20. 魔女と騎士、神樹の根元にて
あ、セドリックだ。
目を開けて最初に胸へ落ちてきたのは、そんな間の抜けた感想だった。
頬に触れている手の熱が意識の底まで沁みてくる。硬くて大きな手のひら。夜気の中でもわかる、彼の体温。何度か触れたことのあるそれを、眠気の残る頭がゆっくりと思い出していく。
視界の中には、銀の滲む灰色の瞳があった。
よく逸らすくせに、見つめてくるときはいやにまっすぐな眼差しを受け止めながら、リコリスは我知らず小さく息を吐く。
「──セドリック」
唇が、考えるよりさきにその名を紡いでいた。
セドリックはわずかに苦笑して、ひとつ頷く。
彼の柔らかな表情を見た途端、胸のどこからか安堵が広がりかけて──
その肩越しに覗き込むセルジュを視界に捉えた瞬間、脳が一気に覚醒した。
「っ!!」
ほとんど跳ねるように身体を起こし、リコリスは慌てて隣の根へと飛び乗った。
更に距離を取るように後ずさりをすると、セドリックが少しだけ目を見開く。驚いたというより、あまりに露骨な反応に面食らったような顔だった。
「な、なんで……!」
「追ってきた。あんなことして、追われないと思ったか?」
言葉だけは責めるように、けれどセドリックの表情はいつもとあまり変わらない。
それどころか、普段より穏やかにさえ見える。
「そうじゃなくて、どうやって──!?」
言いながら視線を走らせたところで、ようやく気づく。
自分の胸元から細い金の線が伸びていた。夜の森の中でも淡く光るその線は、どこか遠くからまっすぐリコリスへ繋がっている。
そうか、とリコリスは内心で歯噛みした。
クレイヴンとの契約魔術を利用されたのだ。
契約魔術の破棄には両者の合意がいる。リコリスが一方的に森へ逃げたところで、魂の繋がりそのものまでは消えない。
とはいえ、まさか魔術師が《古代魔術》の技術を利用してくるとは思わなかった。
あの灰色の男の執念深さに、今更ながら舌打ちしたくなる。
「──リコリス!」
セルジュが、慎重に距離を取りながら呼びかける。
「その……どうして、っていうのもあれだけど、そりゃきみは囚われた側だしね、誰だって逃げるよっていうのはわかるんだけど、でもね」
「なんで逃げた?」
しどろもどろなセルジュの言葉を遮って、セドリックが短く問う。
リコリスは一度だけまぶたを伏せ、それから静かに顔を上げた。
「あら。なんで逃げないと思ったのかしら」
「逃がすなって言ったのは、お前だろ」
「あのときは、ね。でももう王国に付き合う必要はないもの」
「だから俺を利用して逃げたのか?」
「──!」
胸の奥に細い針を刺されたような心地がした。
俯いた拍子に、短くなった髪の毛先が頬にかかる。リコリスはそれを払うこともできず、ただ指先を固く握り込んだ。
「……それ、は、悪いと思ってる。ごめんなさい」
「許すかどうかは、理由による」
間を置かずに返された声は、思っていたよりもずっと静かだった。
なじる気もなければ、うやむやにする気もない。ただ、逃がさないと言わんばかりの響きだけがある。
別に、許されたいわけではない。
そんな資格があるとも思っていない。
自分はここで生を終えるつもりなのだから、セドリックにどう思われようと気に病む必要すらないのだ。
それでもリコリスは、セドリックの視線を受け止めることができなかった。
目の前の男は、どれだけ拒んでも、どれだけ傷つけても、きっとまた追いかけてくる。
根で道を閉ざしても、森の闇でこの身を隠しても、どうにかして辿り着いてしまう。
そう、わかってしまったから──これ以上は本音を隠せなかった。
「……神樹のそばにいるのが、私の望みだから」
ようやく絞り出した声は、思っていたよりも静かだった。
彼らに言い聞かせるように、あるいは自分自身へ確かめるように。
リコリスはひとつずつ言葉を紡ぐ。
「私は、神樹とともに在り続ける。今までも、これからも、永遠に」
「それは無理だ」
即座に切り返したのはセルジュだった。
「樹術師は不死じゃない。それはリコリスが一番わかってるだろ?」
