第6話 焚き火の隣
ぱちり、と薪が鳴る。
雨はまだ降り続いていた。
森の中に浮かぶ二つの影には微妙な距離が空いていた。少女は焚き火の近くで椅子に座り込み、レイは少し離れた倒木に寄りかかっている。
大木の枝葉が遮っているとはいえ、風へ流された雨粒は時折焚き火の近くまで入り込む。そして赤く揺れる火へ触れた瞬間、小さな蒸気を上げながら消えていく。湿った森の匂いへ混ざる煙の香りが、不思議と落ち着いた。
「……あ、そうだ」
少女が何かを思い出したみたいに、小さく声を漏らす。
「お腹、空いてませんか?」
「え?」
「スープ作ってたんです。もしよければ、ご一緒にどうかなって」
そう言って焚き火の横へ置かれた小鍋を指差した。ぐつぐつ、と静かな音を立てながら、湯気が白く揺れている。
「あー、いいのか?」
「はい!」
ぱっと表情が明るくなる。
その反応がどこか子供っぽくて、レイは思わず少し笑ってしまった。
「森ん中ずっと迷ってたし、ちょうど腹減ってたんだよな。じゃあ遠慮なく」
「はい、少し待ってくださいね」
少女は慣れた手付きで木の器へスープを注いでいく。
揺れる湯気の向こうから、野菜と香草の柔らかな香りが広がった。そこには少しだけ肉の匂いも混ざっていて、冷えていた身体の奥がじわりと緩む気がした。
「……美味そう」
「えへへ、ちゃんと作れたみたいで良かったです」
そう言いながら差し出された木椀は、両手で持つとじんわり熱かった。
向かい側では、少女も自分の器を抱え込みながら、ほっとしたみたいに小さく息を吐いている。焚き火の光がその横顔を柔らかく照らし、揺れた髪の隙間でアッシュグレーの瞳が静かに細められていた。
「いただきます」
「あ、熱いので気をつけてくださいね?」
「へーきへーき――っっあっつ!?」
勢いよく口を付けた瞬間、思っていた以上に熱を持った液体が舌を焼き、思わず肩が跳ねる。
「だから言ったのに……」
少女がくすりと笑った。小さな笑い声だった。
けれど、さっきよりずっと自然で、その声に混ざる様に焚き火がぱちっ、と揺れる。
「油断した……」
涙目になりながら、今度は慎重にスープへ口を付ける。
熱いけど、美味かった。
柔らかな塩気と香草の香りがじんわり広がり、冷えていた身体の奥へゆっくり染み込んでいく。
「……うま」
思わず零れた声に、ぱっと顔を上げ、
「ほんとですか!?」
「うん。なんか……優しい味」
その言葉に、少女は安心したみたいに肩の力を抜いた。
「よかったぁ……」
焚き火の向こうで微笑む姿を見ながら、レイは何故か少し落ち着かない気分になる。
さっき会ったばかりなのに、不思議と居心地が悪くなかった。歌を聞いていた時から、ずっとそんな感覚が続いている。ここへ来てから、森の空気そのものが静かになったみたいで、雨音さえ妙に耳馴染みがよかった。
「……どうかしましたか?」
「え?」
「なんだか、ぼーっとしてたから」
レイは少しだけ視線を逸らした。
歌が綺麗だった。声も、空気も、妙に落ち着く。なんでなのか理由は、自分でもよく分からない。けれど、それをそのまま口にするのも何だか気恥ずかしくて、笑って誤魔化した。
「あー……なんか落ち着くなって」
ぽつりと零した瞬間、少女の肩がぴくりと揺れた。
「あ、えっと、その……!」
急に慌て始めた相手にレイはきょとんと目を瞬かせる。
「?」
「い、いえ! なんでもないです!」
顔が少し赤い。焚き火の熱のせいだろうか。
レイは深く考えないまま、再びスープへ口を付けた。
その間にも、雨音は静かに森を包み込んでいる。
少し前まで、あんなに鬱陶しかったのに。
今は不思議と嫌じゃなかった。
「そういえば」
落ち着いた少女は小さく首を傾げる。
「まだ、お名前聞いてなかったですよね?」
