11. 魔女、再び地下牢へと帰る
湿ったにおいで目を覚ます。
淀んだ水と錆びた鉄のにおいが、目を開けるよりさきに鼻先を掠めた。
まぶたを押し上げると、薄闇に沈んだ石造りの天井が視界いっぱいに広がる。
耳に届くのはどこかで落ちる水滴の音と、松明が火の粉を散らす音。
──ああ、そうか。
諦観とともに息を吐く。
背中に当たる硬さも、吸い込んだ空気の冷たさも、ここがどこかを嫌でも教えてくる。
リコリスは、戻ってきたのだ。
この暗く閉ざされた地下牢に。
西方戦線への遠征から2週間が経過した。
リコリスは地下牢と魔術師団の研究室とを往復する日々を送っていた。
陽が落ちてからの数時間、《現代魔術》を教わるためだ。リコリスとしては知識の探求であれば丸1日だって付き合えるのだが、「人目を避けるため」と説明されている。
契約魔術を結んだ張本人であるクレイヴンは、いまだ西方戦線から戻っていない。
《現代魔術》を伝えるだけなら自分がいなくても支障はない、という考えらしい。虚偽を疑うようなことがあれば、後日クレイヴンが直接応じるとのことだった。
リコリスとしても、さほど不便は感じていない。
クレイヴンが戻ったら徹底的に質問を浴びせて嫌がらせをしてやろうとは目論んでいるものの、少なくとも王国の魔術師がリコリスに嘘をついているようには感じなかった。
そう思えるのは、知識交換の場に必ずセルジュが同席していることも大きいのだろう。
「師団長から、同席できない代わりにきみの望む《現代魔術》知識は与えていいってお墨付きをもらってるから。なんでも聞いて」
研究会が始まった初日に、セルジュは笑ってそう言った。
それが王国の誠意なのか余裕なのか、ただの懐柔なのか、読み切れないのが落ち着かなかった。
今夜、リコリスの前に置かれているのは、小さなガラスのフラスコだった。
その中に収まった《核》が淡く光る。大気中から集められたマナが再放出されたかと思えば、フラスコと管で繋がる卓上のランプに明かりが灯った。それは少しも揺らぐことなく、青白く光り続けている。
「魔術って、こんなに安定させられるものなのね」
思わず素直に称賛してしまう。
もちろんリコリスも明かりを灯す魔術は使える。だが、それはあくまで自身がマナを操り、術式を発動しているからこそだ。魔術師の手を借りずに魔術を行使し、そのうえ持続までさせる技術は驚異的なものだった。
「セルジュは前に、半永久的に動くって言ってたわよね」
噴水のことを思い出しながら、リコリスは問いを重ねた。
「《核》は、ずっとこのままなの?」
「いや、定期的に交換してるよ。マナを集めて、精製して、放出して──となると、どうしても摩耗するからね」
「……そう」
それが自然というものだ──頭の中で、樹術師としての自分の声が響く。
本来なら安堵すべきことのはずなのに、今は胸の奥がわずかに沈んだ。
「ただし、例外はあります」
セルジュではなく、ひとりの魔術師が口を挟んだ。
「交換が難しい場所に置く《核》には、自動修復機能の術式を組み込むことがあります。損耗した部分を、自ら補って保つ仕組みです」
「自動修復機能?」
その言葉だけを小さく繰り返す。
「要は、自分で傷んだところを直しちゃうってこと。まあ、《核》に刻む術式も複雑になるから、かなり限定的だけどね」
「……そう。そういうのもあるのね」
リコリスは口元に手を当て、深く頷いた。
しばし間を置いてから、セルジュへ瞳を向ける。
「自動修復する《核》なら、永久化はできるの?」
問いかける声が、少しだけ前のめりになってしまう。
セルジュはそんなリコリスの様子に気づいているのかいないのか、視線を宙に投げた。
「理論の上では、ね。万が一があると困るから、そういう《核》も定期的に交換してるけど、耐用年数は確実に伸びてるよ。とはいえ、本当に永久化を目指すなら、自動修復の術式をもっと洗練させる必要があるかな」
「ただ、現実には難しいですね」
すぐさま、魔術師が口を挟む。
「術式が複雑になれば、それに比例して《核》へ刻む情報量も増えます。そうなると、より大きく、より高密度の《核》が必要になる。維持も作製も簡単ではありません」
「……つまり?」
「コストに見合わないから試さない、って感じかな」
セルジュはそう言って、両手を開いた。
人間社会のことはよくわからない。だが、理論の上では可能性がある──その一点だけで、思考は勝手に先へ進もうとする。
「そういえば、《核》はなにからできてるの?」
ふと思いついて尋ねると、セルジュがあっさりと答えた。
「マナだよ」
「これ、マナなの!?」
思わず声が裏返る。
「マナって、空気みたいなものじゃないの!?」
量の大小はあれど、マナはこの世の命あるものすべてに宿っている。
リコリスも例外ではない。むしろ神樹と魂を結んでいる分、その身に宿るマナはほかの《魔女》と比べても頭ひとつ抜けているはずだ。もっとも、ほかの《魔女》に会ったことはないので、実際のところは知らないが。
その反応が可笑しかったのか、セルジュは少し笑った。
「空気中の水分だって、水にもなるし、氷にもなるだろ? 僕らにしてみれば、それと同じかな」
「そ……そうなのね……」
リコリスには、理解できないことばかりだ。
「より正確に言えば、高密度の魔力物体に術式を刻んだものを《核》と呼びます。現状、供給も術式の発動も最も安定するのが、マナを結晶化させたものです」
