13. 魔女、混乱する
「もうすぐ、クレイヴン師団長が西方戦線から戻られるそうです」
「──」
日課となった研究会の終わり際。
魔術師の一言に、リコリスは思わず息を止めかけた。
今日は、《核》の作製方法を教わっていた。
《核》となるマナ結晶に、発動させたい術式を文字なり言葉なりで定着させる。リコリスからすれば児戯にも等しい方法だったが、だからこそ現代魔術は街中にありふれたものとして根付いたのだろう。
呪文とは、祈り。魔術とは、祈りの形。
それは《現代魔術》も《古代魔術》も変わりはしないのに──どうしてリコリスは《魔女》と呼ばれ、地下牢に閉じ込められているのだろう。頭の奥で、そんな疑問がふと過った。
そんな最中に、クレイヴンの帰還を知らされて。
リコリスの胸のうちに、冷たいものがひと筋落ちる。
西方戦線。交わした契約。灰色の瞳。静謐でありながら圧のある声。
あの男にまつわる記憶がまとめて意識の表へ押し上げられてきて、思わず眉根が寄りそうになる。
けれど、それもほんの刹那のことだった。
リコリスは肩へ流れた赤毛を指先ではらい、澄ました顔で口を開く。
「ようやく古代魔術のことを教えてあげられるわけね。そうそう、契約魔術下で師団長様に確認したいことがあるから、3日ほど予定を空けるように伝えておいてもらえるかしら?」
「古代魔術を教わるときは、少し魔術師団の人数が増えると思うけど、いい?」
「勝手にして」
ただの軽口と見抜いてまともに取り合わないセルジュに、リコリスはわざとらしく顔を背けた。
研究会の終わりを告げるかのように、室内の魔術灯が微かに明滅する。
作製したばかりの《核》を魔術師が拾い上げ、リコリスとセルジュは机の上の資料を整えはじめた。研究会の終わりにいつも流れる、気の抜けた、それでいてどこか慣れた空気がそこにはあった。
いつものようにセルジュに付き添われ、リコリスは研究室をあとにする。
魔術師団の管理する研究棟は既に夜の静けさに包まれていた。窓の外には宵闇が深く広がり、高窓の向こうで星々が瞬いている。等間隔に置かれた魔術灯だけが、夜の廊下をぼんやりと照らしていた。
研究棟から地下牢へと戻る道すがら、リコリスは中庭の様子にふと足を止めた。
石畳の上には魔術灯の青白い光がこぼれ、高く伸びた尖塔の影が中庭に長く落ちている。肌に当たる夜気は冷たく、けれどそこかしこに置かれた花々は、昼の名残を抱えたような甘い香りを漂わせていた。
つい数日前までは、ここまで華やかではなかったはずだ。
整えられた芝の縁にも、水路沿いの石鉢にも、見覚えのない花々が増えている。
中でも目を引くのは薔薇だった。
白、薄紅、深紅──夜の灯りを受けてなお、その花弁は艶やかに色を湛えている。蔓を絡めたアーチの足元や中央の噴水を飾る大輪の薔薇は、自然に咲き誇るというよりも丁寧に設えられたものだとわかる咲き方をしていた。
「ねえ、セルジュ。最近なんだか花が増えてない?」
問いかけると、セルジュも足を止めて中庭を見やった。
丸眼鏡の奥の瞳を細め、納得したようにひとつ頷く。
「もうすぐ建国祭だからね」
「建国祭?」
オウム返しにすると、セルジュは気軽な調子で続けた。
「エルドランの建国を祝うお祭り。一週間くらいかけて王都全体で催しがあるし、王城も一部は国民に開放される。だから王城内も花で飾って、少しでも華やかに見せたいんじゃないかな」
「お祭り……」
リコリスは無意識のうちに、咲き連なる薔薇へ視線を向けていた。
こんな風に、誰かに見せるために庭を整えることがあるのだ、と今更のように思う。森の花々は、ただ季節とともに咲いて散るだけだった。けれどここにある花は、人の手で選ばれ、人の目を楽しませるためにこの場所へ置かれている。
「まあ、だから師団長も帰ってくるんだよね」
「どういうこと?」
「建国祭の最後に、魔術師団が王都全体に魔術の花火を打ち上げるんだ。綺麗だよ、あれ」
「へえ……」
思わず、もう一度中庭を見渡す。
リコリスは祭というものをこの目で見たことがない。
