23. 魔女、未来を選びたい
神樹の根元に、再び人の気配が満ちていた。
けれど、あの夜とはなにもかもが違っている。
リコリスを囲った拘束陣はない。手首に嵌められていた魔封じの腕輪も、逃亡を阻むための魔道具も、今はただのひとつも置かれていない。
大地に刻まれているのは、神樹を支えるための循環術式だった。
灰白色の巨大な幹の周囲を、青白い光の線が幾重にも巡っている。地表に刻まれた線は張り出した根を避けて曲がり、ときに薄い光の橋となって根の上を越えていた。
節々に置かれた《核》が淡く明滅し、光の輪は神樹を囲むように、静かな円環を形作っている。
陣の中心には、一際大きな《核》が据えられていた。透明な結晶の奥で、数本の赤い髪が水草のように揺れている。
リコリスの魔力を深く宿した、最後の樹術師の一部。
神樹アシェンディールに祈りを届かせるための鍵。
ひと月前、王城の研究室で見つかった答えはあまりにも小さなものだった。
自らの身体を《核》にする必要はない。魂を神樹の内側へ移し、命ごと循環に組み込む必要もない。リコリスの髪を媒介に、樹術師の魔力と祈りの痕跡を術式へ刻む。そこへ現代魔術の循環式を重ね、神樹を流れるマナを補助する。
言葉にすれば、それだけのことだった。
けれど、その「それだけ」を形にするために、研究室では昼夜の感覚が曖昧になるほど調整が繰り返された。魔術師たちは髪を燃料として消費しない方法を探り、セルジュは術式の空白を埋めるため、何度も黒板を文字と数字で埋め尽くした。途中で倒れる者もいた。寝ぼけた魔術師が同じ式を三度書き直し、セルジュに肩を叩かれることもあった。
その時間が、リコリスには不思議だった。
地下牢で本を読んでいた日々とも違う。
森の小屋でひとり術式を書き連ねていた頃とも違う。
自分の命ひとつで終わらせるためではなく、このさきも生きていくために、誰かと考える日々だった。
今この場にある術式は、神樹からリコリスを奪うためのものではない。
リコリスが神樹へ命を捧げるためのものでもない。
神樹と、リコリスと。
そのどちらも、これから先を生きるための術式だ。
「……リコリス」
不意に低い声で呼びかけられる。
振り向くとセドリックが少し離れた場所に立っていた。魔術師たちの邪魔にならない位置でありながら、何かあればすぐ駆け寄れる距離だった。
神樹の根元に満ちる淡い光を受け、彼の黒髪が青白く縁取られている。
いつもと少しも変わらない眼差しで、セドリックはリコリスだけをまっすぐ見ていた。
「大丈夫よ」
問われる前に、リコリスは先んじてそう告げた。
セドリックは一度目を瞬かせ、小さく笑って頷く。
「準備できたよー!」
セルジュの声が離れた場所から届いた。
彼は片膝をつき、地面に描かれた術式に手を添えている。丸眼鏡の奥の瞳にはいつもの軽さがなく、研究者らしい静かな緊張が宿っていた。
「理論上はこれでいける。リコリスの髪を目印にして、神樹の魂へ循環式を接続する。あとは、向こうが受け取ってくれるかどうか」
「ええ」
ひとつ頷いてから仰いだ視界に空は映らず、ただ神樹の枝葉が天を覆っている。
千年よりも長く、森の奥に立ち続けた大樹。
リコリスの家族。リコリスの世界。
リコリスは神樹の根元で指を組んだ瞬間、短くなった髪が淡い金色の光を帯びる。
呼応するように、大地へ刻まれた青白い術式が一度だけ淡く光を放った。
「始めるわ」
リコリスの声が落ちると、周囲に満ちていた人々の気配が一斉に薄くなった気がした。
誰かがいなくなったわけではない。むしろ術式を支えるため、多くの魔術師が神樹の根元を囲んでいる。クレイヴンはこの場全体の魔力の流れを見極め、セルジュは術式の起点を観察し、セドリックは集中を妨げないぎりぎりの距離で見守っている。
