5. 騎士、また後悔する
──なんで、こんなことになってるんだろうな。
セドリックは、明るい陽の下で遠い目をしていた。
頭上には雲ひとつない空。王城の高い塔と白い城壁が、蒼穹をそのまま透かしたような陽光を柔らかく跳ね返す。
頬を撫でる風にはまだ冬の名残があったが、その冷たさも陽射しに包まれれば穏やかにほどけていく。
王城の広い中庭には、冬を越えた草花と乾いた土のにおいが混じり、妙に牧歌的な空気が満ちていた。
水路を流れる水音が遠くで微かに響き、衛兵の鎧の金具が時折ちかりと光を弾く。
そんなうららかな光景の中を。
第四騎士団の隊長と、魔術師団の室長補佐と、禁忌の《魔女》の3人が並んで歩くという奇妙な現実に、セドリックは軽い眩暈すら覚えていた。
「エドにお願いがあるの」
牢の中でリコリスがそう言ったのは、朝食を終えたばかりのことだった。
松明の明かりがまだ心持ち弱々しい、早朝の地下牢。
冷たい鉄格子の向こう、粗末な寝台に腰かけたリコリスは、いつになくしおらしい様子でセドリックを見上げてきた。
「この前、セルジュっていう魔術師が来たでしょう? そのときね……その、私、彼と友達になったの」
もじもじと両手の指先をいじりながらそう告げられて、セドリックは思わず頬を引きつらせた。
《魔女》がなにを初々しくも“友達”などとぬかしているのか──思わずそう唾棄しそうになったが、ぎりぎりのところで噛み殺す。
それでも、どこからか湧く嫌悪感は消えない。相槌を打つのも面倒で、セドリックは鉄格子に背を預けたまま黙って続きを待った。
「それでね、今日、また会うことになって……」
リコリスはひどく慎重に、ひとつひとつ言葉を選びながら続けた。
「だから、エドにもついてきて欲しいの」
「……はあ?」
セドリックは思いきり眉をひそめた。
冗談かどうかを確かめるようにリコリスの顔を探るが、その表情はいたって真面目である。薄暗い牢の中、翠の双眸が淡い光を灯しながら瞬いていた。
その視線から逃れるように、セドリックは顔を背ける。
「なんで俺なんだよ」
「だって……怖いもの。知らないひととふたりなんて」
「俺だって十分『知らないひと』だろうが」
そう言うと、リコリスはひとつ瞬きをした。
「……そうなの? 毎日顔を合わせてるのに?」
「そうだよ!」
何故自分が、互いの距離感まで教えてやらなければならないのだろうか。
苛立ちとともに髪をかき上げるセドリックとは正反対に、リコリスはひどく落ち着いた声で続けた。
「でも私、エドがいれば安心できるわ」
「……」
セドリックは唖然としてしまう。
リコリスの眼差しは曇りひとつなく、まるで幼子のようにまっすぐにセドリックを見つめている。
鉄格子の間を通る松明の明かりが、彼女の横顔をいやに柔らかく縁取った。
正直なところ、まったく意味がわからなかった。
自分と彼女の関係は、ただの囚人と牢番に過ぎない。“友達”なんぞに比べれば、よほど遠い間柄に違いないのに、彼女は『安心』などと言ってくる。
愚かだ──と思った。
「……わかった」
「ほんとに? ありがとう、エド!」
不承不承に頷くと、リコリスは明るく笑った。
その笑顔は、地下牢という場所にはまるで似つかわしくない無邪気なもので。
愚かだ、とセドリックは胸中でもう一度繰り返す。
──流されて頷いてしまう自分は、本当に愚かなやつだ。
そんなわけで。
セドリックは、爽やかな春空の下で絶賛後悔中だった。
つい数時間前まで、彼の世界は鉄格子と石壁に閉ざされていた。
けれど今は、陽の光と風の感触、そして花のにおいにすっかり塗り替えられている。
仏頂面のまま見つめるさきでは、軽やかに敷石を踏むひとりの《魔女》。
囚人とは、そして牢番とはなんなのか、と胸中で深く息をつく。
さすがに街中を歩かせる許可は下りなかったらしく、外出が許されたのは王城の中庭のみ。
男ふたりを従え、ローブの裾を風に遊ばせながら歩く女は、遠目には護衛付きの令嬢に見えなくもないだろう。しかしてその実態は、齢300を超える忌むべき存在なのだが。
赤毛の《魔女》──リコリスは、眩しいものを見る子どものように目を細めて天を仰いでいる。
昼の光を受けた赤毛は炎を宿したように揺らめき、差し込む陽の角度が変わるたび、その色彩をわずかに変える。
冷たい地下牢で見たときよりもずっと鮮やかで、眩しかった。
