22. 魔女、求める
リコリスの部屋は、研究室から少し離れた場所にあった。
もとは使われていなかった小さな研究室を急ごしらえで空けたものらしく、壁際には古い棚の跡がまだ残っていた。窓はあるが小さく、外の景色もろくに見えない。それでも地下牢に比べれば、空の色がわかるだけで十分すぎるほどましだった。
用意されたものも多くはない。
新しく運び込まれたらしい簡素な寝台と机。あとは地下牢からそのまま移された鉢植えがいくつか。葉の形も大きさもばらばらな彼らだけが、この無機質な部屋にリコリスの私室らしさを添えていた。
「私の部屋見るの、初めてよね。私もようやく慣れてきたの」
リコリスはベッドの端に腰かけ、扉のそばに立つセドリックを見つめた。
彼は部屋へ入ってきたものの、まだ落ち着かない様子で立ち尽くしている。広くもない部屋なのに、ふたりの間には妙な距離があった。
「もっと入ってくればいいのに」
「……いや」
セドリックは中途半端に呻くような声を漏らし、視線だけをこちらへ寄越した。
その顔には困惑と警戒と、それ以外のなにかが入り混じっているように見えた。
「セドリック」
静かに名前を呼ぶ。
「来て」
促すと、セドリックは一度だけ息をつき、観念したように歩み寄ってきた。
リコリスの隣に腰かけた途端、ベッドがわずかに軋んで沈む。その音が、すぐ傍らに人がいるという事実をやけにはっきりと突き付けてきた。
ふたり並んだまま、しばらく黙りこくる。
重いのかそうでもないのか、よくわからない沈黙を破ったのは、セドリックの方だった。
「……嬉しく、なかったのか? さっき」
「どうかしら」
リコリスは顔を伏せたまま答える。
正直、自分にもよくわからなかった。
神樹アシェンディールに、自分の命と身体を捧げる必要がなくなった。
それはきっと、良いことだ。望んでいいはずの未来だった。
けれど真っ先にリコリスの胸へ落ちてきたのは、ひどく空虚な感覚だった。
「あっけなかったな、って思っちゃったの」
ぽつりと呟く。
「お母さまがいなくなってからは……ずっと、アシェンディールを未来に繋ぐ方法を考えていたから。私の命をどう使えばいいのか、そればかり考えてきたから。こんなに簡単に、別の方法が見つかるなんて、って」
「それは……お前が長年研究してたからだろ」
「うん。それはそうなんでしょうね」
セルジュもそう言っていた。
魔術師たちが1週間で道筋を見つけられたのは、リコリスが古代魔術と現代魔術を掛け合わせる研究を重ねてきたからだ。なにもかもが突然、降って湧いたわけではない。
頭ではわかっている。
わかっているのに──気持ちだけが追いつかない。
「私の命の使い道、本当になくなったんだなって。少し、思っただけ」
「……おい」
セドリックの声音に、わずかに咎めるような響きが混じった。
自分の命が要らないものになったわけではない。それもわかっている。
神樹のために生きるのだと、リコリスはずっと信じてきた。そして、ずっとそうやって日々を過ごしてきた。
母から教わった祈りも、森で積み重ねてきた知識も、神樹と結んだ魂も。
すべてはいつか、神樹を未来に繋ぐために使うものなのだと。
だから、その目的が亡くなった途端に。
自分の命と身体が、急に行き場を失くしたような──そんな気がして。
リコリスは、膝の上で固く握った自らの手に視線を落とした。
自分の意思で動かせるはずなのに、どうしてかその動かし方を見失いそうになる。浮かせた手のひらが、ひどく頼りなく虚空を掴む。自分の身体なのに、急に知らないもののようだった。
だから、だろうか。
今、どうしようもなく、目の前の温度に触れたかった。
神樹のためではなく、役目のためでもなく。
ただリコリスが望んで、誰かに手を伸ばすのだと、確かめるために。
「セドリックに、触ってもいい?」
隣に腰かけた男の顔を覗き込むと、彼はすぐに視線を逸らした。
「……少し、困る」
「どうして?」
「俺も触りたくなる、から」
「触ればいいじゃない」
「……お前な」
セドリックは低く呻いた。
怒っているわけではない。拒んでいるわけでもない。
