17. 騎士、神樹の森に同行す
クレイヴンが地下に現れたのは早朝のことだった。
硬い靴音が湿った空気を押し退けるようにして近づいている。
松明の明かりに浮かび上がったのは、見慣れたくもない灰色の男──アーノルド・クレイヴン。その背後にはふたりの魔術師と、更に後ろには珍しく笑みを浮かべていないセルジュの姿があった。
セドリックは初め、建国祭の件で咎められるのだと思った。
だがクレイヴンはセドリックには一瞥もくれず、ただ牢の奥へ薄灰の瞳を向ける。
その視線のさきで、リコリスは静かに寝台に腰かけていた。膝には書きかけの紙束を乗せ、手にはペン。いつも通りと言えばいつも通りの姿だったが、クレイヴンの来訪を前にしても彼女は妙に落ち着いた様子だった。
「《魔女》リコリス」
冷えた地下に、クレイヴンの声が落ちる。
「神樹アシェンディールのマナ供給量が低下している」
神樹。
その名が出た瞬間、セドリックは思わずリコリスを振り返った。
けれど彼女は手にしたペンを置いただけだった。
「どのくらい?」
問いかける声は微塵も震えていない。
クレイヴンの後ろから魔術師が一歩進み出て、書類と思しき紙を読み上げる。
「こちらの測定では、平常値からおよそ二割弱の低下が確認されています。時間ごとの揺らぎではなく、継続的な下降傾向です。測定器の側に異常は見られず、主要な循環式、貯蔵式、分配式に損傷はありません」
「つまり、神樹側の問題の可能性が高いのね」
リコリスは反発も疑念も見せず、ただひとつ頷いた。
落ち着き払ったその様子に、クレイヴンがわずかに瞳を細める。
「驚かないのだな」
「少し前から違和感はあったもの。地下牢にいる私には、確かめようがなかったけれどね」
リコリスはそう言って、指先で自らの胸元をなぞった。
責めるでも、皮肉るでもない。ただ事実を置く声だった。
「もう少し早くこちらに伝えて欲しいところではあったが──まあ、それはいい」
クレイヴンはため息混じりに呟き、すぐに声音を硬くした。
「きみには神樹の森へ向かってもらう。原因の調査と、可能であれば応急処置を行え。移動は本日中だ」
「随分と急なのね」
「エルドランのマナ供給が神樹に依存していると、今更説明が必要かな? 事態は急を要する。神樹に異常があるなら、王国として見過ごすことはできない」
「いいわ。行きましょう」
あまりにあっさりとした承諾に、セドリックは思わず檻へ一歩近づいた。
「……おい、大丈夫なのか」
口にしてから、なにがだろう、と自分でも思った。
神樹のことなのか。彼女自身のことなのか。王国に連れ出されることなのか。
問いはあまりに曖昧だったが、リコリスは少しだけ口元を緩めた。
「大丈夫かどうかを、確かめに行くのよ」
望んだ答えだったのかはよくわからなかった。
けれど返す言葉も見つからず、セドリックは口を閉じる。
クレイヴンが控えていた魔術師へ目配せすると、ひとりがその手に抱えていた細長い箱を開けた。中には《核》と思しき石を嵌めこまれた金属製の長筒が、いくつも収められている。
「神樹の森では、魔封じの腕輪に加えて拘束術式も展開させてもらう」
「……信用されててなによりだわ」
「これは《魔女》への敬意だよ」
リコリスの言葉に、クレイヴンはひとつ笑った。
「神樹の森は、きみにとって最も力を振るいやすい場所だろう。こちらには油断する理由がない」
「……まあ、なんでもいいけれど」
檻の中で、リコリスは赤毛を耳にかけた。
それだけだった。動じた様子は、微塵もない。
「ただし──ひとつ条件があるわ」
不意に、リコリスが言った。
クレイヴンの片眉が一度跳ねるが、彼は尋ねることはせずにただ続きを待つ。
リコリスは鉄格子越しにクレイヴンを見据え、静かに要求を突きつけた。
「セドリックも連れていって」
「……俺?」
思わず、間の抜けた声が出た。
だが魔女も師団長も牢番などには注意を払わず、ただふたりで向かい合っている。
「理由は?」