「あ、オレの?」
木椀を持ったまま頷く。
「レイ。そっちは?」
「私の名前はエアルっていいます」
「エアル、か」
口に出した瞬間、不思議なくらいしっくりきた。
柔らかくて、静かな響きだった。
するとエアルが少し照れたみたいに笑う。
「レイ……綺麗なお名前ですね」
「そう?」
「はい。なんだか、澄んだ響きがします」
焚き火の火が小さく揺れる。
名前を褒められた事なんて、今まであっただろうか。
レイは少しだけ目を瞬かせてから「……ありがと」と、小さく返した。
「えへへ」
嬉しそうに笑った後、エアルは少し困ったみたいに視線を彷徨わせる。
「えっと……なんてお呼びすればいいですか?」
「普通にレイでいいよ?」
「な、名前で!?」
そんな驚く事だろうか、とレイが目を瞬かせていると、エアルはしばらく悩むみたいに口元に指を当てていたが、やがて意を決したように小さく口を開いた。
「……レイ、君」
「うん?」
途端、ぱたぱたと手で顔を扇ぎだす。
「は、恥ずかしいね……!」
「なんで?」
本気で分からない。
困惑するレイを見て、エアルは小さく唸った後、ぱっと顔を上げた。
「キ…キミじゃだめかな!?」
「キミ?」
聞き返すと、エアルは少し不安そうに視線を揺らす。
「だ、駄目ですか?」
「いや、別になんでもいいけど」
その瞬間、エアルは露骨なくらい安心した顔で胸を撫で下ろした。
小動物みたいな反応だな、とレイは少しだけ笑う。
「じゃあ、こっちはエアルって呼ぶな」
「あ、うん! よろしくね!」
今度の笑顔は、最初よりずっと柔らかかった。
ぱちぱち、と焚き火が爆ぜる。
レイは空になった木椀を見下ろし、小さく息を吐いた。
「ごちそうさま。美味かった」
「ふふ、よかった」
「普段、自分で作ったもんばっか食ってるからさ。誰かの料理って久しぶりかも」
「旅してると、自炊多くなっちゃうよね」
「エアルは旅してんの?」
「うん。今回は調査依頼かな」
「調査?」
エアルは頷きながら焚き火へ薪を足した。
「この辺りでも、最近は魔物が増えてるみたいで。森の調査をお願いされて来たの」
「へぇ」
「各地で少しずつ増えてるみたいなんだ。鐘の加護が弱くなってる場所もあるって聞くし……」
そこで少しだけ表情が曇る。
レイは何となく話題を変えるみたいに肩を竦めた。
「なんだ、そんな事なら任せろって。この森、庭みたいなもんだし」
「ふふっ、頼もしいなぁ」
エアルがくすくす笑う。
だが次の瞬間。
「あれ? でもさっき迷ってるって……」
「いや、それは!」
レイは反射的に声を上げた。
「道以外なら大丈夫!」
「どういう事?」
「……なんか気付いたら道消えてたんだ」
「やっぱり迷子だ」
「違うって!!」
「変なの!あははは!」
とうとうエアルが堪えきれなくなったみたいに笑い出した。柔らかな笑い声が、夜の森に混ざる様に広がっていく。レイは不満そうに口を尖らせたが、不思議と悪い気はしなかった。
焚き火の熱も、降り続く雨音も、楽しそうに笑う声も、全部が静かな森へ自然に溶け込んでいる。
その光景を眺めながら、レイはぼんやりと思う。
……綺麗だな。
その時だった。
ざわり、と。
森の奥で、風とは違う気配が揺れる。
レイの視線だけが僅かに細められた。
「……」
「どうかしたの?」
少しだけ感覚を研ぎ澄ませる。
雨音。木々の揺れる音。小動物の気配。その奥。
離れた場所を彷徨いている魔物の気配が二つほど。
まだ遠い。こちらへ近付いてくる感じもない。
小さく息を吐いた。
「たぶん、大丈夫」
「?」
「なんでもない」
エアルは不思議そうにしながらも、それ以上は聞いてこなかった。
雨はまだ降り続いている。
けれど焚き火の隣だけは、不思議なくらい暖かかった。




