18. 魔女、神樹に命を捧げたい
夜の森を、ひとり歩く。
頭上を覆う枝葉に遮られ、月明かりはほとんど地上まで届かない。
見上げても空は黒い梢の隙間に細く裂けるばかりで、一寸先には濃い闇が溜まっていた。湿った土を踏むたび、落ち葉がやわらかく沈む。頬を撫でる夜気には、古ぼけた樹々と水気をはらんだ草のにおいが混じっていた。
リコリスがひとつ指を鳴らす。
すると道の両脇に伏せていた小さな葉が順々に灯りを宿した。花弁の先が、蔓の節が、やわらかな金色を帯びる。リコリスが踏み出すたびに次の草花が応えるように光り出し、細い獣道が暗がりの奥へひと筋ずつ延びていった。
リコリスはその道を一歩ずつ歩いていく。
喧騒はもう遥か遠い。耳に届くのは、枝葉が擦れ合うささやかな音と、ときおり幹が低く軋む音だけだった。
孤独で静かな、けれどすっかり慣れた森の夜。
──《魔女》はかつて、《森の賢者》と呼ばれていた。
森に住み、植物を操る魔術を扱う者。
魂を神樹アシェンディールに結び付け、“彼”の成長を見守り、祈り、そして“彼”から大いなるマナを享受する者。
その呼び名がいつ変わったのか、リコリスは知らない。
ただ、千年前。
今ではエルドランと呼ばれるようになった小さな村と、当時の《森の賢者》との間に、ひとつの約定が結ばれた。
神樹の森と《森の賢者》の暮らしは侵さない。
その代わり、この森を村の守護下にあるものとして扱う。
始まりは、ただそれだけだった。
樹々の間に沈む小屋に灯りはなかった。
見慣れたはずの輪郭も、夜の闇の中ではどこかよそよそしい。屋根にも壁にも湿り気が染みつき、蔦の這う木肌には冷えた露が鈍く光っている。
リコリスは扉の前に立ち、しばしその静けさを見つめたあと、ゆっくりと手をかけた。
木製の扉は押した途端、ぎい、と耳障りな音を立てた。
留守の間、誰にも開け閉めされなかった音ではない。もっと乱暴に、もっと無遠慮に扱われたあとの軋み方だった。
再び指を鳴らし、指先に小さな魔術の灯りをともす。
淡い金色の光が暗い室内をぼんやりと照らし出した。
浮かび上がった我が家は、変わり果てていた。
泥の乾いた靴跡。踏み荒らされた床。散乱した椅子と食器。
壁際に並んでいたはずの書棚は倒れ、本は無造作に床へ投げ出されている。引き出しは開け放たれ、布や紙束が中途半端に引きずり出されたままだった。
魔術師団があらためたという、その結果がこれだ。
「……随分荒らしてくれたものね」
小さく漏らした声に、怒りはほとんど滲まなかった。
なにもかも、もう今更だ。王国に対して腹を立てる意味も、価値もない。
半ば癖のように肩にかかった髪を払おうとして、手のひらが空をかすめた。
そこでようやく、自分の髪が随分と短くなってしまったことを思い出す。指先に触れる長さは頼りなく、慣れ親しんだ重みはもうなかった。
リコリスは指先に灯りを宿したまま、静かに家の中を歩いた。
床に落ちていた本を拾い、ひびの入った皿を棚へ戻し、横倒しになっていた椅子を起こす。元の場所へ、元の形へひとつずつ戻していく行為に、どれほどの意味があるのかはわからなかった。
どうせもう、ここで暮らすわけではないのだから。
木を彫って作ったコップを拾い上げて、リコリスはふと手を止めた。
何度も作ってきた形だった。縁の丸みも、持ち手の削り方も、今もこの手が覚えている。
幼い頃、その作り方を教えてくれたのは母だった。
木の選び方も、刃の入れ方も、乾かし方も。
リコリスは、なんでも母から教わって生きてきた。
──母も祖母も、神樹の番人として生きてきた。
だから母が亡くなったあとは、リコリスの番だった。
ずっと昔には、森中の樹術師が神樹に魂を繋いでいたのだと、聞かされたこともある。
