19. 騎士、魔女を追う
リコリスの姿が消えたあとも、森のざわめきはすぐには収まらなかった。
根に弾き飛ばされた術具があちこちで青白い火花を散らし、断ち切られた光の線が地面の上で微かに明滅している。踏み荒らされた草はまだ揺れ、根が飛び出した大地は隆起したまま黒い土を覗かせていた。
誰かの怒声が飛び、別の場所では魔術師が短く指示を出す。けれどその声さえ頭上で鳴り続ける葉擦れに呑まれて溶けていく。今耳朶を打つ雑音の源が、森の樹々なのか人々なのか、セドリックにはもう判別がつかなかった。
「……やってくれたな、魔女め」
クレイヴンが低く押し殺した声で吐き捨てた。
そこに滲んでいるものが怒りか、苦みか、あるいは己の不覚への苛立ちか、セドリックにはわからない。いや、考える余裕がなかった。
頭の中では、ひとつの光景ばかりが焼きついている。
肩口で断ち切られた赤髪。
宙に浮かんだ身体。
そして最後に、こちらを見て微笑んだ顔。
「──くそっ!」
悪態は、ほとんど反射で喉の奥から飛び出した。
セドリックはそのまま駆け出しかける。今すぐ追わなければならない、という衝動だけが四肢を突き動かしていた。けれど一歩目を踏み出すより早く、横から強く腕を掴まれる。
「ちょっと待ったセドリック! 落ち着いて!」
「なんだよ!?」
剣呑に振り返ると、セルジュは焦燥を滲ませた顔で周囲を見渡していた。
「森中に魔力が溢れてる……樹術師は認識阻害の魔術を使う。このまま追っても、多分追い付けない」
「だったらなんだよ!? あいつは神樹のところに行ったのは間違いない。あんだけ馬鹿でかいんだから目印にすればいいだろ!」
「そんなんで着くか馬鹿! 魔術を舐めるな!」
セルジュは珍しく口調を荒らげた。
もちろん、自分でも無茶を言っている自覚はあった。
騎士団で遭難対処の訓練を受けたことぐらいある。目印さえあれば必ず辿り着けるなどと、森がそんな甘いものではないことくらい知っている。
ましてやここは、ただの森ではない。神樹を中心に古い魔術が息づく《魔女》の住処だ。
それでも、理屈は足を止める理由にはならなかった。
リコリスがなにをする気なのかわからない。
何故逃げたのかも、なにを隠していたのかも──あの告白が本心だったのかも、聞いていない。
だというのに、彼女がもう二度とセドリックの手の届かないところへ行ってしまうのではないか。そんな冷えた予感が胸の内側でなによりも大きく膨れていく。
置いていかれた怒りと、追いつけないかもしれないという焦燥に、気ばかりが逸った。
「とにかく、追うなんて物理的に無理だ! なんとかリコリスの魔力の痕跡を見つけないと──」
「痕跡ならば、おそらくある」
セルジュの言葉に被せるように、クレイヴンが静かに口を開いた。
ざわめきの残る野営地の中で、その低い声だけが妙にはっきりと耳へ届く。
「私と彼女は契約魔術で結ばれている。まだその契約は破棄されていない。この魂の繋がりを追えば、彼女の居場所がわかるかもしれない」
「……師団長が、あいつと魂を……?」
「そんなことが可能なんですか?」
思わず漏れたセドリックの声と、周囲の魔術師の問いが重なった。
クレイヴンは森の奥へ目を向けたまま、短く答える。
「本来、契約魔術は相手の居場所を探るためのものではない。今回は契約で結ばれた魂の線を、術式で無理やり表へ引きずり出す。
聞きかじった程度の《古代魔術》の真似事だが、今はそれに賭けるしかない」
迷いのない声で言い切ったクレイヴンは、静かに目を伏せた。ただそれだけで、周囲のざわめきが急に薄れたような気がした。
やがて男の唇が、低く、聞き慣れぬ響きの術句を紡ぐ。
ほどなくして、クレイヴンの胸元に淡い金の光が灯った。
細い光だった。
糸のように繊細で、けれど夜の森ではよく目立つ。揺らぎながら伸びたそれは、宙を裂くように森の奥へ走っていった。枝葉も闇も構わず、ただ一直線に。
「……私は術式を維持する。術隊は回路を補強しろ。余剰マナはすべて私に回せ」
短い指示に、数人の魔術師が即座に動いた。
クレイヴンを囲み、地に膝をつく魔術師の中にはセルジュの姿もある。
彼らが呪文を唱えた瞬間、クレイヴンの足元に巨大な魔法陣が浮かび上がった。幾重にも巡る光の輪から青白い線が立ち上がり、森へ伸びる金の線を繋ぎ止めるように絡みつく。
クレイヴンの額には既に汗が滲んでいた。
この国の魔術を統べる男でさえ、《古代魔術》の領域へ踏み込むことは容易ではないのだ。
魔術師ですらない、ただの騎士に過ぎない自分であれば尚更である。
