2. 魔女、国家を脅しつ脅されつ
リコリスは神樹の森で生きてきた。
その森は家であり、役目であり、世界のすべてだった。
母は幼い頃に亡くなった。父の顔は見たこともない。
独りきりになったとき、最初は悲しかったような覚えがある。
けれど、それもじきに薄れていった。孤独を辛く感じるには、与えられた時間が長過ぎたから。
消えていく寂しさを惜しく思うこともなく。
森の奥で植物と動物に囲まれながら、一族の役目のために生きてきた。
誰にも邪魔されず、誰も傷つけず、静かに刻を重ねていくのだと信じていた。
──それなのに、だ。
突然、その日々は破られた。
いつの間にか森の奥深くまで魔術師の一団が入り込んでいて、神樹の根元で術式を組んでいただけのリコリスは、あっという間に取り押さえられた。
そうしてわけのわからないまま冷たい地下牢に放り込まれたのが、つい数時間前のこと。
そして今は──。
「単刀直入に言おう。きみの《古代魔術》の力を貸してほしい」
やたらと綺麗な部屋の中、壮年の男と向かい合っている。
さきほどまでの地下牢が嘘のような室内だった。床には毛足の深い絨毯が敷かれ、磨き上げられた重厚な長机が部屋の中央に鎮座する。壁には机とよく似た意匠の書棚が並び、部屋の隅には目元深くまでフードを被った魔術師らしき人間がふたり控えていた。顔の見えないその姿は、まるで室内の家具のひとつと言わんばかりである。
リコリスに人間社会のことはわからないが、部屋に格式高さというものがあるならば、きっとこういったものを指すのだろう。
そんなことを考えながら、リコリスは蹴ってもびくともしそうにない長机の前にかけていた。
正面に座る男は、エルドラン王国魔術師団師団長──アーノルド・クレイヴンと名乗った。
短く刈られた白髪混じりの灰色の髪に、同じ色の瞳。《魔女》を前にしても揺らぎひとつない男の双眸は、まるで岩石かなにかのようだった。
リコリスはわざとらしく小首を傾げてみせる。
「……私、ずっと森に引き籠っていたから世間知らずでして」
微笑みながら、ゆっくりと口を開く。
「お願いって、こうして自由を奪ってされるものだなんて知らなかったわ。今後の人生の参考にさせていただきます」
クレイヴンは皮肉を皮肉とも思っていないような顔で頷いた。
「この国は今、戦争中だ。きみの古代魔術の力があれば、戦況は有利になる」
「……」
話が通じない、と。
リコリスは内心でそう独りごちた。
地下牢にいた騎士らしき男の方がよほど会話ができた。彼は返事こそぶっきらぼうだったが、少なくともリコリスの言葉を受け取ることはしてくれたように思う。
目の前の男は、リコリスを“人”として見ているかどうかも怪しい。
「……この国の事情なんて、知ったことじゃないわ」
湧き出る反発心をそのまま唇に乗せる。
「第一、私の魔術が戦争で使えるようなものだと思わないけれど。もしかして、《現代魔術》を使う魔術師様はご存じないのかしら? 私はただ植物を少し操ることができるだけよ」
それは本心だった。
リコリスの扱う魔術は血を流すためのものではない。
植物と心を通わせ、精神を重ね、その力をほんの少し分けてもらう──ただそれだけの能力だ。
しかし、クレイヴンは表情ひとつ変えずに続けた。
「知ったことじゃないというが、この国が傾けば、きみたち一族が護ってきた神樹も危ういのではないか?」
「ええ、私たち一族が護ってきた“エルドラン王国”の神樹が、ね」
わざと王国の部分に力を込める。
「まさかその王国から、こんな風に魔女と罵られて捕縛されて地下牢に転がされるなんて思わなかったわ」
「きみは事実《魔女》だ。古代魔術を扱う存在は、等しく《魔女》に分類される」
「そうそう、私、自分が人喰いってことも知らなかったわ。ほとんど野菜しか食べてこなかったつもりだから」
「畏怖される存在には噂に尾鰭がつくものだよ」
クレイヴンはまるで幼子に言い聞かせるように、柔らかな口調で言った。
「きみが王国に力を貸せば、その誤解も晴れるだろう」
「よくもまあ──!」
リコリスは、思わず椅子を鳴らして立ち上がっていた。
市井の噂などリコリスには関係ない。
森に籠ってしまえば、外の声は届かないのだから。
