↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
【コミカライズ進行中】禁忌の魔女は神樹に命を捧げたい  作者: 日野ひなこ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

18/23

18. 魔女、神樹に命を捧げたい


 夜の森を、ひとり歩く。


 頭上を覆う枝葉に遮られ、月明かりはほとんど地上まで届かない。

 見上げても空は黒い梢の隙間に細く裂けるばかりで、一寸先には濃い闇が溜まっていた。湿った土を踏むたび、落ち葉がやわらかく沈む。頬を撫でる夜気には、古ぼけた樹々と水気をはらんだ草のにおいが混じっていた。


 リコリスがひとつ指を鳴らす。

 すると道の両脇に伏せていた小さな葉が順々に灯りを宿した。花弁の先が、蔓の節が、やわらかな金色を帯びる。リコリスが踏み出すたびに次の草花が応えるように光り出し、細い獣道が暗がりの奥へひと筋ずつ延びていった。


 リコリスはその道を一歩ずつ歩いていく。

 喧騒はもう遥か遠い。耳に届くのは、枝葉が擦れ合うささやかな音と、ときおり幹が低く軋む音だけだった。


 孤独で静かな、けれどすっかり慣れた森の夜。




 ──《魔女》はかつて、《森の賢者》と呼ばれていた。


 森に住み、植物を操る魔術を扱う者。

 魂を神樹アシェンディールに結び付け、“彼”の成長を見守り、祈り、そして“彼”から大いなるマナを享受する者。

 その呼び名がいつ変わったのか、リコリスは知らない。


 ただ、千年前。

 今ではエルドランと呼ばれるようになった小さな村と、当時の《森の賢者》との間に、ひとつの約定が結ばれた。


 神樹の森と《森の賢者》の暮らしは侵さない。

 その代わり、この森を村の守護下にあるものとして扱う。


 始まりは、ただそれだけだった。




 樹々の間に沈む小屋に灯りはなかった。

 見慣れたはずの輪郭も、夜の闇の中ではどこかよそよそしい。屋根にも壁にも湿り気が染みつき、蔦の這う木肌には冷えた露が鈍く光っている。


 リコリスは扉の前に立ち、しばしその静けさを見つめたあと、ゆっくりと手をかけた。

 木製の扉は押した途端、ぎい、と耳障りな音を立てた。

 留守の間、誰にも開け閉めされなかった音ではない。もっと乱暴に、もっと無遠慮に扱われたあとの軋み方だった。


 再び指を鳴らし、指先に小さな魔術の灯りをともす。

 淡い金色の光が暗い室内をぼんやりと照らし出した。


 浮かび上がった我が家は、変わり果てていた。


 泥の乾いた靴跡。踏み荒らされた床。散乱した椅子と食器。

 壁際に並んでいたはずの書棚は倒れ、本は無造作に床へ投げ出されている。引き出しは開け放たれ、布や紙束が中途半端に引きずり出されたままだった。

 魔術師団があらためたという、その結果がこれだ。


「……随分荒らしてくれたものね」


 小さく漏らした声に、怒りはほとんど滲まなかった。

 なにもかも、もう今更だ。王国に対して腹を立てる意味も、価値もない。


 半ば癖のように肩にかかった髪を払おうとして、手のひらが空をかすめた。

 そこでようやく、自分の髪が随分と短くなってしまったことを思い出す。指先に触れる長さは頼りなく、慣れ親しんだ重みはもうなかった。


 リコリスは指先に灯りを宿したまま、静かに家の中を歩いた。

 床に落ちていた本を拾い、ひびの入った皿を棚へ戻し、横倒しになっていた椅子を起こす。元の場所へ、元の形へひとつずつ戻していく行為に、どれほどの意味があるのかはわからなかった。

