15. 魔女、講義する
昔々あるところに、ひとりの少女がおりました。
まだ森にたくさんの声が満ちていたころ、少女は多くの仲間たちとともに、森の奥で静かに生きておりました。
ある日のこと。
少女は、今にも地へ伏してしまいそうな小さな若木を見つけました。
あまりに頼りなく、あまりに幼いその木を、少女は見過ごすことができませんでした。
そこで少女は、自らの魂を少しだけ分け与えました。
どうか健やかに育ちますように。
どうかこの森で、まっすぐに立てますように。
すると若木は息を吹き返し、少女のそばですくすく育っていきました。
その木は誰よりも大きくなって、長く長く生きました。
これは、ずっとずっと昔の話。
リコリスが目を覚ましたのは、おそらく早朝だった。
地下にいる限り、正確な時刻は知りようもない。この場所ではいつだって昼と夜の境目が曖昧だ。それでも大まかな時間がわかるのは、肉体に染みついた感覚と、鉄格子の向こうにいるセドリックの様子によるところが大きかった。
檻の外、置かれたベンチへ視線をやると、座ったまま目を閉じているセドリックの姿がある。
彼はいつもそこで眠る。ろくに背もたれもない粗末なベンチで、剣をすぐ手に取れる姿勢のまま。リコリスとしては、横になればいいのにと思わないでもないのだが、以前そう口にしたとき、「そういうものなんだ」とあっさり返された。
そういうもの。
リコリスはその言葉を胸のうちで繰り返しながら、しばらく彼の寝顔を見つめた。
無造作に束ねられた黒髪。
眠っているせいか、普段より幾分和らいで見える口元。
それを見た途端──唇に残る熱が勝手に蘇ってきて、リコリスは慌てて顔を背けた。早まる鼓動を誤魔化すように、寝台に散らばった紙束をかき集める。
昨晩も研究内容を纏めていたことは覚えているのだが、もう少し、あと少しと思っているうちに、途中で眠ってしまったらしい。紙の端には、自分でも忘れていた書きかけの語句や乱れた線が残っていた。
リコリスはそれらを膝の上で整え、内容へ目を落とす。
《核》の素体。術式の定着。自動修復機能。摩耗と循環。
現代魔術師たちが当然のように語る理屈を、自分なりの言葉でどうにか咀嚼しようとした跡がそこにはあった。
「……」
リコリスは、再び鉄格子の向こうを見やった。
セドリックはやはり眠っている。少なくとも、こちらを見ている気配はない。
──試すなら、今だ。
リコリスはそっと自分の髪へ指を差し入れ、髪を一本抜き取った。
樹術師のごく短い術句を唇の内側で転がす。
抜き取った髪の先端に、針の先ほどの淡い光が宿り──次の瞬間には、なにもなかったかのように沈黙した。
リコリスは力を失った細い髪を見下ろしながら、まぶたを伏せる。
ほんのわずかな感触。けれど、指先には確かな手応えが残っていた。
目指し続けてきたものが、今までよりもずっと近くにあるとわかる。
「……これなら、きっと」
我知らず漏れた呟きは、薄暗い石壁へ吸い込まれるように消えていった。
* * * * *
クレイヴンと向かい合ったのは、その日の夜だった。
いつもと同じ時間。いつもと同じ部屋。
それでも研究室の空気は、いつもより格段に張り詰めていた。
卓上の魔術ランプは、机の上に広げられた資料、普段は置かれていない精霊樹の苗木の鉢、そして居並ぶ人影を照らし出している。
いつもより多い魔術師たちは、息を潜めるように無言で机の周りを取り囲んでいた。
その中心にいるのは、相変わらず揺らぎひとつない灰色の男だった。
「どうもこんばんは、クレイヴンさん」
リコリスがわざと軽く言えば、クレイヴンは薄く目を細めただけだった。
「ごきげんよう、《魔女》リコリス」
「ええ、おかげさまで、ね」
皮肉を返しても、やはり彼は眉ひとつ動かさない。
この男は棘を向けられれば向けられるほど、それをただ事実として机上へ置いてしまう。怒るでも傷つくでもなく、ただ処理するだけ。その冷静さが余計に腹立たしかった。
「──きみから古代魔術の話を聞く前に、ひとつ」
静かな声でクレイヴンが言う。
揺らぐはずのない魔術ランプの灯りが、一瞬だけ小さく揺れた気がした。
「なに?」
「きみには、ここで一度『嘘』をついてもらいたい。以前、きみは魂が教えてくれると言ったが、我々現代魔術の人間には理解の及ばない概念だからね。契約魔術の判定がどう反応するのか、ここで見ておきたい」
リコリスは露骨に眉をひそめた。
慎重なのは結構だが、その慎重さを他人の喉元へ突きつけることに、一切の躊躇がない。
「嫌なひと」
吐き捨てたものの、態度だけは澄まして口を開く。
「好きなだけ試せばいいわ。そうね──『魂移し』は、魂に触れる魔術ではない」
「……なるほど」
クレイヴンは胸元へ手を当て、ひとつ頷いた。
契約魔術を通して、身体になにかしらの違和感を覚えたのだろう。こちらからはどう作用したのかまではわからない。けれど術式は、確かにリコリスの言葉と魂のずれを拾ったはずだ。
「これは信用に値するな。さあ、講義を続けてくれたまえ」
「……『魂移し』を現代魔術師にできるかは知らないわ」
リコリスは肩へ流れた赤毛を払う。
「私たち樹術師は、植物の声を聞いて、感情を探り、魂に触れるの。悪いけど、あなたたちみたいに理屈や数字だけでは説明できない。できるだけ言葉にはしてあげるから、どうにかついてきてちょうだい」