それでも、この瞬間。
リコリスにとっての世界は、神樹と自分の鼓動だけになった。
古い言葉を紡いでいく。今ではもうリコリスしか使わない、森の奥だけで受け継がれてきた音。
母から教わった祈り。遠い時間の彼方から、幾人もの樹術師が継いできた言葉。
最初に光ったのは、神樹の根元の一画だった。
灰白色の樹皮の割れ目に沿うように、細い金の筋がひとつ、またひとつ通っていく。
見えない根のさきまで光が染み渡るその様は、まるで血液が身体を巡っていくかのようだった。
その瞬間、神樹が微かに震えた。
幹が揺らめいたのでも、枝葉がざわめいたのでもない。
それでもリコリスにはわかった。幹の奥、根のさらに奥、幼い頃から魂を結んできた場所で、神樹がゆっくりと応えている。
──アシェンディール。
呼びかける声は、口からではなく、胸の奥からこぼれた。
応えるように、神樹の内側で大きな鼓動がひとつ鳴る。
“彼”の魂の輪郭が、リコリスの意識の中に浮かび上がる。
リコリスはもう一度呼びかけ、術式が生み出す祈りの痕跡を神樹へ届かせる。
──あのときあなたとひとつになれていたなら、それはそれで幸福なことだったのでしょう。
けれど、今はもう少し。
この世界で、日々を歩んでいたいから。
青白い循環術式の中に、リコリスの髪から滲み出た金色が混じる。
それはリコリス自身を削ったものではない。けれど、森の奥で母から受け継いだ祈りと、神樹に触れてきた時間と、リコリスの内に確かに息づく樹術師の魔力を帯びていた。
金の光は幹を昇っていく。
壁のような幹へ。太い枝へ。細い枝へ。
梢のさきで安らいでいた葉が、夜風もないのに微かに震えた。
現代魔術と交わった古代魔術の祈りが、神樹アシェンディールの内側へ、染み渡るように広がっていく。
その流れを、リコリスは魂の奥で感じ取っていた。
──受け取って、くれた……
そう理解した途端、唇から細い息が漏れた。
まぶたを開くと足元で《核》が静かに明滅している。その奥に沈む赤い髪は燃え尽きることなく、金色の線を術式の中へ送り続けていた。
「……循環式、維持」
「術式、問題なく作動しています」
ゆっくりと、しかし確かに熱気づく魔術師たちの声を背後に聞きながら、けれどリコリスは振り返らなかった。
命ではなく。魂でもなく。
それでも確かに、リコリスが渡したものが神樹の中を巡っている。胸の奥で長く固く結ばれていたものが、ほんの少し緩んだ。
「……よかった」
声にできたのは、それだけだった。
膝から力が抜けかけた瞬間、すぐそばにいたセドリックが半歩踏み込む。
支えるように背へ触れてきた温もりを感じ、リコリスは振り返って小さく笑った。
「なんとかなったみたい」
「ああ、そうだな」
ぶっきらぼうな返事とは裏腹に、肩に添えられた手には明らかな安堵があった。
リコリスはもう一度深く息を吐き、そのままセドリックに身体を預ける。
一方で、魔術師団に成功を喜んでいる余裕はないようだった。セルジュは立ち上がるなり、魔術師たちに素早く指示を飛ばす。
「とりあえず、すぐに術式を固定しよう。本格運用にはまだ経過観察が必要だけど、少なくとも神樹は受け取ってる。マナの流れも安定してる。あとは数日、いや、数週間単位で変化を見て──」
その言葉の途中だった。
リコリスの胸の奥で、小さくなにかが揺らめいた。
痛みでも、衝撃でもない。重ねられていた温もりが、不意に離れていくような感覚だった。
思わず息を呑み、慌てて傍らのセドリックを見上げる。
不思議そうに目を瞬かせているセドリックの手のひらは、変わらずリコリスを支えている。
ならば、失われていくこの温度は──。
「……どうして?」