 どうせもう、ここで暮らすわけではないのだから。


 木を彫って作ったコップを拾い上げて、リコリスはふと手を止めた。

 何度も作ってきた形だった。縁の丸みも、持ち手の削り方も、今もこの手が覚えている。


 幼い頃、その作り方を教えてくれたのは母だった。

 木の選び方も、刃の入れ方も、乾かし方も。

 リコリスは、なんでも母から教わって生きてきた。




 ──母も祖母も、神樹の番人として生きてきた。

 だから母が亡くなったあとは、リコリスの番だった。


 ずっと昔には、森中の樹術師(ドルイド)が神樹に魂を繋いでいたのだと、聞かされたこともある。

 けれど、リコリスはそんな時代を知らない。

 世界に在ったのは、母の温もりと、神樹の囁きだけだった。




 辿り着いた鏡の前で、リコリスは立ち止まった。

 埃を被った表面を袖で軽く拭う。曇りの薄れた鏡の中から、こちらを見つめ返す自分の姿は、随分と様変わりしていた。


 首の後ろで断ち切られた髪は、肩先でばらばらに跳ねている。

 長く垂れていたころの癖だけがまだ残る毛先は揃わず、ところどころ不自然に短い。

 指先でそれを摘まみ、リコリスはしばらく黙って鏡を見ていた。


「……最期くらい、可愛い姿を見せたかったな」


 小さく呟いてから、目を伏せる。

 自分で髪を断ち、あんな別れ方までしておいて、せめて見苦しくない姿を覚えていてほしいなど、都合が良すぎる。


 そう思いながらも、視線はもう一度鏡へ戻っていた。

 リコリスは足元に落ちていた枯葉を拾い、短く呪文を唱えた。

 葉は指先の間で細く硬くなり、薄い刃のような輪郭を帯びる。

 慣れた手つきで、それを毛先へ当てた。


 耳の横。首筋。肩先。

 今更なんの意味もないのに、乱れたところを少しずつ切り揃えていく。

 今までずっと、ひとりでそうしてきたように。


 やがて、枯葉を動かす手を止める。

 鏡に映る自分の髪は、まだ短く、まだ不揃いで、けれどさっきよりはずっとましに見えた。

 リコリスは一度だけ家の中を見渡して、そっと息をついた。


 もう少し片づけたかったような気もするが──王国の連中がいつ追ってくるともわからない。

 最後の樹術師の家は汚かったなどと言われたら嫌だな、と頭のどこかで考える。

 けれど結局はそれもどうでもよくなって、リコリスは静かに家を出た。


 来たときと同じように、足元の草花を道標にして歩き出す。

 小さな葉が順々に灯りを宿し、花弁の先や蔓の節がやわらかな金色を帯びる。細い獣道はその光に縁取られ、闇の中へまたひと筋、浮かび上がった。




 ──母が亡くなったとき、リコリスはあまりに幼かった。

 自分もまた、いつか誰かに役目を繋がなければならない。

 それはわかっていた。けれど、とてもそんな未来は見えなかった。

 リコリスの名前を呼んでくれたのは母だけで、その母はもういなくなってしまったから。


 だから、考えた。

 リコリスひとりの命で、ずっと先の未来まで神樹を守る方法はないか、と。


 どうせ他人と関わることもないリコリスには、無限に等しい時間があった。

 そうして森の奥深く、研究の年月を数えることさえしなくなったころ。

 リコリスは、禁忌の《魔女》として王国に捕らわれた。


 初めは許せなかった。

 絶対に言うことなど聞くものか、と心に決めていた。

 けれど《現代魔術》を目にして、その決意は少しずつ形を変えた。


 マナを集め、術式を刻み、循環させる。

 人の手で作られた《核》は、リコリスの知る魔術とはあまりに違っていた。

 けれど同時に、それは彼女がずっと探し続けていた形にひどく近かった。


 器があって。

 そこに術式を刻んだ。

 マナが巡り続けるようにする。


 それなら──神樹と魂を結び、マナを宿し続けてきたリコリスの肉体もまた、器になり得るのではないか。


 自らの身体を《核》にして、魂を神樹の内側で巡らせる。

 そうすれば樹術師(ドルイド)の祈りは途切れず、アシェンディールのそばに在り続けることができる。

 リコリスはようやく、自らが探し続けていた答えに辿り着いた。


 神樹アシェンディールの異変を感じ取ったとき、リコリスは少し驚いた。

 それは術式の理論がようやく形になったのと、ほとんど同じころだったからだ。