王国魔術師団師団長と、最後の樹術師。
立場だけ見れば、あまりにも不釣り合いな対面だ。けれど少なくともこの瞬間、この場で知を差し出す側はリコリスだった。
「対価は対価。《現代魔術》を教わった分だけ、きちんと返してあげる」
そう言った自分の声が思いのほか落ち着いて響いたことに、ほんの少しだけ胸を張る。
しばらく考えてから、リコリスは淡々と口を開いた。
「私が神樹に『魂移し』をしたときは、まず呪文──術式を唱えて、自分の意識を内側に沈めたわ。胸より深く、鼓動より深いところまで降りて、自分の魂を探るの」
それは母から教わったやり方だった。
研究室に、落ち着いたリコリスの声と、素早くペンを走らせる音が響く。
「見つけた魂を、相手へ差し出す。そして、向こうから返ってくる魂を受け取る。『魂移し』は、その往復が成り立って初めて成立するわ」
「……それを、術式として再現することは可能なのですか?」
居並ぶ魔術師の誰かが問いかける。
リコリスは首を横に振った。
「私の使った呪文をそのまま唱えても、あなたたちではなにも起こせないでしょうね。自分の魂を知覚しないまま、相手に魂を渡せるわけがないもの」
例えるなら、自分が硬貨を持っているかもわかっていないのに、商品を買おうとするようなものだ。
傍らで、セルジュが首を傾げる。
「話の流れは追えるけど……結局、魂ってなに?」
「魂は魂よ。心とも違うし、マナとも違う。でも、それがなければ“その人”にも“その樹”にもならないもの」
言い切ってから、リコリスはセルジュを見上げた。
「体験してみる?」
「体験って?」
「セルジュの魂と、精霊樹の魂を結んであげましょうか?」
リコリスが卓上の精霊樹の苗木を指してそう言うと、机を囲む魔術師たちが一斉にざわついた。
なにをそんなに動揺することがあるのだろう、と思ってしまう。『魂移し』を試すつもりでわざわざ持ち込んだに違いないのに。
セルジュだけはいつもの調子を崩さずに、少し困った顔をした。
「いやそんな『昼ご飯買ってきてあげようか』みたいに言われても」
「しないの?」
「……したい。けど──」
セルジュは素直に頷いてから、ちらとクレイヴンに視線をやった。
魂を結ぶ魔術を扱うには、当然リコリスの魔封じの腕輪を外さなければならない。クレイヴンはしばし思案するように瞳を細めたが、やがてリコリスの腕輪に触れた。
腕輪が外れた瞬間の解放感に浸る間もなく、リコリスは幼い精霊樹に手を添えて呪文を口にした。
『魂移し』ではない。西方で精霊樹の若木と魂を結んだときと同じ言葉。セルジュと精霊樹の魂を、ごく薄く、表面だけが触れ合う程度に結びつける。
それでも、現代魔術師にとっては未知の領域なのだろう。
ふたつの異なる魂が重なり合った次の瞬間、セルジュがびくりと肩を震わせた。
「──あ、うわっ!」
どこか慌てた様子で腕を振る。それは、傍から見ればなにもない虚空をかき混ぜたに過ぎない動き。けれどリコリスの目には、流れ込んできた精霊樹の魂をセルジュが反射的に拒絶したのがはっきりと見えていた。
「な、なんか……これって……」
言葉を探しあぐねるように、セルジュは苗木と自分の胸元とを見比べる。普段どれだけ飄々としていても、未知のものに触れた直後の顔は、年相応に若かった。
しばし悩んだ末に、彼はようやく問いを絞り出す。
「……危険はないの?」
「さあ? 私はアシェンディールとしか魂を結んだことがないから、知らないわ」
「ええ……」
心底困ったような声に、リコリスはくすりと笑った。
「なんか、変な感じ」
「ふふ。そうでしょう」
セルジュはなおも納得しきれない顔をしていたが、逃げるわけではなく、ただ真剣にその感覚を反芻しているようだった。
「私たちは、植物に魂を与える。植物からも、魂を受け取る。ただそれだけよ」
樹術師にとって、植物へ魂を分けることは支配ではない。恩恵を与えるための契約でもない。もっと静かで、もっと身近なものだ。
寄り添い、重なり合い、ともに在るための繋がり。
それはまるで、家族に手を添えるような。
そう。
リコリスとアシェンディールは、家族だ。
それなのに──今このときも、“彼”は神樹の森に独りで立っている。
大地へ根を張り、空へ枝を広げながら、リコリスのいない森の時間を黙って受け止めている。そう思うだけで、胸の奥がひどく軋んだ。
その軋みは、研究会が終わっても消えなかった。
いつものように石段を降り、地下牢へ戻ったとき。
檻の前に立つセドリックの顔が、リコリスを認めてわずかに緩むのが見えた。
石と鉄に囲まれた冷たい場所。揺れる松明と、その火が生み出す曖昧な暗闇。
そのどれよりもさきに、セドリックの銀灰の瞳がリコリスの目を奪う。
心臓が、淡く優しくひとつ鳴る。
けれど同時に、その鼓動に呼応するように胸の痛みもまた深くなった。
セドリックに触れたいと思うほどに、置いてきたものの大きさが鮮明になる。
浮足立つような喜びと。
早く神樹のそばに戻りたいと願う焦燥と。
それを叶えられない苛立ちと。
押し寄せる感情に苛まれながら、リコリスは檻の中で自らの研究に向き直る。
今は、それだけしかできなかった。




