4. 魔女、魔術師に手を差し伸べられる
「怖い?」
微笑みながらそう問いかける母の面差しが、リコリスの記憶の奥に残っている。
暗い暗い夜の森。冷えた空気の中、風に揺れた枝が微かにざわめいた。木々の合間から降る月明りが、神樹の巨大な幹を闇の中にひときわ白く浮かび上がらせる。
根元を露わにした大樹の前で膝をつき、リコリスは小さく首を横に振った。
「怖くないわ。これでお母さまと一緒になれるのよね?」
「そうね。これで、リコリスも神樹の子になれる」
母の声は葉擦れと同じくらい優しかった。
リコリスは母の傍らで、何度も何度も練習した魔術を発動させる。
胸の奥で、なにかがほどける感覚があった。
自分の《こころ》が地面の下──絡み合った根のさらに奥へ、引きずり込まれていく。
それと入れ替わるように、冷たいような、温かいようななにかが身体の内側へゆっくりと流れ込んできた。水を飲んだときとも、空気を吸い込んだときとも違う。もっと深いところで、気配が心臓の鼓動に重なっていく。
魂の半分を神樹に預ける──古い古い一族の儀式。
それが、魂移し。
微笑みながら見守っていた母は、不意に痛みを堪えるような表情で神樹を仰いだ。
「昔はもっと多くの魂を結んでいたけれど……今は私とリコリスのふたりだけ。だから神樹様が寂しくないように、たくさん寄り添ってあげましょうね」
「ええ、お母さま。私もお母さまと神樹様がいれば、寂しくないもの」
満面の笑顔で頷くと、母は泣き出しそうな顔でリコリスを抱きしめた。
母の腕は細かった。けれどその腕の中は、森そのものに包まれているようで心地良かった。
「リコリス。忘れないでね」
微かに震える母の声が、耳をくすぐる。
「これからさき、誰に呼ばれることがなくても、どうか忘れないで。私たちは──」
* * * * *
「ここは僕の研究室だよ」
扉の開く音に、綿毛のように軽い声が重なる。
なにかの施設を通り抜け、リコリスが案内されたのはやたらと雑多な部屋だった。
床は古ぼけた板張りで、一歩踏みしめるたびに地下牢とは異なる乾いた感触が靴底越しに返ってくる。
壁一面の書棚には本がぎゅうぎゅうに詰め込まれ、そこからも溢れた本や書類らしき紙が床にいくつもの塔を築いていた。部屋の中央には、使い込まれた様子の大きな机。紙束やらペンやらインク壺やらが乱雑に広がる机上で、片隅に置かれた蔓草の鉢植えが妙に馴染んでみえた。
化粧っ気も、客をもてなす愛想もない。
だというのに、どうしてか落ち着く空間だった。
リコリスは一度室内を見渡してから、ここまで案内してきた若い魔術師──たしかセルジュと名乗っていただろうか──を見上げた。
「ほかの魔術師はいないの? 見張り、みたいな……」
「いないよ。つけろって言われたけど、面倒でさ」
「……よくわからないけど、怒られないの? それ」
「平気だよ。バレなきゃね」
あっけらかんと言い放つ男の薄茶の髪は、ところどころ跳ねた癖毛が直されないまま残っている。丸眼鏡の奥の茶色の瞳は穏やかに細められていて、笑っているのか、もともとの形がそうなのか、判じにくい。ローブから覗くシャツの袖口に残るインクの染みが、彼の生活の中心は机上にこそあるのだと告げていた。
「地下牢の生活に不便はないかな?」
部屋の隅の椅子を引きながら、セルジュはどこか他人事のような口調で尋ねてくる。
リコリスはぷいと顔を背けてやった。
「ええ、大変快適よ。モグラの気分が味わえるわ」
「この前は師団長とお話されたみたいだね」
皮肉が届いているのかいないのか、セルジュは平然としたまま椅子に腰を下ろし、リコリスには向かいの席を勧めた。
座るか立つか一瞬迷い、それでもリコリスは慎重に椅子の端へ腰を下ろす。寝台以外に腰かけるのは久しぶりだった。固すぎも柔らかすぎもしない木の感触が、いやに生々しかった。
セルジュは着席を見届けてから、おもむろに口を開いた。
「さっそくだけれど、王国側としての主張を改めて伝えさせてもらうね。僕たちは、きみの古代魔術の知識を貸してほしい」