 ただの偶然なのか。それとも運命なのか。

 あるいは、神樹アシェンディールが遠くの地で、森に帰ることを望むリコリスへ応えたのか。


 いずれにせよ、リコリスはこの森に帰ってきた。

 自らの使命を果たすために。






「──アシェンディール」


 リコリスは、目の前の大樹を見上げて微笑んだ。


 森の奥には、ぽっかりと開けた場所がある。

 その中央に、神樹アシェンディールは立っていた。


 幹は、何人で手を繋いでも抱えきれないほど太い。

 灰白色の樹皮には、古い皺のような溝が幾重にも刻まれている。地表に張り出した根は小さな丘のように盛り上がり、その隙間で苔と白い花が静かに息づいていた。


 夜空へ伸びた枝は大きく広がり、葉の一枚一枚が月明かりを受けて淡い銀緑に光っている。

 風はなくとも、梢は穏やかに揺れていた。

 まるで、リコリスの帰りを待ちわびていたかのように。


 神樹の根元に腰を下ろし、リコリスはそっと身体を幹に預ける。

 背中に触れる樹皮はごつごつと硬いのに、その奥には慣れた温もりがあった。強張っていた身体の芯が、少しずつほどけていく。


「ひとりにしてごめんね。寂しかったわよね」


 樹術師の祈りで育ってきた神樹は、とても寂しがり屋だから。

 王国が騒いでいた異常とて、なんのことはない。リコリスと長く離れてしまったから、少し不安になってしまっただけなのだろう。

 今リコリスに伝わるマナの流れも、魂の鼓動も、以前感じていたものと変わりない。


「もうこれからは、ずっと一緒だからね」


 その言葉を口にすると、胸の奥で張っていたものがわずかに緩んだ。


 地下牢でも、王城でも、馬車の中でも。

 森へ着いてからでさえ、リコリスはずっと気を張りつめていたのだと、今さらのようにわかる。アシェンディールのそばまで来て、ようやく呼吸の仕方を思い出したような心地がした。


 ふと、自らの腕に視線を落とす。長くつけられていた重みは、もうない。

 神樹の根元に、腕輪と拘束陣をつけたまま立ちたくはなかった。

 番人としてではなく、囚人として、禁忌の《魔女》として帰ることだけは絶対に嫌だった。


 森に入った時点で、王国の支配に付き合う意味はなくなった。

 だからリコリスは置いてきた。魔術師団を。髪を。友達を。

 ──セドリックを。


 あのときの顔が、ふと胸裏に浮かぶ。

 手を伸ばしかけて、届かずに止まった顔。

 葉陰の向こうで、ただまっすぐこちらを見ていた銀灰の瞳。


 傷ついただろうな、と胸中でひとりごちる。

 あんな別れ方をしたのだから、怒って、呆れて、見限ってくれた方がいい。リコリスのことなど綺麗さっぱり忘れてしまえたなら、その方がきっと彼のためだ。


 けれど。

 前にひどい女に振り回されたことがあったと、いつか笑い飛ばすくらいには。

 記憶の片隅に残っていたらいいのに、とも思ってしまう。


 なんて醜く身勝手なのだろう、とリコリスは目を伏せた。


 いずれにせよ、もう考えても仕方がない。

 あとは術式を発動させればいい。


 リコリスの魂は神樹の中を巡り続け、誰にも引き離されなくなる。

 そして神樹が神樹として在る限り、エルドランの──セドリックが暮らす国のマナ供給も守られる。


 すべきことは決まっている。

 迷う余地など、どこにもない。


 それでもリコリスは、細く長い息をついた。

 肩の力が抜けた途端、全身へ遅れて疲労が押し寄せてくる。森へ戻るまで気づかないふりをしていただけで、本当はずっと、思っていた以上に疲れていたのかもしれない。


「……ちょっと、疲れちゃった。少しだけ休ませてくれる?」


 そう言って、まぶたを閉じる。

 応えるように、頭上でさわさわと葉が揺れた。

 幹へ預けた背中の向こうから、ゆったりとした鼓動が伝わってくる。自分の鼓動と重なり合い、境目が少しずつ曖昧になっていく。


 ああ、ここがリコリスの居場所だ。

 ずっとここに帰ってきたかった。


 ──帰ってきたかった、はずなのに。


 頬を濡らす温かさが、安堵によるものなのか、それとも別の理由によるものなのか。

 リコリスには、よくわからなかった。




評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。