「彼がいると落ち着くもの。神樹に異常があるのなら、私は冷静じゃいられないかもしれない。あなたたち魔術師に囲まれるより、セドリックがそばにいた方がいい」
「護衛ならば、魔術師団で足りると思うが?」
「護衛じゃないわ」
リコリスは即座に返す。
「私が、彼にいてほしいの」
静謐な、けれど譲る気のない声だった。
クレイヴンはその要求を自らの内で噛み砕くようにしばし押し黙る。地下牢のどこかで、水滴の落ちる音がいやに大きく響いた。
「……いいだろう」
やがて、彼はそう言った。
「神樹の森では、魔術師団だけで対処しきれない事態もあり得る。彼はこれまできみの監視を担当してきた。近接監視役として同行させることに問題はない」
そこでクレイヴンは、初めてセドリックへ向き直った。
「不服はないな?」
灰の瞳に見据えられ、セドリックはわずかに身体が強張るのを自覚した。
けれどすぐに、その緊張を振り払うように大きく首を縦に振る。
「……もちろん。従います」
「ならば準備を」
クレイヴンは淡々と告げた。
「出立は二刻後。馬車は二台。先行車に《魔女》リコリス、セルジュ・ノートン、オーウェン隊長、監視魔術師を乗せる。後続車には私と術隊、拘束陣の器具を乗せる。道中の休憩は最小限。日が傾く前に神樹の森へ入る」
命令を淀みなく下し終えると、クレイヴンたちは即座に踵を返して石段へ向かう。
セルジュだけが一度足を止めてこちらを振り返ったが、結局なにも言わずに背を向けた。
遠ざかっていく足音がすっかり消えたあと。
地下牢には、松明の爆ぜる音だけが残った。
「セドリック」
檻の中から呼ぶ声に振り向けば、リコリスがセドリックを見つめていた。
穏やかな表情で、けれどその奥に微かな申し訳なさが滲んでいるようにも見える。
「ついて来てくれて、ありがとう」
「……今更。当たり前だろ」
彼女の不安を振り払うように、迷わず強く頷いてやる。
リコリスは小さく口元を緩めた。柔らかく、静かな笑みだった。
出立は、告げられた通り二刻後となった。
あちこちを迂回させられながら辿り着いた王城の裏手には、紋章を隠した馬車が2台用意されている。
先行車となる1台目に乗ったのは、リコリスとセドリック、セルジュ、それから監視役の魔術師がひとり。後続車にはクレイヴンと数人の魔術師、そして拘束陣とやらに使うらしい器具が積み込まれていた。
王都を出てからの道中は、驚くほど静かだった。
セルジュは資料を膝に広げたままほとんど顔を上げない。監視役の魔術師もまた終始無言で、フードを深く被ったその視線がどこを見つめているのかもわからない。
セドリックの隣にかけたリコリスは、ずっと窓を見つめていた。
カーテンは細く開かれているだけで、見えるのは流れていく景色のごく一部に過ぎない。それでも翠の双眸は、車窓から離れようとはしなかった。
以前、リコリスは馬車での移動が嫌だと言っていた。
ましてや今は神樹に異常が起きているというのに、彼女は文句ひとつ口にしない。
その冷静さが却ってセドリックを落ち着かなくさせた。
「……大丈夫か?」
車輪が土を踏む音だけが響く中、そっと問いかけてみれば。
リコリスはゆっくりとセドリックを振り返った。
「うん。大丈夫」
浮かべられた微笑みは穏やかだった。
無理をしているようにも、怯えているようにも見えない。
だからこそ、セドリックはそれ以上なにも聞けなかった。
神樹の森の外縁に辿り着いたのは、陽が傾きかけるころだった。
馬車を降りたその瞬間、周囲の空気のにおいが変わる。
肺を圧するように染み込んでくる、湿った土と苔、古い樹皮のにおい。纏わりつく湿り気と冷気は地下牢に少し似ていなくもないが、神樹の森のそれには一切の澱みや濁りが感じられなかった。
目の前に広がる森は、ただ樹木が多い場所ではない。
外縁には背の高い針葉樹がまばらに立ち、その足元を低い草と苔が覆っている。奥へ目を凝らせば、ねじれた樫の枝が幾重にも絡み合い、銀灰色の地衣類が衣のように垂れ下がっていた。