あくまで、さらりと言ってのける。
リコリスは顎を上げ、対面のセルジュを見下すように瞳を冷たく細めた。
「私も改めて主張するわ。お断りよ。暴力に加担する趣味はないもの」
「うん、なるほど」
セルジュは茶の入ったカップを無造作に差し出しながら、小さく頷いた。
威圧でも説得でもなく、本当にただの相槌のように。
「まあ、そう構えないで。あまり大きな声では言えないけれど、僕としては単に古代魔術に興味があってね」
少し声を落としながら、セルジュは机に積まれた紙の山からひと束を取り出した。差し出された表紙には、素朴な文字で『古代魔術研究』と書かれている。その更に下には、セルジュ・ノートンの名前。
「僕はセルジュ。以前から古代魔術を研究している。よろしくね」
その笑みは、地下牢の前で見せたものと同じ柔らかさだった。
あのときは軽薄そうにしか映らなかったのに、今は少し印象が違う。紙とインクのにおいが満ちたこの部屋の空気のせいか、それとも、彼自身がここではようやく本来の顔を見せているのか。
「……」
リコリスは優しく微笑むセルジュを胡乱げに見つめた。
この笑顔だけを見ていれば、前の男よりは信頼できそうだ、などとつい思ってしまう。
クレイヴンの硬質な灰の瞳に比べれば、目の前の茶色の瞳はずっと温和で、リコリスの言葉を受け止めてくれる余地があるように見えた。
けれど、それがそのまま心を開く理由にはなり得ない。
人間は植物とは違う。いくらでも嘘を吐くし、誤魔化すし、本音を心の奥へとしまい込む。
「きみは、樹術師の一族だね」
セルジュの穏やかな問いに、思わず短く息を呑む。
向けられた眼差しは、質問というより答えの形を待つような静けさを宿していた。
リコリスは反射的に一度視線を逸らす。けれど、結局は翠の瞳をセルジュに戻した。
「……ええ、そうよ」
──樹術師。
他人からそう呼ばれるのは、生まれて初めてだった。
植物を操り、魂を有機物と結びつける古代魔術を扱う者。
かつては神樹の森の賢者と呼ばれていたのだと、遠い昔に母から聞いたことがある。けれどリコリスは、一度もそう呼ばれたことはない。森の奥にいる限り、名前など必要なかったからだ。
《魔女》などと呼ばれたのも、当然、4日前が初めてだった。
たった数日の間に、リコリスの預かり知らぬところで呼び名だけが勝手に増えていく。
「この植物ときみの魂を結ぶことって、できるの?」
セルジュはそう言って、机上の小さな鉢を指で差した。
縁からこぼれ落ちかけた蔓に、手のひらよりずっと小さな葉がいくつも連なっている。まだ色づききらない淡い緑が、窓の光を追いかけるように茎ごとわずかに傾いていた。
「この腕輪を外してもらえば、ね」
リコリスは手首に嵌められた腕輪へ視線を落とした。
最初は金属の冷たさが鬱陶しくて仕方がなかったが、今ではこの重みまで含めて身体の一部のように馴染んでしまっている。それがまた余計に忌々しい。
腕輪を剣呑に睨みつけたまま告げると、セルジュは心底残念そうに眉を下げた。
「ああ、そっかぁ……でもなあ、その腕輪は師団長の魔力で封じられてるから、僕じゃどうにもできないんだよね」
「師団長を呼んできてもらえる? ついでにすねを蹴るから」
「今、彼は遠征中だから無理だよ」
セルジュは愉快そうに笑い、それからふっと表情を引き締めた。
「でも──そう。できるんだね。すごいな」
その一言には、素直な憧憬が滲んでいた。
「僕たち魔術師に魂の輪郭は掴めない。それは屍術師や星術師、そして樹術師──《魔女》だけの領分だ」
「だからこそ、あなたたちは《魔女》を排除しようとするんでしょう?」
棘を隠さずに言うと、セルジュは困ったように苦笑した。けれど否定はしない。
「ほかの《魔女》と会ったことはある?」
「ないわ。でも屍術師は大っ嫌い。死者を蘇らせるなんて、ふざけた魔術だわ」
自然とともに生きる樹術師は、なによりも摂理を重んじる。
植物も、人間も、命あるものはいずれ死にゆく。