「あー、開発の初期はいろいろ試したって聞くね。魔石とか、魔物とか、それこそ精霊樹とか」
「精霊樹……」
思わず繰り返すと、セルジュの茶色の瞳に、ふと真剣な色が宿った。
「……聞きたくなかった?」
「いいえ。……大丈夫よ」
リコリスは少しだけ口元を持ち上げ、静かに顔を伏せる。
高密度の魔力物体。
術式を刻み、流れを保ち、自らを補いながら働き続けるもの。
その言葉の欠片ひとつひとつが、リコリスの胸の奥へ、静かに沈んでいった。
研究会が終われば、リコリスはまた地下牢へと戻される。
檻の中で個人的に資料をまとめたいと願い出たところ、紙とペンは渡されたものの、代わりに本は届かなくなった。少し惜しくはあったが、そのぶん自分の考えに没頭できると割り切った。
セルジュや魔術師たちの言葉を書き留め、疑問点を洗い出し、翌日に尋ねる。
ただ、そんな日々を繰り返す。
時折ふと、外に出たいな、と思うことがあった。
西方戦線への遠征では、地下牢とは違う空気を吸うことができた。空は高く、土は柔らかく、草木は足元から確かに季節を告げていた。
地下牢での暮らしに慣れたつもりだった。四角い天井も、鉄格子の冷たさも、昼と夜の区別さえ曖昧な薄闇も、自分の世界の一部と受け入れられるようになった気もしていた。
それでもやはりリコリスは、植物に囲まれて生きていたかった。
葉擦れの音に耳を澄ませ、花弁の開く気配に目を細め、土の下に伸びる根の鼓動に寄り添っていたかった。
そう願って瞳を数度瞬かせても、開いた視界に映るのは堅い石壁だけだった。
そんな日々の中で。
セドリックと語らう時間が、静かな慰めになっていた。
「──ほら」
かけられた声に顔を上げ、リコリスはぱっと表情を輝かせた。
鉄格子越しに差し出された彼の手には、小さな鉢植えが乗っている。
「ありがとう、セドリック!」
ベッドの上で書きつけていた紙束を半ば放り出すようにして、彼のもとへ駆け寄る。
遠征から戻ってきた頃から、セドリックは時折、リコリスの牢に植物を持ち込んでくれるようになった。
自由も外の空気もない地下牢。それでも鉢植えくらいなら置けるようにと取り計らってくれたのは、彼とセルジュだった。
ふたりの存在が、どれほど救いになっていることか。
差し出された鉢には、数輪のスミレが咲いている。
「可愛い。どこで見つけたの?」
「その辺」
「ふうん」
淡白な返事に、リコリスは小さく笑った。
そのぶっきらぼうさが今のリコリスには心地よい。余計な飾り気も恩着せがましくもなく、ただ差し出される優しさは、妙に静かで温かかった。
リコリスは自分の髪を1本抜き取ると、スミレの茎に巻き付ける。
「前から思ってたが……なにやってんだ? それ」
「地下牢は日が当たらないから、少しでも元気になるように、ね」
樹術師であるリコリスの髪──正確には肉体の一部というべきか──には魔力が宿る。少しはスミレの支えになるだろう。
鉢を両手でそっと抱え込み、花弁に額を寄せる。
触れたさきから、この花が見てきた景色が胸に広がる気がした。
広い空。風に波打つ草原。
柔らかな日差しの温もり。
いいな、と思った。
花そのものが羨ましいのか、その花が見てきた世界が羨ましいのか、それさえもリコリスにはよくわからなかったけれど。
「また、外に出られたらいいのに」
唇からこぼれたのは、考えるよりさきに湧きあがった願いだった。
鉢を抱えたまま呟くと、檻越しに向かいあうセドリックが微かに息を呑む。
わずかに躊躇うような間を置いてから、彼はおもむろに口を開いた。
「もっと……協力すると言ってみる、とか」
「……え?」
一瞬、言われた意味がわからなかった。
リコリスは瞬きをひとつして、ゆっくりと顔を上げる。
視線が合ったことに安堵したように、セドリックは更に言葉を継いだ。
「今、共同研究してるんだろ? 王国だって馬鹿じゃない。協力を約束すれば、きっと、もっと自由に──」
「あなたまで、そんなことを言うの?」
自分の声が震えていることに気づいたのは、言葉を口にした後だった。
全身を苛む感情が怒りなのか、悔しさなのか、それとも別のなにかなのか、自分でもわからない。
ついさっきまで胸に抱いていたはずの温かく柔らかなものが、音を立てて冷え切っていく。
それに反比例するように、喉の奥だけが熱を増した。
セドリックの目がわずかに見開かれる。
その反応が、却ってリコリスの感情に火をつけた。
「自由にって、なに?」
唇の端が上手く動かない。
それでも言葉は止まらなかった。
「私は今まで自由に生きてきた。それを奪ったのはあなたたちでしょう!?」
地下牢の湿った空気が、急に息苦しくなる。
石の壁が、鉄の檻が、手首にはめられた腕輪が、一斉にリコリスの意識へ押し寄せた。
それらはすべて──リコリスを世界から切り離すためのもの。
「あなたが、あなたたちが、上から目線で与えようとしないで!」
吐き出した声は、思った以上に牢の中へ鋭く響いた。
セドリックが明らかに動揺した様子で、檻に手をかける。
「あ、いや、悪い、今のは──」
「二度と話しかけないで! 顔も見たくない!」
勢いのまま叫んで、リコリスは顔を背けた。
もうひと瞬きの間だって、彼の顔を見ていたくなかった。
瞳の奥が熱い。唇が勝手に震える。
喉のあたりまでせり上がってきたものが、少しでも気を抜けば容易くこぼれ落ちてしまいそうで、リコリスは鉢を抱える腕に強く力を込める。
スミレの甘く優しい香りだけが、ひどくちぐはぐに立ちのぼっていた。