けれど、リコリスはそんな時代を知らない。
世界に在ったのは、母の温もりと、神樹の囁きだけだった。
辿り着いた鏡の前で、リコリスは立ち止まった。
埃を被った表面を袖で軽く拭う。曇りの薄れた鏡の中から、こちらを見つめ返す自分の姿は、随分と様変わりしていた。
首の後ろで断ち切られた髪は、肩先でばらばらに跳ねている。
長く垂れていたころの癖だけがまだ残る毛先は揃わず、ところどころ不自然に短い。
指先でそれを摘まみ、リコリスはしばらく黙って鏡を見ていた。
「……最期くらい、可愛い姿を見せたかったな」
小さく呟いてから、目を伏せる。
自分で髪を断ち、あんな別れ方までしておいて、せめて見苦しくない姿を覚えていてほしいなど、都合が良すぎる。
そう思いながらも、視線はもう一度鏡へ戻っていた。
リコリスは足元に落ちていた枯葉を拾い、短く呪文を唱えた。
葉は指先の間で細く硬くなり、薄い刃のような輪郭を帯びる。
慣れた手つきで、それを毛先へ当てた。
耳の横。首筋。肩先。
今更なんの意味もないのに、乱れたところを少しずつ切り揃えていく。
今までずっと、ひとりでそうしてきたように。
やがて、枯葉を動かす手を止める。
鏡に映る自分の髪は、まだ短く、まだ不揃いで、けれどさっきよりはずっとましに見えた。
リコリスは一度だけ家の中を見渡して、そっと息をついた。
もう少し片づけたかったような気もするが──王国の連中がいつ追ってくるともわからない。
最後の樹術師の家は汚かったなどと言われたら嫌だな、と頭のどこかで考える。
けれど結局はそれもどうでもよくなって、リコリスは静かに家を出た。
来たときと同じように、足元の草花を道標にして歩き出す。
小さな葉が順々に灯りを宿し、花弁の先や蔓の節がやわらかな金色を帯びる。細い獣道はその光に縁取られ、闇の中へまたひと筋、浮かび上がった。
──母が亡くなったとき、リコリスはあまりに幼かった。
自分もまた、いつか誰かに役目を繋がなければならない。
それはわかっていた。けれど、とてもそんな未来は見えなかった。
リコリスの名前を呼んでくれたのは母だけで、その母はもういなくなってしまったから。
だから、考えた。
リコリスひとりの命で、ずっと先の未来まで神樹を守る方法はないか、と。
どうせ他人と関わることもないリコリスには、無限に等しい時間があった。
そうして森の奥深く、研究の年月を数えることさえしなくなったころ。
リコリスは、禁忌の《魔女》として王国に捕らわれた。
初めは許せなかった。
絶対に言うことなど聞くものか、と心に決めていた。
けれど《現代魔術》を目にして、その決意は少しずつ形を変えた。
マナを集め、術式を刻み、循環させる。
人の手で作られた《核》は、リコリスの知る魔術とはあまりに違っていた。
けれど同時に、それは彼女がずっと探し続けていた形にひどく近かった。
器があって。
そこに術式を刻んだ。
マナが巡り続けるようにする。
それなら──神樹と魂を結び、マナを宿し続けてきたリコリスの肉体もまた、器になり得るのではないか。
自らの身体を《核》にして、魂を神樹の内側で巡らせる。
そうすれば樹術師の祈りは途切れず、アシェンディールのそばに在り続けることができる。
リコリスはようやく、自らが探し続けていた答えに辿り着いた。
神樹アシェンディールの異変を感じ取ったとき、リコリスは少し驚いた。
それは術式の理論がようやく形になったのと、ほとんど同じころだったからだ。
ただの偶然なのか。それとも運命なのか。
あるいは、神樹アシェンディールが遠くの地で、森に帰ることを望むリコリスへ応えたのか。
いずれにせよ、リコリスはこの森に帰ってきた。
自らの使命を果たすために。
「──アシェンディール」
