12. 騎士、魔術師に叱られる
「……ば、馬鹿だなあ」
セドリックの話を最後まで聞いたセルジュは、心底呆れたようにそう言った。
リコリスに「顔も見たくない」と叫ばれた、そのあとのこと。
そう言われたところで、牢番であるセドリックは牢の前を離れられるわけがない。何度か謝罪の言葉をかけてみたものの、彼女は一度もこちらを見なかった。寝台で頭から布団をかぶってしまってからは、微動だにしない。
凍てついた空気のまま時間だけが過ぎ、やがていつもの休憩の時間が来た。見張りを魔術師に引き継いで地上へ上がったあとは、普段であれば身体が鈍らないよう鍛錬する。だが、今日ばかりはそんな気にはなれなかった。彼女の怒声が脳裏に蘇るにつれ焦燥と後悔ばかりが湧き出て、しかしどうにかする当てもなく、気づけば王城の中を無意味に歩き回っていた。
文字通り右往左往していたところへ声をかけてきたのがセルジュである。
資料の山を抱えた彼に、すっごく暇そう、ちょっと手伝って、と言われるまま彼の研究室まで付き合わされた。雑多な紙束とインクのにおいに満ちた室内へ資料を運び入れたところで、セドリックは地下牢での一件を話してみたのだが──
返ってきたのは、忌憚も遠慮もない正論だった。
セルジュは窓辺に置かれた蔓草の鉢植えに水をやりながら、ため息混じりに続ける。
「そんなこと言ったら、リコリスが怒るに決まってるじゃないか」
「俺は、現実的な提案をしただけだ」
わかったような口ぶりに、思わず反論してしまう。
「セドリック。正論は、ときに暴力になるものだよ」
責めるというより、柔らかく諭すような声だった。
普段は軽薄さすら感じる笑みを浮かべるその顔が、今はひどく凪いでいる。
セドリックはしばし彼の視線を受け止めてから、深くため息をついた。
「……俺、お前のことほんと苦手だわ」
「いやー、僕はかなり好きだね。セドリックのそういうところ」
セルジュは軽く笑ってから、ふと真剣な表情を浮かべた。
「ちゃんと謝りなよ。リコリス、傷ついてるだろうから」
そんなことはわかっている。
ずっと暮らしてきた森から無理やり連れ出されて、地下牢に閉じ込められて、奪われたものを条件付きで与えるようなことまで言われて、傷つかないはずがない。
それを行ったのが、彼女が「信用できる」と言った相手だということも。
けれど、その通りだとセルジュ相手に頷くのはどうにも癪だった。
「なにが傷ついてる、だよ」
わずかに視線を逸らし、そう吐き捨てる。
「お前だって俺と同じだろ。結局、王国側であいつのことを利用してる」
「それは否定しない」
意外にも、セルジュは素直に頷いた。
「だから僕は、せめて彼女が彼女らしくあれるよう、そばで支えるつもりだよ」
真摯な言葉に、一瞬だけ息が詰まった。
まさか──と思ったのも束の間、セルジュは数度瞬きをしてから、そらぞらしく笑みを浮かべた。
「ああ、うん。友人として、ね」
「……殴っていいか?」
「え? なんで? ちゃんと気を遣ったのに?」
「だからだよ!」
気の遣い方が鬱陶しい。
とりあえず、セドリックは右手を大きく振り上げた。
王城の敷地の片隅にある第四騎士団詰所。
団長室の扉の前で、セドリックは足を止める。
扉の向こうで誰かが椅子を引く音がした。廊下を行き交う足音は絶えず、開け放たれた窓から入り込む心地よい風を誰も気に留めないのはいつものことだ。そんな見慣れた騎士団の空気が、今日に限って妙に落ち着かない。
監視対象を怒らせたことを団長のミゲルに報告するか、セドリックは悩んでいた。
普段であれば気にしない。けれどリコリスは特別な囚人だ。彼女がセドリックと顔を合わせたくないと言えば、今は一部協力関係にあるらしい魔術師団側が、セドリック──あるいは第四騎士団そのものの担当を外す可能性もある。
とはいえ、である。
ずっと付き添っていた《魔女》が外に出たいと呟いて、思わず「王国に協力すればいい」と言ってしまったら激昂されて、顔も見たくないと拒絶されました、もしかしたらそのせいで魔術師団側が動くかも、などと報告するのはいくらなんでも情けなさすぎる。騎士団隊長のすることか。ありとあらゆる意味で。
なんで、あんなことを言ってしまったのか。
今更のように後悔する。
小さなスミレの鉢植えを大事そうに抱えるリコリスの姿が脳裏によぎる。
寂しげに微笑みながら、外へ出たいと願いを口にした彼女を見て、どうしても外に出してやりたくなった。
今の冷静な状態で振り返ってみれば、その考え自体が牢番としても騎士としても間違っている。そんなことくらい、普段のセドリックなら重々承知しているはずなのに。
無意識に腰の剣帯へ触れる。馴染んだ革の感触はいつもと変わらないのに、落ち着くどころか却って胸がざわついた。
──もう、離れた方がいい。
頭のどこかで、理性がそう告げる。
これ以上リコリスに入れ込んでしまう前に、身を引いたほうがいい。きっと彼女という存在も、彼女を取り巻く世界も、セドリックが“どうにかできる”ものではないのだから。
セドリックは、ずっとそんな風に生きてきた。
生きてきた、はずなのに。
「オーウェン隊長!」
不意に横から声をかけられ、セドリックは振り返った。
そこにいたのは馴染みの顔だった。二番隊副隊長のエリオット・バーンズである。
「よう。元気か」