ただ、なにかを必死に留めている顔だった。
「言ったわよね。私、あなたと恋したい」
リコリスがまっすぐに告げても、セドリックはすぐには応えなかった。
しばし視線を彷徨わせ、それからようやく目を合わせてくれる。
「俺はお前が好きだ。触れたいとも思ってる。でも、それは俺のエゴで、俺の欲だ」
「欲だといけないの?」
「いけない……というか、お前が恋だと思ってるものに、俺の欲を混ぜていいのかって話だ」
「もう混ざってるじゃない。最初にキスしておいて、それを言うの?」
素早く切り返すと、セドリックは黙り込んだ。
彼はいつも、リコリスのことになるとひどく慎重になる。大きな手をしているくせに、触れる前に何度も立ち止まる。まるで、少し力を込めただけで壊してしまうものを扱うみたいに。
けれどリコリスは、壊れ物になりたいわけではなかった。
セドリックは何度か口を開閉していたが、結局言葉を見つけられなかったらしい。
その沈黙を見て、リコリスの方から身を寄せた。
抱き着いた途端、腕の中の身体が強張る。肩のあたりに触れたセドリックの手が、行き場を探すように宙で迷った。
リコリスはその右手を捕まえると、自らの頬へと導いていく。
大きくて、少し硬い手のひらだった。神樹の根元で感じたときと変わらない。
「知らないわよ。恋がなにかなんて」
それでも。
リコリスは、彼に触れられて芽生えるこの熱を、恋と呼んでいたいから。
「私に触れて。セドリック」
その願いが落ちたあと、ほんのひと呼吸だけ沈黙があった。
頬に触れたままのセドリック手がゆっくりとリコリスの輪郭をなぞる。銀灰の瞳が、確かめるようにリコリスを見つめる。
逃げない、と意思を示すように見返した次の瞬間、唇が重なった。
最初は静かな口づけだった。
けれど重なるたびに、互いの呼吸が少しずつ乱れていく。肩を抱かれ、引き寄せられ、背中に回された腕の強さに、リコリスは思わずセドリックの服を掴んだ。
怖くはなかった。
ただ、知らない熱が胸の奥から溢れてくる。
どう扱えばいいのかわからなくて、けれど手放したくなくて、リコリスは彼の名を呼んだ。
「セドリック」
それだけで、抱きしめる腕に力がこもる。深く口づけられ、息が混ざり、世界が少しずつ輪郭を失っていく。
気づけばリコリスの身体は寝台へ沈み、セドリックの影がすぐ近くにあった。
「苦しかったら言え」
「……うん」
「無理もするな」
「……うん」
答えるたび、声が頼りなく揺れた。
それでもリコリスは、自分から彼の背に腕を回した。
神樹のためにあった身体。
使命のために使うものだと思っていた命。
それらが今、セドリックの腕の中で、ただリコリス自身のものとして息づいている。
なんの役にも立たない。
神樹を救うわけでも、王国を支えるわけでもない。
それなのに、彼に触れられるたび、胸の奥が苦しいほど満たされていく。
「セドリック……」
名前を呼ぶと、彼の額がリコリスの肩へ落ちた。
抱きしめる腕が震えていることに気づいて、リコリスはそっと彼の髪へ指を差し入れる。
「……くるしいの?」
問いかける声は、自然と細くなってしまった。
けれどセドリックは首を振る。
「お前がいる、から」
リコリスと同じくらい、細くて、頼りない声で彼は言う。
「幸せすぎて、どうしたらいいかわからない」
こぼれおちた言葉に、リコリスは息を呑んだ。
こんなふうに望まれていたのだと、胸の奥が熱くなる。
「私、いるわ。ちゃんといる」
口に出してから、その言葉がすとんと胸に落ちてきた。
リコリスは、この世界にいる。
神樹のためではなく、誰かの祈りのためでもなく。
今、彼の腕の中に、ちゃんといる。
セドリックの頬に指を伸ばすと、手のひらに口づけられた。その温度があまりに優しくて、リコリスは目を閉じる。
その夜、ふたりは何度も互いの名を呼んだ。
窓の外では、夜が静かに深まっていく。
鉢植えの葉が、風もないのにかすかに揺れた。
重なる鼓動は、ちっとも穏やかでも静かでもない。
けれどその音を感じられることが、今は、無性に嬉しかった。