無理やり外界に引きずり出した相手から、「協力すれば誤解も晴れる」などと、恩着せがましく言われる筋合いがあってたまるものか。
しかしリコリスは、奥歯を噛んでその怒りを呑み込んだ。わざと煽っているのかそれとも素なのかは知らないが、いずれにせよ相手の土俵に乗る必要はない。
「……噂なんてどうでもいいわ」
椅子に腰を下ろすと、静かに目を伏せて続ける。
「私は誰とも関わらない。今までも、これからも。だから、あなたたちにも協力しない」
「本気かな?」
「ええ、もちろん」
断言してから、リコリスはふと口元に笑みを浮かべた。
「ああ、そうそう──あなたは私の一族のことを知っているのよね。それなら当然、私と神樹の関係も理解しているわよね?」
クレイヴンの眉が、ほんのわずかに跳ねた。
リコリスが暮らしてきた森の奥深く。
その中央に立つ神樹アシェンディール──瘴気をマナへと浄化する大きな大きな古代樹。
王国全土のマナ供給を支えるその大樹こそが、エルドランを魔術大国たらしめている。
リコリスは『魂移し』と呼ばれる古代魔術を使い、神樹に命の半分を預ける森の番人だ。
神樹が枯れれば、番人は死ぬ。
番人が死ねば、神樹は朽ちる。
それが、代々受け継いできたリコリスの役目だった。
「私、痛みにはとても弱いの」
リコリスは自らの胸に手を添えて、上目遣いでクレイヴンに視線を送る。
「叩かれたりつねられたりしたら、思わず舌を噛みきってしまうかもしれないわ。それだけは心に留めておいてもらえるかしら」
明確な挑発と釘刺しに、しかしクレイヴンはふっと柔らかな笑みを浮かべた。
「きみが自身の価値に自覚的でなによりだよ。
そう。きみになにかあればこの国の魔力供給も、瘴気の浄化も終わる。きみを保護するのが国家として正当な“保険”というのも理解してくれているようだね」
「──っ!」
リコリスは一度鋭く男を睨みつけ、それから勢いよく顔を背けた。
全身の血が沸騰したように熱く、しかし我知らず握りしめた指先はひどく冷たかった。
生まれて初めて、腸が煮えくり返るという言葉の意味を実感する。森で見てきたどんな獰猛な肉食獣よりも、この人間のほうがよほどリコリスの鳩尾を重くした。
母は、己の生を神樹に捧げて終えるのだと、当たり前のように受け入れていた。
母の母も同じだと聞かされた。
おそらくは、その母もまたそうだったに違いない。
だからリコリスも、自分のすべてを捧げて神樹を支え続けるのだと誰にともなく誓っていた。
そうして守ってきた結果が──これだ。
リコリスはなるべく冷静な声を絞り出し、会話の終わりを切り出す。
「……もう良いかしら。地下牢も大概嫌なところだと思ったけれど、人間臭くないだけいくらかマシだわ」
自分で言って、本当に《魔女》のような台詞だな、と思った。
それを誤魔化すように、リコリスは精いっぱい余裕のある笑みを浮かべてみせる。
「あとは、そうね。退屈しのぎに本でも届けてもらえれば、世を儚まずに済みそうだわ」
クレイヴンは微かに目を細め、それにはなんの返事もしなかった。
* * * * *
再びふたりの魔術師に連れられて地下牢に戻ってくると、薄暗い鉄檻の前には、さきほどの若い騎士が立っていた。
牢番らしき彼は、おそらくずっとここに詰めるのだろう。
肩にかかる長さの黒髪は、ただ後ろで無造作にひとまとめに括られているだけだ。整えようという気配のないその髪型が却って目についた。
その黒髪の隙間から、銀の滲む灰色の瞳がちらとリコリスに向けられて──しかし、すぐに逸らされる。
見てはいけないものを見てしまったとでもいうようなその態度が妙に癪に障って、リコリスもまた騎士から視線を逸らした。
誰とも言葉を交わさぬままに、石壁と鉄格子の部屋に入れられる。
錠の落ちる冷たい音が、一層この空間の静寂を強調するかのようだった。
魔術師が牢の前から去り、足音が完全に消えたのを確かめてから、リコリスは硬い寝台に身体を横たえる。
眠気なんて一切ない。けれど昏い天井を見続けていたくなくて、静かにそのまぶたを閉じた。
感じ取れるのは鉄錆のにおいと、松明の火が時折爆ぜる乾いた音だけ。
ほんの数時間前まですぐそばに在り続けたはずの緑の気配は、いまや遥か遠く。
リコリスは、自らの世界がひっくり返ってしまった現実にただただ身を浸していた。