木々の隙間には濃い影がたまり、ほんの数歩先でさえ別の世界へ続いているように見える。
そして、一際目を引くのはその影の更に奥。
折り重なる梢の向こうに、仰ぎ見るほどに巨大な影が在った。
山ではない。塔でもない。
空を支えるように枝葉を広げる、途方もない大樹。
あれが神樹アシェンディールなのだと──誰に言われるまでもなく、セドリックは理解した。
思わず立ちすくむセドリックに対し、魔術師たちは馬車を降りるなり動き出す。
それぞれの手には《核》の埋め込まれた術具が握られている。それを基点に、移動式の拘束陣が組まれているのだろう。セドリックにわかるのは、その程度だった。
彼女の周囲には術具を持った魔術師が並び、少し離れた場所ではクレイヴンが短く指示を飛ばしている。地下牢での宣告通り、リコリスの魔封じの腕輪は外されない。
できる限りの警戒が敷かれた圧の中、リコリスはなお静かだった。
怖がってはいない。苛立ってもいない。
神樹の異常を前にして、焦燥を抱く様子すらなかった。
ただ、森をそのまま映し取ったような翠の瞳で、奥深くを見つめている。
「準備は完了しました」
術具を手にした魔術師のひとりが、クレイヴンへ報告する。
「予定通り、今日は森の外縁を進む。野営に適した場所を見つけ次第、そこで陣を張る」
早くも傾く空を仰ぎ、クレイヴンは短く告げた。
「神樹への接近は明朝だ。夜間の強行はしない」
「──じゃあ、行きましょうか」
リコリスはそうとだけ言った。
森を前にしても、その声に微塵の揺らぎも宿さずに。
神樹の森に、夜の帳が降りようとしていた。
薄闇の中で立ち並ぶ樹々は黒い影となって沈み、枝葉の合間から覗く空だけがまだ微かに青い。
野営地には既にいくつかの篝火が焚かれ、魔術師たちが慌ただしく準備を進めている。彼らは野営地を取り囲むように拘束陣だか結界陣だかを敷いており、その中心には当然クレイヴンの姿があった。
特にすることのないセドリックは、起こされた焚火のひとつに枝を足す。
その隣には同じくなにもすることのないリコリスが──まあ、彼女に至っては“なにもしない”のも大事だろう──、静かにセドリックの手元を見つめていた。
本来、騎士であるセドリックも野営には慣れている。
だが騎士団と魔術師団では、細かい部分で作法も勝手も違う。下手に手を出して口を挟まれるのも面倒で、今は黙って魔術師たちの作業を眺めるばかりだ。
セドリックはなにとはなしに腰から外した長剣を見下ろした。
常に身に帯びる自らの得物を手放したつもりはない。座って火を見るには邪魔だっただけで、なにかあればいつでも抜ける位置だった。
ぱち、と小さく火の粉の弾ける音がする。
それに混じって、リコリスが小さく息をついた。
「前にも、こうして焚火を見ていたわね」
「……ああ」
セドリックは短く答えた。
あの夜のことは、思い出そうとしなくても勝手に蘇る。
彼女の赤い髪に触れたこと。くすぐったいと笑った無邪気な声。今度な、と逃げるように告げた自分の声。
リコリスも同じことを思い出したのか、ふとこちらに向き直った。
「そういえば、私まだセドリックの髪に触ってないわ。今度って言ったのに」
「……今それを言うのか」
「だって、今思い出したんだもの」
悪びれもせずにそう言って、リコリスは横から手を伸ばしてくる。
いつもなら止めていたかもしれない。だが、以前自分が今度と誤魔化した手前、すぐには拒む理由が見つからなかった。
躊躇ううちに、彼女の指先が黒髪に触れる。
熱を感じたその瞬間、紡ごうとした言葉がすべて崩れた。
リコリスの指が、結び目をなぞって、束ねた毛先をそっと梳く。
首筋のあたりに彼女の気配が近づくたび、セドリックは焚火を見つめたまま息を潜めた。
「思っていたより柔らかいのね」
「……人の髪に、なにを想像してたんだよ」
「もっと、ごわごわしてるかと」
「悪かったな」
軽口を返しているはずなのに、声がわずかに低くなる。