けれど、花で満ちた王城や街中、そこへ集うたくさんの人々の姿が自然と思い浮かぶ。人々が笑い合い、賑やかな音楽が奏でられる、そんな時間。
今、夜空の下で静かに揺れるこの薔薇の群れ。
その頭上に、さらに光の花まで咲くのだろうか。
見てみたい──そうこぼれかけた言葉を、リコリスは慌てて喉の奥へ押し戻した。
王国の華やかな行事など自分には関係ない。
そう言い聞かせながら、花の香りを振り払うように地下牢へ戻る足を速めた。
しかし、地下牢の入口に差しかかったところで、その足がぴたりと止まる。
地下牢の空気はまだここまで届いていないはずだった。
それなのに、身体だけが先に思い出したように強張ってしまう。
鉄錆のにおいも、石壁の湿った感触も──そして、いつものように牢の前にいるはずの彼の気配も。
隣を歩いていたセルジュが、足を止めたリコリスをちらりと振り返る。
しばし様子を窺うような間があってから、彼は控えめな声音で口を開いた。
「余計な口出しはしないようにしようと思ってたんだけど……セドリックと仲直りした?」
その問いかけに、リコリスの肩が大きく跳ねた。
抱えていた書類が、ばさばさばさ、と情けない音を立てて床へ散らばる。
「ええっと……まだ、なのかな」
「違うの!」
自分でも驚くくらい大きな声が出た。
目を丸くするセルジュの反応すらいたたまれなくて、リコリスは誤魔化すように慌ててその場にしゃがみこんだ。散らばった紙をかき集めようとしながら、しかし指先に上手く力が入らない。
「な、なんか、よくわからないの。多分もう、怒ってないとは思うん、だけど……」
声はどんどん小さくなっていく。
拾い上げた紙の端が、わずかに震えていた。
10日前──檻越しに重なったセドリックの手のひらの温度が、今もまだ指先に残っている気がする。
冷たい地下牢の中で、触れた場所が痛いくらいに熱を持っていたことを、リコリスの身体は勝手に覚えてしまっていた。
けれど、それをセルジュにそのまま話すのはどうにも憚られた。
なにより話したところで、自分がなににこんなに混乱しているのかをうまく説明できる気もしない。
リコリスには、わからない。
どうしてセドリックが自分の笑顔を見たがるのか。
どうして笑顔を見たいと思う相手に、王国へ協力しろ、などという言葉を向けたのか。
あのとき胸を激しく焼いた怒りも、突き刺さった鋭い痛みも、確かなものだったはずだ。けれど今は、その気持ちをどこへ置けばいいのかわからない。
怒っていていいのか。
傷ついたのは正しかったのか。
セドリックは、今なにを考えているのか。
すべてが綯い交ぜになって、あれ以来リコリスの胸の中では「どうして」という言葉がずっとずっと渦巻いている。
しかも厄介なことに、最後に重ねた手が思い出されるたびに、すべての迷いと困惑がその熱に上書きされてしまうのだった。
「その……どうしても、どうしたらいいのかわからなくて……」
尻すぼみに呟いてから、リコリスはおそるおそる顔を上げた。視線を泳がせた先で、しゃがんだまま書類を拾っていたセルジュと目が合う。
その瞬間、縋るように言葉が口をついて出た。
「そうだわ、セルジュも一緒にいてよ! そしたら、ちゃんと話せると思うの!」
「ええ……僕、恋愛事に興味ないんだけど……」
「れっ──」
思わず絶句してしまう。
頬が一気に熱くなったのが自分でもわかった。
恋愛事。
急に叩きつけられた言葉が、胸の中に落ちていく。
──あれは、そういうことなのだろうか。
そう自分に問いかけてみて、リコリスの混乱はますます深くなる。
だってセドリックはなにも言わなかった。ただ、自分の笑った顔が見たいと言っただけだ。
それはつまり──そう、つまり──
つまり、どういうことなのだろう。
セルジュは床に落ちた最後の一枚を拾い上げ、軽く揃えてからリコリスへ差し出した。
「……まあ、リコリスが仲直りしたいなら手伝うけどね」
「ほんとに!?」
弾かれたように顔を上げると、セルジュはどこか呆れたように眉を下げながらも、苦笑していた。