──それでも。
セドリックは金の線を目で追った。
このさきに、リコリスがいる。
そう思った瞬間、身体が先に動いていた。
指示を待つより早く、セドリックは地を蹴る。
「ちょっ……セドリック!」
背後で、セルジュの声が上がった。
「お前もついていけ。この線も、いつまで保つかわからん」
「……ああ、もう! 第一分隊!」
振り返らずとも、セルジュがローブを脱ぎ捨てる衣擦れと、苛立たしげに声を張り上げる気配がわかった。
「古代魔術由来の回路の術式構成は、前に入植案件の報告書に記載したとおり! 把握してるひとを中心に補強して! 師団長の術式は絶対に切らさないで!」
矢継ぎ早に飛ぶ指示が、背後で一度途切れた。
直後、地を蹴る足音が追ってくる。
「セドリック! 僕も行く!」
勇んで飛び出したものの、魂の繋がりを示す線は随分と不親切な案内人だった。
走っていられたのはほんの数分。
足元はすぐに細い獣道すら失い、あとは樹の根と岩の間を縫って進むしかなくなった。
金の線は巨木や大岩を平然と突き抜けて森の奥へと伸びていくが、まさか人間がその通りに進めるはずもない。
先頭に立ったセドリックは、慎重に歩を進めていた。踵で土の固さを測り、低い枝を押さえてセルジュをさきに通し、濡れた岩場では靴底を滑らせて足場を探る。騎士団で叩き込まれた野外行軍の勘が、こんな夜の森でも辛うじて役に立っていた。
背後ではセルジュが手のひらの上に小さな明かりを灯している。
青白い魔術の光は足元だけをぼんやりと照らし、露出した根や低木の枝を闇の中から浮かび上がらせていた。
枝を払い、岩を越え、通れそうな隙間を探す。
金の線から外れたときは、セルジュがすぐに魔力の流れを確かめて進路を修正する。
そうやって進むうち、いよいよ夜は更けて森は闇に落ちていく。
「これ、本当にリコリスがいるところに繋がってるんだよな?」
「そう信じるしかないよ、今は」
背後から返ってきたセルジュの声は、少し息が上がっていた。
もう少し早くバテるかと思っていたが、彼も存外野外調査で鍛えられているらしい。セドリックは目の前の倒木へ手をかけながら、視線を前へと向けた。細くゆらめく金の線はまだまだ森の奥へ続き、どれだけリコリスに近づいているのかもわからない。
少なくとも、クレイヴンとリコリスを直線で結んでいることは間違いないと思いたいが──
そこまで考えて、セドリックはぼそりと呟いた。
「……あいつ、師団長と魂を結んでたんだな」
「嫉妬してるの? 正気? こんなときに」
「うるせえ! してねえよ!」
図星を突かれて思わず声を荒らげる。
前を塞ぐ枝を払いのけながら吐き捨てると、背後でセルジュが小さく息をついた。
呆れたのか、笑いを堪えたのかまでは、夜闇の中ではわからなかったが。
それからしばらく、ふたりは黙って森の中を進んだ。
湿った落ち葉が靴の下で沈み、低い枝が肩や頬をかすめていく。セルジュの灯す魔術光が木の根や岩肌を照らすたび、闇の形だけが変わった。
今が一体何時なのかもわからない。夜は深く、森はどこまでも広かった。
この深い森が、彼女がずっと生きてきた世界なのだ。
そう思うたびに、胸の奥に言いようのない重さが沈んだ。
「……ごめん、セドリック」
不意に、背後からセルジュが呟いた。
「あ?」
「リコリスが髪を使って魔封じの腕輪を破壊するのを、読めなかった。そのせいで、きみが……」
そこで言葉が切れた。
リコリスがセドリックの剣で断髪したことを言っているのだろう。
断ち切られた赤髪が宙に散る光景が、脳裏に蘇る。
「ああ、まあ……気にしてないとは言わねえけど、別にお前のせいではないだろ」
「正直、肉体の一部を《核》として扱うなんて、想像もしなかった」
「そういうもんなのか?」
「普通の人間じゃ無理だよ。リコリスはちゃんと《魔女》で、僕はそれをわかっていたつもりで……結局、わかってなかった」
セルジュは自嘲するように息を吐いた。
「友達だなんて言って、彼女の存在を軽く見たのかもしれない。隣に座って、お茶を飲んで、普通の顔をして話して……そういうふうに見たから、肝心なところを見落としたのかなって。最初からもっと、《魔女》として警戒すべきだったのかもね」
「……」
正直そんなことで謝るくらいなら、今までの数々の無遠慮な物言いをさきに詫びろ、と思わないでもなかったが。
セドリックは別の言葉を告げるために、静かに唇を開いた。
「……それは違うんじゃねえか」
「え?」