リコリスはただ、髪に触れたいだけだ。それ以上の意味はない。そう自らに繰り返し言い聞かせながら、セドリックは胸の奥で膨れ上がる衝動を抑え込むように膝の上で拳を握った。
けれど──彼女の手が、ゆっくりと動いた。
髪から首筋へ。そして頬へ。優しく添えられた指先の感触と温度に、さすがに動揺してしまう。
セドリックは思わずリコリスを振り返った。
「お、前、なにを──」
「ねえ、セドリック」
上げかけた言葉は、静かな呼びかけに遮られた。
焚火の焔を宿した翠の瞳は、いつもより深く複雑に揺れている。
だがその奥にある感情を、セドリックは読み取れない。
「私、セドリックのこと、大好きよ」
それはあまりに突然だった。
だから一瞬、言葉の意味が遅れて届いてしまう。
セドリックが反応を返すより先に、リコリスはどこかぎこちなく口の端に笑みを乗せる。まっすぐに向けられた翠の瞳が、どうしてか少しずつ潤んでいった。
「あなたのおかげで、神樹以外にも守りたいものができたの。この国のことも……大事にしてもいいかもって、ようやく思えたわ」
「……リコリス?」
「ありがとう」
そう言って、リコリスはセドリックに身を寄せた。
焚火の熱とは違う、彼女の体温が近づく感覚に喉の奥が詰まる。
言葉の意味も、動作の意図も、理解するよりさきに。
唇が重なる。
以前のように、戸惑うだけの口づけではなかった。
リコリスの方から触れてきて、確かめるように、祈るように、ほんのわずかに唇を押し当ててくる。
柔らかな感触と触れるだけの熱にセドリックの呼吸が止まった。抱き寄せそうになった手が、中途半端な位置で止まる。
唇を重ねたまま、リコリスの指先だけがセドリックの胸元からするりと離れた。
触れていた温度が消えたことに気づいたのと同時に。
視界の端で、白い手が動いた。
──セドリックの剣へ。
「ッ!」
セドリックがリコリスを引き剥がすのと、彼女の手が柄を掴んだのはほぼ同時だった。
鞘走る音が夜気を裂く。
リコリスの手の中で、抜かれた長剣が白く閃いた。
それを目の当たりにしながらも、落ち着け、とセドリックの騎士としての本能が頭の中で訴える。
切っ先が自分へ向くなら、叩き落とせばいい。
クレイヴンへ向くなら、身を割り込ませればいい。
魔術師たちへ向くなら、腕ごと押さえればいい。
状況を瞬時に捌いたその中で。
刃が向かったのは、思い描いた誰でもなく──リコリス自身だった。
──なんで。
刹那の戸惑いが、遅れになった。
月明りを掠めた長剣が、緩く波打つ赤髪に伸び。
肩のあたりで、それを一息に断ち切った。
鮮烈な赤が、火の粉のように宙へ散る。
それらが地に落ちるよりも早く、セドリックの身体は動いていた。
リコリスの腕を掴むや否や剣を払い落とし、そのまま身体ごと草の上へ押さえ込む。
ただの女の細腕だ。力だけなら、セドリックの敵ではない。彼女は抗うこともなく、あっけないほど簡単に組み伏せられた。
赤い髪が、草の上に散らばっている。
それは血よりも鮮やかで、花よりも痛ましかった。
「リコリス、お前──!」
名を呼ぶ声に宿るのは、怒りなのか焦燥なのか、よくわからなかった。
とうのリコリスは草の上へ押し倒されたまま、ひどく落ち着いた顔をしていた。
息ひとつ乱さず、抵抗するでもなく、ただ短くなった赤髪を頬にかからせたまま、静かにセドリックを見上げている。けれどその目はセドリックを映していない。
自ら髪を切り落とし、騎士に力で組み伏せられ、周囲に魔術師がいるというのに。
ただどこか遠くを見ているような眼差しのまま、リコリスは唇を動かした。
「……現代魔術を学んでわかったの」
その囁きは、今まで聞いたどの声よりも凪いでいた。
「魔封じの腕輪って、魔力を内から外に出せないだけなんだって。
それなら──外からこじ開ければいいんだわ」
次の瞬間、草の上に散った髪が一斉に金の光を帯びた。
まるで意志を持つように、リコリスの腕に架せられた魔封じの腕輪へ集っていく。
「ッ、セドリック!」
