14. 騎士、元には戻れない
本当は、ただ軽く触れるだけのつもりだった。
触れて、確かめるように唇を重ねて。
それだけで終えるはずだったのに、一度近づいたあとはもう離れ方がわからなくなった。
柔らかい。
思考よりもさきに、そんな馬鹿みたいな感想だけが熱を持って胸の奥へ落ちていく。
リコリスの唇はひどく柔らかく、微かに震えていた。触れるたび怯えたように揺れるくせに、顔を背けることはない。
もう終えようと思うのに、絡んだ吐息に身体のほうが引き寄せられる。
セドリックは、半ば縋るようにもう一度唇を重ねた。
浅く、食むように。
けれど、それすらもう足りない。
唇の隙間から、息がこぼれる。それを追いかけるようにほんの少しだけ深く触れると、リコリスの肩が小さく跳ねた。ただそれだけの反応に、胸の奥がひどく乱される。
「んっ、……」
小さな震え声が、重ねたままの境界で溶け消える。
これ以上踏み込んではいけないと、わかっていた。けれどリコリスは、セドリックが動くたびに逃げるように身動ぎしながら、それでも結ばれた手は解こうとしない。そのことに無性に心がかき乱される。
捕らえた彼女の手のひらを強く握ると、微かに、けれど確かに握り返された。
どれほどそうしていただろう。
ようやく唇を離したとき、互いの吐息はすっかり乱れていた。
リコリスの身体から、ふっと力が抜ける。
書棚の前に崩れるようにへたり込んだ彼女は、真っ赤な顔のまま、潤んだ瞳でセドリックを見上げていた。長い睫毛の先には涙まで滲んでいて、泣かせたわけでもないのに、泣き顔のように見えた。
「……リコリス」
名を呼ぶ声は、自分でも驚くほど掠れていた。
セドリックは後を追うように床へ膝をつき、彼女の顔を覗き込む。
未だ結ばれたままの手。
その中央を、親指でそっと撫でた。
途端に、リコリスの身体が震える。
「……っ」
唇を固く引き結びながら、けれど堪えきれなかったかのように細い吐息がこぼれ落ちる。
その反応があまりにも素直で、セドリックは危うくもう一度唇を奪いそうになった。
衝動を誤魔化すように、ゆっくりと、手のひらを撫で続ける。
彼女の挙動を、ひとつも見落としたくなかった。指先のわずかな震えも、呼吸の乱れも、伏せきれずに揺れる睫毛も、すべて自分が与える熱のせいなのだと思いながら見つめていると、リコリスが責めるように眉根を寄せる。
「そ、その触り方、やだ……」
「……なんで」
「だって、なんか……」
一度視線を逸らしたリコリスは、今にも泣きだしそうな顔をした。
「なんか、変なんだもん……」
その一言に喉の奥がひどく熱くなる。
このまま押し倒したい、などと。
そんな最低な欲まで、ほんの一瞬、脳裏を掠めた。
「──」
セドリックはきつく目を閉じて、深く長く息を吐く。
さすがに、これ以上は駄目だ。あらゆる意味で。
「……ん。じゃあ、やめる」
ようやくそう言って手を離すと、リコリスは安堵したような、けれど少しだけ物足りなさそうな顔をする。その表情がまたたまらなくて、セドリックは胸中で強く自制を言い聞かせた。
欲に任せて触れる代わりに改めて手を差し出し、腰が抜けてしまった彼女をゆっくり立たせてやる。すぐに離したはずなのに、指先から伝わる熱だけがいつまでも引かなかった。
「……そろそろ出るか」
「そう、ね……」
頷く声は、まだ少し頼りない。
結局もう一度リコリスの手を取り、けれど今度は緩く指先だけを絡めた。名残とも未練ともつかないささやかな温もりだけを互いに残して、研究室の扉へ向かう。
その熱をどう扱えばいいのか、セドリックにはまだわからない。おそらく、リコリスも。
ただ、どちらも手を離そうとはしなかった。
扉を開けると、すぐ横の壁にもたれて本を読んでいたセルジュが顔を上げた。
丸眼鏡の奥の瞳がリコリスへ向けられ、次いでセドリックへ移る。最後に拙く結ばれる指先を認めて、わずかに丸くなった。
「あれ、もういいの?」
「多分……大、丈夫」
そう答えたリコリスの声は、最後にはほとんど消え入りそうだった。
微かに伏せられた睫毛も、紅潮した頬も、どうしたって隠しきれていない。その様子があまりに愛らしくて、セドリックは再びせり上がった衝動を、無理やり喉の奥へ押し戻す。
それを目敏く見ていたらしいセルジュが、すっと真顔になった。
「……研究室、まだ使う?」
「この件に関してなにもかも黙ってろ、お前は」
「えー。僕、結構色々頑張ったのに」
セルジュは不満げにぼやいてから、顔を伏せ続けるリコリスへ視線をやった。
「もう戻る?」
問われたリコリスは、ただ無言で頷く。
セルジュは扉の脇に身を寄せて、ふたりが出るための道を空けた。
まずリコリスが小さく会釈をして研究室の外へ出たあとに、セドリックも続く。
