちこちに天幕が張られ、武具を扱う金属音がいやに規則正しく周囲のそこかしこから響いてくる。
誰も大声を出していないのに、空気だけが落ち着かない。
静けさの中に薄く緊張が張りついていた。
ここが西方戦線の前線基地──エルドラン王国の戦場の玄関口。
リコリスは焚火の煙越しに天幕の群れを見渡して、喉の奥で小さく唾を呑み込んだ。
馬車を降りてすぐ、早足に近づいてくる姿があった。魔術師団のローブを着た男は、まずセルジュに声をかける。
「ノートン室長補佐」
「うん、どうも。師団長は向こう?」
セルジュは軽く手を挙げ、奥の天幕を見やった。
「はい。師団長は《魔女》殿とはふたりきりで話したい、と」
その言葉にエドとセルジュの瞳が同時にリコリスへ向けられる。
リコリスは静かにひとつ頷いた。
「ええ、構わないわ」
「……僕も同席できないのかな。一応、古代魔術というか樹術師は専門なんだけど」
「師団長は《魔女》殿とはふたりきりで話したい、と」
迎えの魔術師は淡々と同じ言葉を繰り返す。
取りつく島のない様子にあからさまに渋い顔をするセルジュの横で、エドは軽く小馬鹿にしたように笑った。
「お前、好き勝手し過ぎだから信用ないんだろ」
「失礼だな。違反はしてないよ。無視してるだけで」
ふたりの軽口は、前線の空気の中では場違いなくらいに軽い。
その軽さにつられるように胸の奥の硬さが和らぐのを感じながら、リコリスは口元に笑みを浮かべた。
「ひとりで大丈夫よ。行ってくるわ」
「──おい」
「なあに?」
エドの呼びかけに振り返れば、彼は微かに唇を動かす。
言葉にならないものが喉の奥で引っかかったような、そんな間を置いて。
結局エドは、なにも言わずに視線を逸らした。
「……なによ、もう」
リコリスは軽く頬を膨らませ、歩き出した魔術師の背についていく。
語られなかった彼の言葉に、ほんの少しの未練を残しながら。
* * * * *
クレイヴンが陣を構えているのは、ひときわ大きな天幕の中だった。
厚手の布越しに外の光が淡く滲み、内部には簡素ながら幅の広い机と椅子。その上には広げられた地図と魔術式の記された紙束が乱雑に散らばっている。
セルジュの研究室と似ているようでいて、纏う空気は別物だった。
それは、中心に立つ男のせいなのだろう。
エルドラン王国魔術師団師団長──アーノルド・クレイヴン。
以前顔を合わせたときと変わらない、武骨な顔。
灰色の瞳は戦場の空気が近いせいか、いっそう硬質さを増しているように見えた。
「足労をかけたな、《魔女》リコリスよ」
低く静かな声が天幕の中に落ちる。
リコリスは一歩進み出て、恭しく頭を下げた。
「お忙しい師団長さんをお待たせしてしまってごめんなさい。地下牢から外に出るには、少し準備が必要だったみたいで」
皮肉を滲ませた言葉にも、クレイヴンは眉ひとつ動かさない。
まるで、その程度の棘では肌に触れもしないというように。
「かけるか」
促されたリコリスは素直に腰を下ろす。
クレイヴンも対面に腰を下ろし、組んだ指を机に置いた。
「さて。きみの要件とは、なにかな?」
「あなたたちが求める古代魔術の知識はなに?」
リコリスは前置きもなく切り出した。