翌日の午後、セルジュは早速リコリスを自らの研究室へと連れ出した。
それ自体は彼と初めて会ったときと同じ。今日も研究室は雑多な紙束とインクの香りに満ちていて、部屋の外にほかの魔術師の気配はない。
違うのは──もうひとり、この場に騎士がいることだ。
「……なんで俺が呼ばれたんだよ」
扉の前に立ったまま、セドリックが低い声でそう言った。
どうやらセルジュは、セドリックの休憩の刻限を狙って、第四騎士団側へ適当な理由をつけて呼び出したらしい。監視対象について共有事項があるだの、研究上の確認が必要だの、それらしい文言はいくらでも並べられるからね、と彼は平然と言っていた。
けれどいい加減付き合いも長くなってきたセドリックは、この魔術師からの呼び出しは大抵『正式』な要件ではないと見抜いているらしい。明らかに不機嫌そうな表情で、研究室へと足を踏み入れる。
書棚の前で所在なさげに佇むリコリスを捉えて、銀灰の瞳が一瞬、驚いたように丸くなった。
それだけなのに、名前を出されただけで資料を落としたときと同じような熱が、じわりと頬へ這い上がってくる。
扉が閉まる音を聞いた瞬間から、リコリスの鼓動はずっと落ち着かなかった。
言わなければ、と思っていた。
ちゃんと話さなければ、とも。
なのに、実際にセドリックが目の前に現れると、胸の奥で準備していた言葉が一斉にしおれていく。
「ええと、その……」
どうにか口を開いてみる。
だが、その先が続かない。
なにから言えばいいのかわからなかった。
怒っていない、と言えば嘘になる気もする。怒っている、と言い切るにはあの手の温度が邪魔をする。仲直りしたいのかと問われれば、多分そうなのだろうけれど、それをそのまま口にするのは妙に気恥ずかしかった。
リコリスが視線を彷徨わせていると、ついに痺れを切らしたようにセルジュが口を開いた。
「……あのね、リコリスが仲直りしたいんだって」
「ちょ、ちょっとセルジュ待って!」
反射的に叫ぶ。
しかしセルジュはまるで悪びれた様子もなく、椅子の背に軽く寄りかかったまま続けた。
「え? 仲直りしたいんだよね? セドリックの名前を出すだけで資料落とすくらいだし──」
「じじじ自分で言う! 自分で言うからセルジュは出てって!」
「ひどくない……?」
傷ついたような声を出してはいるが、どうせ半分も本気ではないのだろう。
セルジュはひとつ息をついて、扉の方へと歩き出した。
「……じゃあ僕、外してるから。殴り合いに発展しそうになったら呼んで」
「そんな予定ないわよ!」
最後にそんな余計な一言まで残して、セルジュは研究室を出ていった。
ぱたん、と扉が閉まる音がやけに大きく響いたそのあとは、部屋の中が静まり返る。セルジュという緩衝材を失った研究室には、気まずさばかりが濃く満ちていた。
リコリスはごくりと喉を鳴らす。
扉の前に立つセドリックの方を見たいのに、まともに目を合わせる勇気が出ない。
けれど、いつまでも黙っているわけにもいかなかった。
「あの、ね。もう怒っ……怒ってないんだけど、セドリックに、どういう顔していいかわからない、の」
顔を伏せたままようやく絞り出した声は、自分でも情けないほど頼りなかった。
「……いや、まあ、それは俺もだが」
セドリックがどこか困ったような声を出す。
彼も自分と同じらしいと知ったリコリスは、思わず顔を跳ね上げた。
久しぶりにまっすぐ目が合い──しかし次の瞬間、セドリックはふっと視線を逸らした。
「別に、いいよ。気にしてねえ」
それは、本当に気にしていないかのような口ぶりだった。
リコリスは自分の片眉がぴくりと跳ねたのを自覚する。胸の奥に引っかかっていた棘を無理やり指で押されたような、そんな苛立ちが頭をもたげる。
──誰のせいで、こんなことになっていると思っているのだ。
「なによ。私の笑ってるところが見たいって言ったくせに」
当て擦るように言うと、セドリックの肩が一度揺れた。
「……復唱すんな」