扉が閉まる音が背後で静かに響く。
普段は多くの魔術師が出入りするはずの研究棟は、今はしんと静まり返っていた。建国祭の準備に多くの魔術師が駆り出されているためだろうか。
「じゃあ、行こうか」
セルジュに目配せされて、セドリックもひとつ頷く。
研究棟から地下牢までの移送は魔術師団の役目でも、そのさきの施錠と監視は第四騎士団の管轄だ。リコリスが牢に戻るのであれば、3人揃って地下牢へ向かう必要がある。刻限としてはセドリックはまだ休憩途中だったが、正直、今は自分のことなどどうでもいい。
建国祭の準備で人手を取られているせいか、地下へ続く回廊も人気はまばらだった。
昼の王城を歩く者たちは皆足早で、セドリックたちを気に留める者など誰もいない。
「ここからはセドリックに任せるよ」
地下牢に降りる階段の前で、セルジュはそう言った。
「あ、あのね、セルジュ。今日は、ありがとう」
「うん。良かったね」
感慨深そうなわけでも、まったく温度が宿らないわけでもない。ただいつも通りの声で返事をした魔術師は、踵を返すと地上の回廊へと消えていく。
地下へ降りるにつれて空気は一段ずつ冷えて、石壁に染みついた湿り気が肌へ纏わりついてくる。ついさっきまで指先に残っていた熱は一歩踏み出すごとに遠ざかり、地下牢の気配が現実を段々と塗り替えていった。
いや──正確に言えば、これがセドリックとリコリスの現実なのだ。
リコリスが檻に戻れば、ふたりはまた囚人と牢番に戻る。
そんなことは、初めからわかっていたはずだ。
だというのに結局セドリックは、自分が引いてきたその境界を踏み越えてしまった。
本当にこれで良かったのか、と自問する。
好きだと告げて、触れて、それで終わりにできるほど器用ではない。
彼女を再び檻の中へ戻して、これまで通り牢番と囚人でいようなどと思うのは虫が良すぎる。
重たい鉄扉を開けたまま、セドリックは中途半端にその縁へ手をかける。
きい、と鈍く軋んだ音が薄暗い地下に響いた。開かれた扉の向こうには、粗末な寝台と石壁と、ほんの少しだけ持ち込まれた植物の気配。それだけの、狭く閉ざされた空間。
ここが彼女の居場所であっていいはずがない。
そう思うのに、彼女をそこへ戻すのは、ほかでもない自分だった。
もっと、リコリスのためになにかするべきなのではないか──。
そんな逡巡を見透かしたように、背後でリコリスが小さくため息をついた。
「……変なこと、考えてる?」
「な、にが」
図星を突かれたセドリックは、あからさまに目を泳がせてしまう。
リコリスは少し目元を赤く染めながら、半眼でセドリックを睨んだ。
「今回のことでよくわかったわ。あなた、一旦箍が外れたらちょっと行き過ぎちゃうひとでしょう」
「……………………」
思わず黙り込んでしまう。
研究室でのことがあっという間に脳内を駆け巡り、一切否定はできなかった。
「でも、私のことを助けようとか、逃がしてやろうとか思わないでね。現代魔術のこと、まだまだ学びたいもの」
リコリスは淡々とそう言い切ってから、ふと小さく口の端を緩めた。
薄暗い牢の中で、その笑みだけが妙に柔らかい。
「私、地下牢も檻も嫌い。大嫌い。だから、この場所にセドリックいるのが嬉しいの。たまに植物をくれて、目が覚めたときにいてくれて、同じご飯を食べてくれるだけで、いいの」
石と鉄に囲まれた場所には、あまりにも似つかわしくない言葉だった。けれどその声音は不思議なほど静かで、揺るぎも乱れも見られない。
それはまるで、夕闇の中に小さな灯を置くような。
ただの祈りの言葉に近かった。
「だから、セドリックはセドリックのままでいて」
「……」
なにも答えられなかった。
答えようとするほど、言葉は喉の奥で重たく沈んでいく。
リコリスは、セドリックに助けなど求めない。
もし自分に、彼女をここから連れ出せるだけの力があったとして、その手を取ってくれるだろうか。それとも今のように、ただ静かに微笑むだけなのだろうか。
「……建国、祭」
セドリックは、そう呟いた。
「もうすぐ、建国祭があるんだ。王都中が賑やかになるし、花火とかも、あって」
「知ってる。セルジュから聞いたわ」
「そのとき……少しでも外に出してもらえないか、頼んでみる。セルジュにも……手伝ってもらうかも、しれないけど」
そこまで言って、セドリックはようやく顔を上げる。
リコリスは数度瞳を瞬かせてから、ふっと穏やかな笑みを浮かべた。
「うん。楽しみにしてる」
──その提案は、やはりリコリスのためというよりは。
狭い地下でも、冷たい檻の内側でもない、もっと広く明るい場所で。
ただの少女のように無邪気に笑う彼女を見たいという、セドリックの欲に過ぎないものだった。