「もちろんよ。だから私は私なりに、ちゃんと方法を考えたわ」
「方法って──」
セルジュが眉をひそめる。
「きみ、やっぱり自分の身体を《核》にして……?」
研究会に立ち会い続けたセルジュは、すぐにその目的へ辿り着いたようだった。
リコリスは肯定しなかった。けれど、否定もしなかった。
その沈黙だけで充分だったのだろう。
セルジュの顔色が、目に見えて変わる。
「駄目だよ、リコリス! きみがそんなことをやる必要ない!」
声を張り上げるセルジュとは対照的に、リコリスの胸は奇妙なほど冷えていた。
「それはあなたが決めることじゃない。私が決めることよ」
「きみは、現代魔術を学んで方法を見つけたんだろう!? 僕もリコリスから『魂移し』を教わって、きみの在り方はもっとどうにかできるんじゃ、って思ってる。だから、ほかの方法を探せば──!」
「必要ないわ」
リコリスは短く言葉を断ち切った。
本当は、セルジュの言葉が優しさから来ていることくらいわかっている。
彼が本気で方法を探そうとしてくれていることも。リコリスを救おうとしてくれていることも。
それでも彼はわかっていない。
リコリスが、どんな存在であるかを。
「私は樹術師よ。私の命は、神樹アシェンディールのためにある」
「でも──!」
「悪いけど、議論をする気はないの」
リコリスは小さく息を吐き、指先をひとつ振った。
その途端、神樹の根元の大地が低く鳴る。
土が盛り上がり、いくつもの太い根が這い出した。
「っ!」
セドリックが反射的に一歩退こうとする。
だが遅い。根は生き物のようにしなりながら、瞬く間にふたりを囲んでいく。
彼らがなにかをするより早く、その頭上で根と根が絡み合った。軋む音を立てて閉じたそれは、まるで最初からそこに在ったかのように隙のない檻へと姿を変える。
セルジュは呆然と檻を見渡し、セドリックは変わらずリコリスを見つめている。
その瞳から逃れるように、リコリスは彼らに背を向けた。
「……私の魂がこの肉体から離れたら、その魔術も解除されるわ。少しだけ我慢して」
彼らに向かって魔術をふるいたくなどなかった。
けれど仕方がない。ここで足を止めるわけにはいかない。
だからせめて、きちんと別れの言葉を告げようと思った。
もっと、穏やかな時間が続けばよかったのにと思う。
地下牢で交わした他愛のない会話も、少しずつ増えた鉢植えも、研究室でのやりとりも、建国祭の夜に肩を並べて見上げた光も。
誰かと過ごす時間がこんなにも温かなものだなんて、リコリスは知らなかった。
──本当は、知らないままのほうが幸福だったのかもしれないけれど。
そう思いながらも、リコリスは口元に笑みを浮かべた。
「今までありがとう。あなたたちがいてくれて……追いかけてきてくれて、嬉しかった」
「リコリス──!」
言葉を重ねようとしたセルジュを、セドリックが片手を上げて制した。根に囲まれているというのに、その仕草には妙な落ち着きがあった。
剣に手をかけるでも無理に檻を破ろうとするでもない。
ただ、まっすぐにリコリスを見据えている。
「お前が自分の命が神樹のものだと思ってるのはわかった。
ひとつ聞きたいんだが──それ、誰から言われた?」
「……へ?」
リコリスは思わず間の抜けた声を漏らした。
問いの意味がすぐには吞み込めない。もっと怒るとか、責めるとか、そういう言葉が来るのだと思っていたのに、セドリックが切り込んできたのは別の場所だった。
「え、と……お母さま、から……」
反射的に答えてから、別に素直に口にする必要はなかったのではないかと思うが、今更遅い。
セドリックは鷹揚に頷いた。
「わかった。母親からだな。じゃあ俺が、『いや、お前が生まれてきたのは俺の隣にいるためだ』って言ったら『なるほど』って頷いてくれるか? 頷かないなら筋が通らないよな」
「そ、そうなの……かな?」
滔々と語られて、リコリスは思わず首を傾げた。
「よく考えろ。神樹のために自分の命と身体を使うことだけを選んでいいのか?