「それはこっちの台詞ですよ。もうひと月以上、牢の監視についてますよね」
「……ああ、まあ」
曖昧に言葉を濁す。
《魔女》を監視していると知っているのは、第四騎士団の中でも隊長格までだ。
セドリックが率いる二番隊は、日々王都の第四区画から第七区画までの巡回と警備を担っている。道案内から酔っ払いの喧嘩の仲裁、果ては刃傷沙汰まで、対応する案件は幅広い。
第四騎士団は、それだけ王都の日常に深く根差した存在なのだ。
「悪いな、ずっとお前に丸投げしてて」
「いえ。牢も含めて、王都の治安維持は第四騎士団の役目ですから」
「問題は起きてないか?」
何かあればセドリックにも共有されるだろうが、念のため確認しておく。
「特には。ま、ちょっとしたいざこざはもちろんありますけどね。あー、あの角のおばあちゃんも元気ですよ。最近隊長さんを見ないけど、って心配してました。今度顔を見せてあげてくださいね」
「……そう、だな」
中途半端に頷いて、セドリックは窓外に視線をやった。
窓の向こうでは王城の白い壁が午後の光を跳ね返し、その下を荷車がゆっくりと通っていく。王城近くの露店の呼び声までは届かないが、王都がいつも通りに息づいている気配だけは、ここまで確かに伝わってきた。
セドリックの守るべきものが、ここにはある。
荷車の軋む音も、道端のやりとりも、心配しているというあの老婆も。
そのすべてが、自分の職分の内側にある世界だ。
──そのはずなのに。
今、この光溢れる景色の中にいてほしいと願うのは、王国が地下に閉じ込めている《魔女》だった。
そう願ってしまうどころか、そんな自分を当然のように受け入れていた時点で、答えはもうとっくに出ていたのに。
セドリックはひとつ拳を握ってから、ふ、と吐息を漏らした。
それがため息なのか苦笑なのか、自分でもよくわからないままに。
「……迷惑かけるが、これからも頼んだ」
「全然迷惑じゃないですから。隊長も、なにかあったらいつでも言ってくださいね」
笑顔で請け負ってから、エリオットは我に返ったように団長室へ目をやった。
「って、すみません。もしかしてグラント団長にご用事でしたか?」
「──いや。全然」
セドリックは静かにそう返した。
* * * * *
地下の階段を下りるたび、世界の空気が変わっていく。
湿った石壁。鉄錆のにおい。どこかで落ちる水滴の音。地下牢は昨日までとなにひとつ変わらず、外の世界から隔絶されていた。
風もないのに松明の火は微かに揺れていて、そのたび鉄格子の影が床へ細長く伸びる。
その奥──粗末な寝台の上に、リコリスはいた。
膝を立て、紙束を手元に広げて、顔を伏せたままペンを走らせている。
いつもならセドリックが姿を見せれば途端に綻ぶその顔が、今は微動だにしない。頬にかかる赤毛だけが火影に照らされて、まるで彼女の冷えきった表情を際立たせるかのようだった。
泣いてはいない。
怒鳴りもしない。
ただ、こちらを見ようともしない。
無言のままに近づいて、牢の前で足を止める。
一度息を吐いてから、セドリックはようやく口を開いた。
「リコリス」
そっと呼びかけても、リコリスは顔を上げなかった。
眉ひとつ動かさず、寝台の上で紙をめくり、またなにかを書いている。
「悪かった。お前のためみたいに、お前が奪われたものを返すようなことを言った」
リコリスは反応しない。
それでもセドリックは目を逸らさなかった。
「さっきのは、お前のためじゃなかった。単に、俺のわがままだった」
そう告げた途端、初めてリコリスの手が止まった。
ゆっくりと顔が上がり、セドリックを向く。何を言われたのかわからないとでも言うように、目を見開いたまま唇だけがわずかに開いていた。
その眼差しを受け止めながら、セドリックは変わらぬ声音で続ける。
「俺が、外で楽しそうにしてるお前を見たかったんだ。笑ってるところが見たかった。だから、あんなことを言った」
「……どう、して?」
少し掠れた声で、微かな問いがこぼれ落ちる。
リコリスは寝台から降りると、セドリックのもとへ駆け寄った。
険しい表情のまま、彼女の両手が冷たい檻を強く掴む。がしゃりと一度音が立ち、それに重なるようにリコリスの声が地下牢に響いた。
「そんな、そんなの……! 私は──!」
言葉の勢いばかりが先走り、それからあとが続かない。唇が震えて、喉の奥で息が詰まったかのように細い肩が揺れる。
なにかを言おうとしてるのに、どうしても次の言葉にならないらしかった。
「私、は……」
やがて堪えきれなくなったように、リコリスが手を伸ばした。白く細い指先が一度強くセドリックの手を掴み、けれどすぐにその力が弱まる。
見上げてくる翠の瞳は、セドリックを映して複雑に揺れていた。
「……どうして?」
もう一度、同じ問いが繰り返される。
責めるというには弱すぎて、赦しというにはまだ遠い。
そう繰り返すことしかできないような震えた声音は、抱きしめたくなるほど切実だった。
──それでも、今はまだ。
この冷たい鉄格子が、ふたりの間にあるうちは。
セドリックは、縋るように触れてくる指にそっと自分の指を絡ませる。
互いの指先は冷たくて、なのに触れられた場所ばかりが熱を持つかのようだった。
「どうして、だろうな」
答えの代わりに、檻越しに手を繋ぐ。
ただそれだけの温度だった。