リコリスは、目の前の大樹を見上げて微笑んだ。
森の奥には、ぽっかりと開けた場所がある。
その中央に、神樹アシェンディールは立っていた。
幹は、何人で手を繋いでも抱えきれないほど太い。
灰白色の樹皮には、古い皺のような溝が幾重にも刻まれている。地表に張り出した根は小さな丘のように盛り上がり、その隙間で苔と白い花が静かに息づいていた。
夜空へ伸びた枝は大きく広がり、葉の一枚一枚が月明かりを受けて淡い銀緑に光っている。
風はなくとも、梢は穏やかに揺れていた。
まるで、リコリスの帰りを待ちわびていたかのように。
神樹の根元に腰を下ろし、リコリスはそっと身体を幹に預ける。
背中に触れる樹皮はごつごつと硬いのに、その奥には慣れた温もりがあった。強張っていた身体の芯が、少しずつほどけていく。
「ひとりにしてごめんね。寂しかったわよね」
樹術師の祈りで育ってきた神樹は、とても寂しがり屋だから。
王国が騒いでいた異常とて、なんのことはない。リコリスと長く離れてしまったから、少し不安になってしまっただけなのだろう。
今リコリスに伝わるマナの流れも、魂の鼓動も、以前感じていたものと変わりない。
「もうこれからは、ずっと一緒だからね」
その言葉を口にすると、胸の奥で張っていたものがわずかに緩んだ。
地下牢でも、王城でも、馬車の中でも。
森へ着いてからでさえ、リコリスはずっと気を張りつめていたのだと、今さらのようにわかる。アシェンディールのそばまで来て、ようやく呼吸の仕方を思い出したような心地がした。
ふと、自らの腕に視線を落とす。長くつけられていた重みは、もうない。
神樹の根元に、腕輪と拘束陣をつけたまま立ちたくはなかった。
番人としてではなく、囚人として、禁忌の《魔女》として帰ることだけは絶対に嫌だった。
森に入った時点で、王国の支配に付き合う意味はなくなった。
だからリコリスは置いてきた。魔術師団を。髪を。友達を。
──セドリックを。
あのときの顔が、ふと胸裏に浮かぶ。
手を伸ばしかけて、届かずに止まった顔。
葉陰の向こうで、ただまっすぐこちらを見ていた銀灰の瞳。
傷ついただろうな、と胸中でひとりごちる。
あんな別れ方をしたのだから、怒って、呆れて、見限ってくれた方がいい。リコリスのことなど綺麗さっぱり忘れてしまえたなら、その方がきっと彼のためだ。
けれど。
前にひどい女に振り回されたことがあったと、いつか笑い飛ばすくらいには。
記憶の片隅に残っていたらいいのに、とも思ってしまう。
なんて醜く身勝手なのだろう、とリコリスは目を伏せた。
いずれにせよ、もう考えても仕方がない。
あとは術式を発動させればいい。
リコリスの魂は神樹の中を巡り続け、誰にも引き離されなくなる。
そして神樹が神樹として在る限り、エルドランの──セドリックが暮らす国のマナ供給も守られる。
すべきことは決まっている。
迷う余地など、どこにもない。
それでもリコリスは、細く長い息をついた。
肩の力が抜けた途端、全身へ遅れて疲労が押し寄せてくる。森へ戻るまで気づかないふりをしていただけで、本当はずっと、思っていた以上に疲れていたのかもしれない。
「……ちょっと、疲れちゃった。少しだけ休ませてくれる?」
そう言って、まぶたを閉じる。
応えるように、頭上でさわさわと葉が揺れた。
幹へ預けた背中の向こうから、ゆったりとした鼓動が伝わってくる。自分の鼓動と重なり合い、境目が少しずつ曖昧になっていく。
ああ、ここがリコリスの居場所だ。
ずっとここに帰ってきたかった。
──帰ってきたかった、はずなのに。
頬を濡らす温かさが、安堵によるものなのか、それとも別の理由によるものなのか。
リコリスには、よくわからなかった。