その後ろを、リコリスの“友達”だという魔術師が足取り軽くついていく。
丸眼鏡に薄茶の髪。セルジュ・ノートンと名乗った男は、柔和な笑みを浮かべながら前を行くリコリスを見守っていた。
距離は近すぎず、遠すぎず。気遣いのつもりであろうその間合いが、妙にセドリックの癪に障る。
セドリックはセルジュに並び、横目でちらりと見やった。
「……よくもまあ、《魔女》を出歩かせる許可が出たもんだ。魔術師団がそんなに偉いとはな」
「ま、僕これでも室長補佐だし」
セルジュは軽い調子で返す。
「それに彼女は国家機密だからね。逆に言えば、関係者以外は顔を知らない。騒ぎにはならないよ」
だから問題はないと言いたげに、セルジュはにこにこと笑う。
そういう話じゃないだろう、とも思うが、実際リコリスの存在を知る者は王城内でもごくわずかだ。
《魔女》が囚われているのは、ひと山いくらの囚人が放り込まれる牢とはまったく異なる。
王城の地下深く、大罪人専用の、出入りが厳しく制限された場所だ。
──そんな囚人がこうして陽の下に出ているのだから、常識が軋んでいるというほかない。
そんなことを考えていると、セルジュはふっと笑みを消した。
ひどく真面目な表情で、低く言葉を添える。
「だからオーウェン隊長も、外では軽々しくその呼び名を口にしない方がいいよ」
「なっ──」
「ねえねえ、これ、なあに?」
思わず鼻白むセドリックをよそに、前を行くリコリスが指を差す。
視線のさきにあるのは、中庭の中央に据えられた噴水だった。
白い石を彫り出した円形の水盤。三段重なったその最上段からは水が絶え間なく溢れ出し、幾筋もの糸となって下の水盤へと落ちていく。宙に舞う水しぶきがきらきらと輝き、響く水音が中庭に涼やかな風情を添えていた。
リコリスは吸い寄せられるように歩み寄り、そっと噴水を覗き込む。
「噴水だよ」
セドリックよりも早く、セルジュが答えた。
「ふうん。泉みたいね」
リコリスはそっと水面に手を伸ばす。躊躇うような指先と、対照的に綻ぶ口元。その横顔は、まるでただの村娘のようだった。
しかし、噴水の水に触れたその途端、リコリスの瞳が細くなる。
周囲の空気がひとつ落ちたような気がして、セドリックは微かに息を呑んだ。
「……魔力を感じるわ」
「うん。魔術で動かしてるからね。ほら、ここ」
セルジュが指さすままに、セドリックとリコリスは噴水の根元を覗き込む。白い石の継ぎ目には、淡く光を放つものが埋め込まれていた。
それは、セドリックには見慣れた魔石。絶え間なく落ちる水に光を散らされながら、その石は鼓動のようにゆっくりと明滅を繰り返している。
「これは《核》だよ。水を汲み上げて落とす術式が刻まれているんだ」
「核……?」
首を傾げるリコリスに、セルジュはひとつ頷いた。
「周囲のマナを取り込み、《核》の中で定量化して術式を発動させる。マナは大気中から常に補充されるから、理論上は半永久的に動き続けるってわけ」
「ずっと動くの? 勝手に? この核があるだけで?」
「そう。人間の身体で例えるなら、《核》は心臓、マナは血液。この仕組みを僕らは『循環』と呼んでいる」
リコリスは一度瞬きをしてから、水面へ視線を落とした。
「つまり……根や茎と、樹液?」
「なるほど。そっちの方がリコリスにはしくりくるんだね」
セルジュはくすりと笑みをこぼした。
「ま、そんなもんかも。言われてみると、植物って心臓ないんだね」
「ないわよ」
「だよね」
当たり前のことを確かめ合うような口調に、リコリスの口元が微かに緩んだ。
それを見たセドリックは、セルジュは怖いだのなんだのを言っていた女の表情か、と内心で当て擦りをしてしまう。
それに近い言葉を吐くのをなんとか留められたのは、次の瞬間、緑の瞳が再び細くなったからだ。
水面に触れていた手が、顎に添えられる。なにかを考えこむように。
「……でも、そう。現代魔術は、《核》を置くことで魔術の流れを保つのね」
「そう。起点があると、流れは安定する」
セルジュはあっさりと肯定した。
「現代における文明の基礎だよ。噴水だけじゃない。城門の開閉も、灯りも、医療も。
王都の日常の大半は、この“循環”で成り立っているんだ」
その声は誇らしげというより、日常を語る響きをしていた。
「起点と、循環……」