理解した途端、呟きが漏れた。
胸の奥深くから、遠ざかっていくものがある。
あまりに近くにありすぎて、自分のものと区別する必要すらなかった音。
神樹の鼓動が、少しずつリコリスから離れていく。別の命の音として、遠のいていく。
断たれたのではない。
奪われたのでもない。
アシェンディールの方から、リコリスとの魂の繋がりを手放していた。
「リコリス?」
セドリックが訝るように名を呼ぶ。
すぐ隣にいるはずのその声が、ひどく遠く聞こえた。
「待って、アシェンディール──!」
思わず神樹へ手を伸ばす。
それでも、長くリコリスの内側で鼓動を重ねていた魂が遠ざかるのは止まらない。止めようと焦るほど、胸を占めていた神樹の存在は薄れていった。
重なり合っていた魂が、綻ぶように分かれていく。
残されたのは──ひどく静かな自分自身の心音だった。
とくん、とひとつ。
リコリスの心臓が、リコリスだけのものとして鳴っている。
「おい、どうした」
「アシェンディールが……私との魂の繋がりを、破棄したわ」
周囲の魔術師たちがざわめく。
セルジュが目を見開き、クレイヴンが低くなにかを指示した気配がした。
けれどリコリスは、もう誰の声も聞いていなかった。
「どうして……?」
零れ落ちる木漏れ日に目をすがめながら、もう一度問いかける。
言葉での答えはなく、けれど、葉擦れの音がひどく優しくリコリスを包み込んだ。
「……勝手ね」
そう言った途端、喉の奥が熱くなった。
「私が、ずっと、あなたをひとりにしないって……そう思ってたのに」
昼の光を透かして揺れる枝葉の向こうに、ふいに遠い夜の記憶が重なった。
灰白色の幹。夜空を覆う枝葉。月明かりの中で白く浮かび上がっていた、神樹の根元。
神樹様が寂しくないように。魂移しをした夜、母はそう言った。
幼いリコリスはその言葉を少しも疑わなかった。神樹に寄り添うことは母と同じ場所にいることで、自分もまたひとりではなくなることだった。
だからずっと、そうしてきた。
あなたが寂しくないように。
あなたをひとりにしないように。
けれど、今は──。
「私の方が、寂しいわ」
心のままに呟くと、その感情はそのまま胸の中に沈んでいった。嫌だ、と縋りたくなる衝動を呑み込み、無理やり笑みを浮かべて再び神樹を仰ぐ。
神樹の選択をリコリスが否定するわけにはいかなかった。
「アシェンディールもようやく独り立ちかしらね」
「神樹からすれば、お前の方じゃねえの」
「……むう」
セドリックの言葉に思わず唇を尖らせる。
そんなことはない、と言えればよかった。
けれど、強く否定はしきれなかった。
神樹が生きるために、番人が命を捧げる必要はもうない。
番人が離れたあとも、もう神樹は朽ちたりしない。
それが神樹と樹術師の、新しい絆のかたちだった。
リコリスはゆっくりと神樹へ近づき、灰白色の幹へそっと手を添える。
触れただけですべてが伝わってくるような、あの近さはもうない。それでも木肌は温かく、幹の奥では確かに大きな命が息づいていた。
リコリスは幹に額を寄せ、目を閉じる。
「またすぐ会いに来るわ。あなたと私は、ずっと家族よ」
応えるように神樹の葉が穏やかに光をこぼした。
それはまるで、ただ行っておいでと送り出すような。
そんな、柔らかな光だった。
* * * * *
循環術式の発動から3日後。
リコリスは王城の温室へ向かっていた。
神樹の森には、魔術師団の一部が残っている。
神樹の根元に据えられた《核》の反応と、王都へ送られるマナ供給量の推移を見守るためだ。術式はひとまず成功と見なされたが、それが本当に安定したと言い切るにはまだ時間がいる。