それが世界の理だ。
「星術師は?」
「さあ。星を読むということしか知らないわ」
「じゃあ──ほかの樹術師は?」
「……」
思わず黙り込むと、セルジュは静かな声で問いを重ねた。
「王国は、森に住む樹術師はきみだけだと見ている。そうだね?」
リコリスは答えない。それがなによりの肯定だと理解しながら。
代わりに、ひとつ大きなため息をついた。
「……あなた、樹術師に詳しいならわかるでしょう? 私の力は、戦争に使えるようなものじゃないわ」
「そうかもしれない。でも、そうじゃないかもしれない」
セルジュははっきりと言い切った。
そこには、強い信念を抱く者の声があった。
「僕たちは《古代魔術》の知識を得ることで、今ある《現代魔術》を発展させたいんだ。武力に限った話じゃない。医療や、農業にだって使える可能性がある。知識とは使い方だよ」
もっともらしく語る──リコリスは胸の内で呆れてしまう。
知識は善悪そのものではない。どう使われるかで決まるもの。
理屈としては正しいが、結局それは、樹術師の力が戦争に回される可能性を含んでいる、ということでもあった。
リコリスは微かに瞳を伏せて、目の前に置かれた鉢へ手を伸ばした。
揺れる葉を、そっと指先で撫でる。
「……ふふ、そうなの?」
胸の奥へ流れ込む“彼”の言葉と感情に、思わず笑みがこぼれる。
魔封じの腕輪のせいでリコリスの魔力を送ることはできなくとも、植物の気配くらいは感じ取れる。撫でられた小さな葉は、嬉しそうに震えていた。
リコリスは顔を上げ、セルジュの瞳をまっすぐに見つめた。
「多分あなた、そんなに悪いひとじゃないんでしょうね。この子もそう言ってるもの。たまに水遣りを忘れられるとも言ってるけど」
「……おっと」
「でも私、やっぱり『はい』とは言いたくないわ」
地下牢での軟禁。
《魔女》という呼び名。
国を支える神樹を護ってきた一族への、この仕打ち。
別に感謝されたいわけじゃない。
エルドランが神樹の生み出すマナで栄えてきたのは、樹術師には関係のないことだ。
リコリスは静かに暮らしていたいだけだった。
代々受け継いできた使命を果たしながら、神樹とともに在りたかった。
ただ、それだけだったのに。
「こんな扱いをされて、戦争だから力を貸せと言われて、頷けるほど大人じゃないの」
セルジュは不思議そうな顔で首を傾げた。
「300歳って聞いたけど」
「……年齢で人格を測ろうとするのは、愚か者のすることよ」
「ふむ。それはそうだね」
意外にも、セルジュは素直に頷いた。
「それならとりあえず、さ」
彼は机の上の紙束をそっと端に寄せる。
そして、まるでその流れの延長のように、ごくごく自然に手のひらを差し伸べた。
「僕たち、友達になるのはどうかな」
「……友達?」
聞き慣れない単語に、オウム返しをした舌がわずかに戸惑う。
「うん。たまにこうしてお茶を飲んで、きみの話を聞かせて欲しい。逆にきみが僕の話を聞きたいなら、話すよ」
セルジュは穏やかな笑みを浮かべたまま、天気でも語るようにそう言った。
リコリスにとって、それがどれほど特別なことかも知らずに。
「……」
微かに唇を開けて、けれどなんの言葉も紡げない。
友達、という言葉が喉にそのままつっかえたかのように、ただ息だけが漏れる。
それは、今までリコリスの世界には存在しないものだった。
森の植物や動物とは違うのだろうか。そんなことさえ、リコリスにはよくわからない。
少なくとも彼らはこちらから差し出した手のひらに寄り添ってくることはあっても、友達になろうと手を差し伸べるなんてしなかった。
「……たまに、なら」
結局、その手は取れぬまま。
それでもリコリスは、俯きながら小さく首を縦に振る。
膝の上で握った拳を見つめていると、向かいのセルジュがふっと笑みをこぼす気配がした。
「うん。たまに、くらいがちょうどいいよ」
あっさり言い切るその声は、やはりどこまでも軽く。
思わず上がってしまいそうな顔を、リコリスは必死で伏せ続けていた。