その異様な光景にセドリックの本能がまずいと訴えるのと、セルジュに強い力で肩を引かれたのはほぼ同時だった。
反射的にリコリスを押さえていた手を離し、引き倒されるように地へ身を投げ出す。
その直後、彼女の腕を覆うように白金の光が迸った。
光に遅れて、甲高い音が森の静寂を裂く。
鋭い衝撃が肌を打ち、セドリックの耳の奥がきんと鳴る。
焼けた金属の匂いが鼻を刺したときには、砕けた腕輪の破片が火花を散らして草の上へ落ちていた。ただの残骸となったそれを目で追って、セドリックは息を呑む。
それが意味するものを察し、視線を戻したそのさきで。
リコリスは宙に浮いていた。
森の薄闇を背に、その身体から金色の魔力を溢れさせながら。
魔術の素養などないセドリックの目にすら、それははっきり見えた。夜の空気を焼くような激しさではない。むしろそこだけ昼の光が降り注ぐかのように、リコリスという存在が世界に浮かび上がる。
森の中に在るその姿は、疑いようもなく《魔女》だった。
腕輪の破壊に巻き込まれたのか、彼女の両腕には裂傷と火傷が走っていた。白い肌を赤が伝い、焦げた痕が痛々しく残っている。
だがリコリスが口元で短く呪文を唱えた、その直後。
傷口はみるみる閉じ、焼け爛れた皮膚は何事もなかったかのように滑らかさを取り戻していった。
圧倒的な光景を前に、ただひとりクレイヴンだけが動いた。
彼の手元から青白い光が走る。細い鎖のように編まれた魔術が、宙に浮くリコリスの手足へ絡みつこうと伸びる。
だが、リコリスは避けることすらしなかった。
軽く指先を持ち上げる。それだけで足元の草がざわめき、森の奥から流れ込んだ金色の魔力が薄い膜となって彼女を包んだ。クレイヴンの魔術はその膜に触れた瞬間、乾いた音を立てて弾け散る。
「──傲慢なひとたち」
リコリスはそう言って、ひとつ、鼻で笑った。
その声音に、地下牢で植物を抱いていた少女の面影はない。あるのはただ、自らが強者だと識る者の冷ややかな余裕だけだった。
「現代魔術を教えてくれてありがとう。おかげさまで、高密度の魔力物体に術式を籠めれば、魔力を封じられていても魔術を使えるとわかったわ」
「拘束陣、起動」
リコリスの口上を遮るように、クレイヴンの声が落ちる。
冷静な指示に我に返ったのか、周囲の魔術師たちが一斉に術具を掲げた。
野営地の周囲に打ち込まれていた術具が光を帯び、地表に刻まれた術式の線が青白く浮かび上がった。いくつもの光の線が重なり、リコリスを中心に檻を編み上げようとする。
だが、リコリスはその動きを冷たく睥睨しただけだった。
「王都なら、あなたたちの術式が勝ったのでしょうね。
神樹の森は、私の領域よ!」
その一言とともに、大地が鳴動した。
次の瞬間、地面を突き破って無数の根が飛び出した。
太い根は魔術師たちではなく、正確に術具へ向かった。
拘束陣の基点として置かれていた術具を弾き飛ばし、へし折り、地表を走る光の線を根こそぎ引き千切っていく。周到に用意された魔術の陣が、音すら立てずに崩れた。
木々の枝は生き物のようにしなり、繁った葉が一息にざわめく。
森そのものが、リコリスに応えていた。
悲鳴と怒号があちこちで上がる混乱の最中、セドリックは半ば無理やり立ち上がった。
「リコリス!」
足元では根が蠢き、崩れた術具が青白い火花を散らしている。構うものかと踏み出した瞬間、目の前を枝葉が横切った。
リコリスの姿が、葉陰へ紛れるように薄れていく。
「おい、待て!」
伸ばした手は、あと少しのところで届かない。
赤髪は肩口で短く揺れ、その輪郭は木漏れ日のような魔力に溶かされて曖昧になっていく。
それでも彼女は、最後までセドリックから目を逸らさなかった。
薄れゆきながら静かに微笑むその口元が、ごめんなさい、と小さく動いた。
それは声としては届かずに、ただ、表情だけがセドリックのまぶたに焼きつく。
次の瞬間、木々が大きく揺れ、無数の葉が視界を覆った。
《魔女》の姿は、そのまま神樹の森の奥へと掻き消えた。