「外で楽しそうにしてる私が見たいって言ったくせに!」
「復唱すんな!」
「するわよ! だって、わけがわからないもの!」
叫ぶセドリックに叫び返す。
胸の奥で燻り続けていた苛立ちが、勢いのまま口からあふれ出した。
「なんなの、あれ!? なんであんなこと言ったの!? 私のこと好きなの!?」
「お、おまっ……!」
こめかみに青筋を立てたセドリックは、しかしすぐに深い深いため息をついた。
呆れとも観念ともつかないそれを吐ききってから、ゆっくりと彼の顔が上がる。
そこにはもう、怒りの色も気まずげな色もない。
ただ、ひどく真剣な眼差しだけがあった。
「そうだよ」
当然のように頷かれて、リコリスは完全に硬直する。
ああ聞き間違いか、と思いたかった。
けれど、目の前の男の顔はあまりにも本気で、冗談だと笑い飛ばす隙さえ与えてくれない。
「俺はお前が好きだ。だから笑ってるところが見たいし──」
そこで一度だけ、セドリックの喉が小さく上下する。
「なんなら今すぐ、お前に触れたい」
「……」
頬が熱くなるのを、リコリスはどうすることもできなかった。耳の奥まで熱が広がっていくのに、身体だけが強張ったように動かない。
なにか返さなければならないはずなのに、肝心の言葉がひとつも見つからない。
「で?」
追い打ちのように問われて、リコリスは瞬きを繰り返す。
「な、なにが?」
「お前は?」
セドリックの声は低く落ち着いていた。
詰問のような響きはない。けれど、まっすぐすぎて逃げ場のない声音だった。
「俺のこと、好きか?」
「わからないわよ、そんなの!」
ほとんど悲鳴のようにリコリスは叫んだ。
だって今まで、リコリスの世界にそんなものはなかった。
神樹があって、森があって、役目があって、それだけで世界は足りていたはずだった。
誰かを好きになるなんて、そんな感情に名前をつける必要なんて、なかったのだ。
「なにがわからない?」
そう問いかけながら、セドリックがゆっくりとリコリスに歩み寄ってくる。
彼の声はひどく柔らかかった。それなのに、眼差しは少しも揺るがずにリコリスを見据えている。
反射的に後退しようとした背中に、すぐさま書棚がぶつかる。詰まっていく距離に耐えきれなくなって、リコリスは顔を伏せた。
「なにが、って……! だって、私は──!」
私は。
そこからさきが、どうしても続かない。
混乱と羞恥に塞がれて、喉の奥で言葉が形を失っていく。
「リコリス」
しばらくの沈黙のあと、名前を呼ばれて、びくりと肩が震えた。
「触っていいか?」
「え、ま、待って……」
「どれくらい待てばいい?」
──どれくらい!?
あまりにも真面目な声音でそんなことを言うものだから、リコリスの頭は一瞬で真っ白になった。
考えるより早くセドリックの腕が伸びてくる。
大きく骨ばった指が、そっとリコリスの手を取った。
「嫌か?」
問われて、リコリスは唇を噛んだ。
触れられたところからじわじわとセドリックの温度が広がって、頭の中がますます混乱していく。
「ほんとに、わからないの……」
恥ずかしさのあまり涙すら滲んでくる。
この感情の名前をリコリスは知らない。
好きなのかどうかも、怒っているのかどうかも、自分でもまだちゃんとわからない。
──わからない、のに。
触れられた場所から生まれた熱だけが、確かなものとして身体の内側を満たしていく。
それに引きずり出されるようにして、ただひとつの欲望が唇を押し開いた。
「……もっと、触って、ほしい」
言ってしまってから、息が止まりそうになる。
けれどセドリックは笑わなかった。
眩しいものを見るように目を細め、それから、結んだ手と手はそのままにもう片方の手をゆっくりと持ち上げる。
大きな手のひらが優しくリコリスの頬に添えられた。
指先が輪郭をなぞるだけで、身体の芯が小さく震える。
逃げたいわけではない。ちっとも嫌なんかじゃない。ただどうしようもなく落ち着かなくて、リコリスはきつくまぶたを閉じる。
気づいたときには、唇が重なっていた。