リコリスはその言葉を舌で転がすように繰り返す。
彼女の表情からは、喜びも戸惑いも読み取れない。だが、その瞳だけはまっすぐに、きらめく水と光の奥のなにかを見据えていた。
やがてセルジュは噴水の縁から顔を上げ、顎で中庭の端を示す。
「次は、あっちに行ってみようか」
彼が示したのは、城壁に沿って続く緩やかな坂道。
中庭から伸びる白い石畳のそのさきに、尖塔の影がひときわ高く天を裂いていた。
「わあ……!」
リコリスの素直な驚きの声が上がる。
中庭から続く坂を登りきり、尖塔の展望台に出ると視界が一気に開けた。
王城を取り巻く街並みが、緩やかな斜面に沿って幾重にも重なり合っている。
赤茶の屋根と白い壁。細い路地を縫うように走る水路。市場の屋台にかけられた色とりどりの布が風に揺れ、遠くから人々のざわめきが微かに届く。
街の輪郭の更にそのさきには、耕作地の緑が広がり、小さな村落が点のように散らばっていた。
そして、地平の彼方に。
「……アシェンディールが、見えるのね」
リコリスの呟きは、ひどく静かだった。
逆巻く風に煽られる赤毛に隠れて、彼女の表情はセドリックには見えない。
けれどその顔が向いたさき、青く霞む空の底に、一部分だけ深い緑に染まる場所があった。
王都の遥か遠く。
山々よりもなお高く、蒼穹よりもなお色濃く、地平線にそびえる巨樹──神樹アシェンディール。
しばしの沈黙のあと、リコリスは不意に振り返った。
「ねえ、エドの故郷はどこにあるの?」
唐突な問いだった。
セドリックは遠くの景色に視線を留めたまま、落ち着いた声で言った。
「もうねえよ」
「え?」
短い返事に、リコリスの瞳が丸くなる。
「王国と敵国の境にあった村だ。戦に巻き込まれて、消えた」
怒りも悲しみもない、ただ淡々と過去をなぞるだけの声だった。
リコリスは戸惑うように視線を彷徨わせ、やがて小さく俯く。
「……ごめんなさい」
「別に。よくある話だ」
展望台の縁に肩肘を預けながら、セドリックは本心から彼女の謝罪を否定した。
この世界では、小さな村もそこに生きる人々も空を流れる雲と同じ。
風の流れに抗うことはできないし、ひとつ消えても誰も立ち止まらない。
それが、セドリックにとっての現実だった。
どうにかなることはやるし、どうにもならないことは受け流す。
ずっと、そんな風に生きてきた。
リコリスは俯いたまま、自分の手元を見つめている。
「私は……森以外での生き方を知らないの。エドは、違う場所でも生きてきたのね」
ぽつりと落ちた言葉は、ただの独白のようだった。
セドリックは小さく息を吐く。
「そうするしかなかっただけだ。あちこちで生きてりゃえらいわけじゃない」
「……そういうもの?」
「そういうもんだろ」
言い切ると、リコリスは腑に落ちない顔のまま、それでも小さく頷いた。
その隣で、セルジュがふと右手を上げる。
「あ、ちなみに僕は王都生まれ王都育ちです」
「お前は黙ってろ」
「はーい」
セルジュは素直に引き下がる。
そのやり取りに耳を貸したのかどうか、リコリスは細く息をついた。
「……外には、色んなものがあるのね。私の知らない世界も、魔術も」
深い森の色によく似た翠の瞳が、王都の街並みをなぞる。
青い空、白い壁、まばらに色づく赤い屋根。
風が運ぶ市場のにおいに、それから遠くの笑い声。
この景色が、森の奥で生きてきた《魔女》の目にはどう映るのか──セドリックはふと気になって、しかしすぐにその思考を振り払った。
これ以上は、囚人と牢番の間柄で考えることではない。そう、自分に言い聞かせるように。
「──ねえ、セルジュ」
その呼びかけは、風に紛れることのない芯の通った声だった。
身体ごと振り向いたリコリスの瞳が、まっすぐにセルジュを射抜く。
「私、現代魔術のことを知りたいわ」
セルジュの目が見開かれる。セドリックも、思わずリコリスを見つめた。
「それは……」
言い淀む気配を先回りしたように、リコリスは手首の腕輪を指先で撫でた。
彼女の細腕には不釣り合いな金属の輪が、昼の陽を受けて鈍く光る。
「わかってる。私の知識と引き換えってことよね?」
その声と瞳には、一切の揺らぎは宿らなかった。
さっきまで街並みを游いでいた視線が、一点に定まる。
セルジュではない。そのさきにあるものを、見つめるように。
「だから──私を、師団長に会わせてくれる?」