同じように、リコリス自身の身体も経過を見なければならなかった。神樹との魂の繋がりが解けたあと魔力や肉体に異常が出ないとは限らない。
だから一度、王都へ戻った。
そして今はまたひとつ、終わらせるためにリコリスは回廊を歩いている。
硝子の天井越しに、やわらかな陽が降り注いでいた。
整然と並ぶ鉢には、いくつもの精霊樹の苗木が植えられている。背丈も葉の色もまだ幼く、森の奥で見上げたアシェンディールと比べれば、頼りないほど小さい。
それでも根元の土からは、澄んだマナの気配が微かに立ちのぼっていた。
リコリスはしばし若い葉を眺めてから、温室の奥に佇む男へ声をかけた。
「『魂移し』の実験、うまくできなかったでしょう」
クレイヴンは、苗木の前で静かに振り返った。
それは、以前リコリスから『魂移し』の方法を聞いた魔術師たちが、魂を結んで成長させようとしていた精霊樹だった。
リコリスを見つめる灰色の瞳に、驚きは薄い。
だが何も感じていないわけではないらしく、わずかに目元が動いた。
「きみは知っていたのか?」
「神樹の成長なんてね、樹術師だって狙って起こしたものじゃないもの」
「……なに?」
「2000年前に、1本の精霊樹と魂を結んだ樹術師がいた。それだけよ」
樹術師にとって、それは昔々と呼ぶほどの距離ではない。
それでも、今を生きる人間たちには遠すぎる過去の話。
今にも倒れそうな1本の精霊樹があった。
そのそばに、ひとりの樹術師の少女がいた。
少女は“彼”のために、自らの魔力を分け与えた。
それはきっと、大仰な使命でも偉大な魔術でもない。
多分──それは愛だった。
ちっぽけで、ささやかな、けれど確かに愛だった。
「たまたま、その精霊樹が神樹と呼ばれるほど大きく育って、幾人もの他者の魂を受け入れられるほど器を広げただけ。だからアシェンディールって、寂しがりやなの」
神樹を思い浮かべて少し口元を緩めたリコリスは、そのまま言葉を続けた。
「私、ほかの精霊樹でも同じことができるなんて、一言も言ってないわ」
魔術契約で交わされたのは、『魂移しについて虚偽を口にしない』こと。その前提になにを含め、なにを含めなかったかまでは契約魔術の範囲外である。
クレイヴンはしばし沈黙した。
リコリスを責めるでもなく、苛立つでもなく、ただ目の前の苗木へ視線を落とす。
「案外、老獪だな」
「これでも300年生きてますもの」
「愛……か」
クレイヴンは、しみじみとため息をついた。
「参ったな。私はどうも鈍いらしく、妻にも愛が足りないとよく叱られる」
「良いんじゃない?」
リコリスは軽くそう言った。
「『私、愛を知っています』なんてぬかす男より、『愛はわからない』って言ってくれる男の方が信用できるわ」
「そういうものか?」
「そういうものよ」
リコリスはそこで一歩、クレイヴンへ近づいた。
「手」
「手?」
怪訝そうに眉を動かすクレイヴンへ、リコリスは片手を差し出す。
「お互い、契約魔術はもういらないんじゃない? あなたが望むなら破棄するけど」
クレイヴンは、差し出された手を見下ろした。
かつて戦場の天幕で結んだ契約。古代魔術と現代魔術の知識交換のため、互いに虚偽を禁じた魂の繋がり。それはもう役目を終えていた。
しばしの沈黙のあと、クレイヴンはリコリスの手を取った。
結ばれた手のひらは武骨で大きい。魔術師というより、戦場に立つ者の手だとリコリスは思う。特に温かくも冷たくもないその手を感じながら、短い術句を唇に乗せる。
胸の奥に残っていた細い糸が、ふっと緩み、薄れていく。
ただそれだけの感覚だった。
「はい、おしまい」
リコリスはそう言って、あっさりと手を離した。
神樹との魂の繋がりを失ったあとでは、この男との契約が消えたところで、感慨らしい感慨は浮かばない。