「お前があいつを友達だって言ったことだよ。そこまで間違いにする必要はねえだろ」
友達ができたの、と言ったリコリスの顔を思い出す。
まるで普通の少女のように、手のひらに乗せた宝物を差し出すように。
彼女はそう言っていた。
「リコリス、喜んでたと思うぞ」
短く告げると、背後でセルジュが黙り込む気配がした。
建国祭の夜にリコリスを外へ連れ出せたのも、セルジュが彼女を禁忌の存在ではなくひとりの相手として扱っていたからだ。
「まあ、それも含めて、これから本人に聞けばいいだろ」
「……うん。そうだね」
少し間を置いて、セルジュがようやく答えた。
口元には微かな笑みが浮かんでいたが、それでもまだ晴れた表情とまではいかない。
「セドリック」
再び名前を呼ばれる。
振り返らずとも、セルジュの声がさっきまでより低いことがわかった。
「リコリスの肉体は《核》になる。つまり、彼女は身体に術式を刻める。彼女そのものが魔道具になりうる」
「……」
言葉の意味をすべて理解できたわけではない。
それでもセドリックの胸の奥に鈍いものが沈んだ。聞き慣れない理屈のはずなのに、それがひどく危うい話であることは嫌でもわかってしまう。
「もしも彼女が自分の身体を使って、なにかをしようとしていたら──」
セルジュの声は、夜の森の中で妙に静かだった。
その静けさが却って、言葉のさきを聞きたくない気持ちを煽る。
「関係ねえよ」
セドリックは短く切り捨てた。
リコリスがなにを考えているのか。
なにをするつもりなのか。何故あんなことをしたのか。
聞かなければならないことは、山ほどある。
だから今ここで、最悪の形ばかり思い描いている場合ではない。
「とにかく会う。話はそれからだ」
言い切ってから、少しだけ声を落とす。
「ただ、なんにせよ急ぐぞ」
「……同感」
それきり、ふたりは口を利かなかった。
それでもセドリックは自然と進む速度を上げて、セルジュも弱音ひとつ吐かずにあとをついてくる。
金の線に導かれながら森の奥へ分け入るにつれ、不思議と足音まで小さくなっていた。
森の音は遠ざかり、気づけば声を出すことさえ憚られるような静寂が辺りに満ちている。
辿り着いたのは、大きく開けた場所だった。
森の奥に、そこだけ切り取られたような空白がある。頭上を覆っていた枝葉は途切れ、淡い月明かりがその場所を世界から浮かび上がらせるように降り注いでいた。
最初、セドリックにはそれが樹だとわからなかった。
闇の中に立つその影は幹というより崖に近い。枝葉は夜空そのものを支えるように広がり、見上げても全容は掴めない。
ただ、途方もない質量だけがそこに在った。
金の線は大樹の根元を指していた。
張り出した根に身体を預けるようにして、短くなった赤髪の女が蹲っている。
セドリックとセルジュは視線を交わし、それから息を潜めるように歩を進めた。
そうしようと決めたわけではない。
けれど、この場所はあまりに静謐だった。
道中ずっと耳にまとわりついていた葉擦れも、虫の声も、ここではひどく遠い。
まるでこの空間だけが、世界とは別の理で成り立っているかのようだった。
近くで覗き込んでみると、リコリスは目を閉じていた。
一瞬、胸の奥へ冷たいものが落ちる。
けれどすぐに頬に血の気があるのが見えた。胸元も、よく見れば緩やかに上下している。
眠っているだけ──そうわかっても、張り詰めていたものはすぐには緩まなかった。
穏やかな顔で眠るその姿は、この場の静けさにひどく馴染んでいる。声をかければ、そのままどこかへ遠ざかってしまいそうだった。
「……」
セドリックは彼女のそばに膝をつく。
夜露を含んだ草が膝当てを濡らしたが、気にもならなかった。
そっと頬へと手を伸ばす。
指先に触れた肌は滑らかで、夜気の中でなお微かな温もりを宿していた。その温度に触れた瞬間、胸の奥で強張っていたものがようやく少しだけほどける。
頬の輪郭を確かめるように、親指でわずかに撫でる。
するとリコリスが小さく息を漏らした。長い睫毛が震え、肩先がかすかに身動ぐ。
「リコリス」
呼びかける声は自然と囁きになった。
起こしてしまうのが惜しいような、それでも目を開けてほしいような、半端な願いがそのまま滲んだ声だった。
睫毛がもう一度ゆっくりと震え、少しずつ重たげにまぶたが持ち上がった。
眠りの底から浮かび上がるように現れた翠の瞳が、ぼんやりと揺れながらセドリックを映す。
最初は夢でも見ているような顔だった。
けれど焦点が合うにつれて、その双眸が小さく見開かれていく。
「──セドリック」