言っておくが、俺はこれからさきもお前と一緒にいる気しかない。神樹みたいにマナは出せないが、俺は騎士だから給金は安定してる。飯も作れる。お前ひとり食わせるくらいなら、まあどうにかなる」
突然差し出された生活の話に、リコリスはしばし黙り込んだ。
まったくもって、意味がわからなかった。
「……ちょっと待って。なんの話してるの?」
「俺とお前のこれからの話だ」
「違うわよ! 今してるのは、私とアシェンディールの話でしょ!?」
「俺がしてるのは、俺とお前のこれからの話だ。ちゃんと考えて、ちゃんと選べ」
その一言に、リコリスは無性に頭に血がのぼった。
「知ったような口を聞かないで!」
思いきり叫んだ声が、神樹の根元の静けさを震わせる。
考えろだなんて言われなくても、リコリスはずっと考えてきた。
神樹のことを。神樹を支えてきた母のことを。顔も知らないまま消えていった、ほかの一族のことを。神樹の恩恵の上に成り立つ王国のことを。
その全部を背負って、ひとりで考えてきた。
「ちゃんと考えてきたわよ! どうやったらアシェンディールを守れるか、どうしたらこのさきもアシェンディールをひとりにしないで済むか、300年間ずっと考えてきたの!」
叫ぶほど、喉の奥が焼けるように熱くなる。
怒っているはずだった。それなのに何故か胸が痛い。
リコリスの人生を知らないくせに。
森でひとり過ごしてきた夜の数も。
誰にも名前を呼ばれないまま積み重ねた時間も。
使命だけを抱えて生きてきたその重さも。
なにも、知らないくせに。
それなのに、どうして今になって乱そうとするのか。
どうして、ようやく見つけた答えの前で、選べだなんて言うのか。
「私に、どうしろって言うのよ……!」
掠れた声が、ひどくみっともなく響いた。
喉が震える理由がリコリスにはわからない。目の奥が熱くなる理由もわからなかった。
何年も、何十年も、何百年も。
神樹の森の奥でひとり研究を続けて、やっと見つけた答えがこれだった。
これしかなかった。
これしか、選べなかった。
だってリコリスは──
「だって私……この生き方以外、知らないもの……!」
吐き出した瞬間、自分で微かに息を呑む。
怒声のつもりで口を開いたのに、こぼれ落ちたのはひどく未熟な弱音だった。
根の檻の向こうで、セドリックが静かに呟く。
「『どうしよう』って言ってくれれば、それでいい。一緒に考えよう」
あまりにも簡単に言うものだから、リコリスは思わず目を瞬かせた。
なにを言われたのか、すぐにはわからなかった。
どうしよう。
その言葉だけが、ひどく素直に胸の中へと落ちてくる。
ごくありふれた言葉。なんてことのない言葉。
けれどリコリスにとって──もうずっと、誰にも向けたことのない言葉。
みし、と小さな音がした。
根の檻がわずかに軋みを立てている。
きつく絡み合っていた太い根の1本が、ほんの少し力を失ったように震えていた。
「……どう、しよう」
どうしてか、リコリスの唇は言われたままにその音をなぞっていた。
それでなにが変わるわけでもない。
神樹が未来へ残るわけでも、樹術師の役目がなくなるわけでもない。
それなのに。
胸の奥でずっと固く結ばれていたものが、ほんの少しだけ緩んだ気がした。
まるでそれに呼応するように、目の前の檻も静かにほどけていく。
根と根の隙間に夜の光が差し込み、セドリックの姿が先ほどよりもはっきりと見えた。
銀灰の瞳は、変わらずリコリスを見つめている。
「セドリック」
もう一度、彼の名前を呼ぶ。
すると今度はそのさきの言葉が、自分の意思より早く喉の奥からせり上がってきた。
「どうしよう」
胸の奥で綻んだものが、そのまま唇からこぼれていく。
また1本、音もなく根がほどけた。押し固められていた輪郭が崩れていく。
ふたりを隔てていた檻は、もうその形を保っていなかった。
「私、アシェンディールを守りたい。自分の使命を果たしたい。
でも、私──」
声が震える。
けれど、もう止められなかった。
檻だった根を踏み越えて、セドリックが近づいてくる。
その距離が縮まるほどに、リコリスの中で最後まで張り詰めていたものが失われていった。
「──私、あなたと、恋したい」
「ああ。ふたりで、全部やろう」
揺らぎのないその声を聞いた瞬間、リコリスの膝から力が抜けた。
倒れ込むように一歩踏み出した身体を、セドリックの腕が受け止める。
強く抱きしめられたわけではない。
閉じ込められたわけでも、引き寄せられたわけでもない。
ただ支えてくれる、その温もりに。
リコリスは堪えきれず、セドリックの胸元に額を押しつけた。