もう話すこともなくなったリコリスは、肩の上の赤毛を揺らして踵を返した。
「じゃあね」
短い挨拶を残して一歩踏み出したところで、振り返る。
「そうそう。魂移しではないけど──これからも、精霊樹のみんなには魔力を与えてあげてくれる? みんな、喜んでるわ」
「……ふむ」
「お互い疲れない程度に、ね」
そう告げて、リコリスは温室を後にした。
扉を閉め切る前に一度目をやると、灰色の男はそっと精霊樹の葉に指を伸ばしていた。
温室を出ると、廊下の壁にもたれてセドリックが待っていた。
温室の温かさに触れたあとでは、回廊の空気が少しだけ冷たく感じられる。
セドリックはいつものように黒髪を無造作に結い、腰には見慣れた剣帯を提げていた。銀の滲む灰色の瞳も、ぶっきらぼうに引き結ばれた口元も、地下牢の前で見慣れた彼と少しも変わらない。
それなのに、今はもう檻の向こうの牢番ではなかった。
「終わったのか」
「ええ」
短く答えると、セドリックはそれ以上を尋ねなかった。
クレイヴンとどんな話をしたのか、気にはなっているのだろう。けれど彼はただリコリスの歩調に合わせ、静かな回廊を並んで歩いてくれる。
石造りの回廊には、温室から漏れた若葉の匂いがかすかに残っていた。磨かれた床石に午後の明るさが鈍く映り、ふたりの靴音だけが先へ続いていく。
「ねえ、セドリック」
「なんだ」
「私、これからどこで暮らせばいいのかしら」
セドリックは少しだけ眉を上げた。
「決めてないのか?」
「決められないの。神樹の森には帰りたいわ。アシェンディールにも会いに行きたい。でも、王都にもいたい。現代魔術の研究は楽しいし、セルジュもいるし──」
そこで一度言葉を切って、リコリスは隣の男を見上げた。
「あなたもいるもの」
「……そうか」
セドリックは短く答えた。
けれど視線は、ほんの少しだけ逸らされる。
こういうときの彼は、本当にわかりやすい。
平静を装おうとしているくせに、耳元だけがわずかに赤くなる。
「あなたは?」
「俺?」
「王都にいたい? それとも、森でも平気?」
問いかけると、銀灰の瞳は一度窓の外を見つめた。
王城の向こうには、赤茶の屋根が連なる王都の街並みが見える。
「俺は、どこでもいい。お前がいるところにいる」
「騎士様ったら、それでいいの?」
「どうせ今は出向の身だよ。正式に騎士団に戻ることがあったら、そのときはそのときだ。俺ひとりで決められないことが出てきたら、お前に相談する」
淡々と言って、セドリックはリコリスへ視線を戻した。
その目がふっと細くなる。
「だから今は、お前が森にいたいなら森に行く。王都にいたいなら王都にいる。決められないなら、決まるまで行ったり来たりすればいい」
「そんなに簡単?」
「難しくしたいのか?」
「……したくないわ」
リコリスは小さく笑ってから、セドリックの顔を覗き込んだ。
「じゃあ、しばらく迷ってもいい?」
「ああ」
「途中で変えても?」
「変えればいい」
「何回も?」
「何回でも」
あまりに迷いなく頷かれるものだから、どうにもくすぐったい気分になってしまう。そっと伸ばした指先が触れると、セドリックは一度だけ視線を落とし、それから握り返してくる。
その手を引くのではなく、リコリスは並んだまま歩き出した。
回廊の先には、中庭へ続く扉がある。
かつては誰かに開けられるのを待つしかなかった扉の前で、リコリスは一度だけ足を止めた。
「リコリス?」
「うん。外は明るいなって」
そう答えて、自分の手で扉を押す。
開いた先から、花の匂いが流れ込んできた。
午後の明るさの中で、中庭の草木が静かに揺れている。
リコリスはセドリックの手を握ったまま、外に向かって一歩を踏み出した。




