第5話 雨音と歌声
雨は弱まる気配を見せなかった。
ざぁぁ、と木々を打つ音が森全体へ広がり、枝葉から滴り落ちた雫が濡れた土をさらに抉っていく。湿った風が頬を撫でる度、肌に張り付く空気の冷たさが少しずつ体温を奪っていた。
「最悪だ……」
濡れた前髪を掻き上げながら、レイは重くなった息を吐き出す。
家の結界を抜けた辺りから景色がおかしくなっていた。目印にしていた岩は見当たらず、木々はどれも似たような形ばかりで、歩いているうちに今どこを進んでいるのかさえ怪しくなってくる。
気が付けば、同じ場所を回っている気さえした。
「……やっぱり迷ったよなぁ」
沈黙。
揺れた枝先から大粒の雨粒が落ち、ぱしゃり、と足元の泥を跳ねさせる。
「伝えないの絶対わざとだろ、あの師匠……」
ぼやきながら雨の少ない木々の隙間を進む。
落ち着けば魔術で雨避けくらいは出来る。身体の周囲では薄く展開した熱と風が雨粒を逸らしていたが、踏み込む度に靴が沈むぬかるみまではどうにもならず、嫌な泥の感触だけが靴底越しに伝わってきた。
街に行けとは言われた。だが、森に放り出された直後に遭難するとは聞いていない。
「ほんと何なんだよ……」
リュシアなら笑いながらやる。
容易に想像出来る辺りが余計に腹立たしかった。
そんな事を考えていた、その時だった。
「────♪」
風に混ざる様に何かの音が届く。
森の中での聞き覚えがない音に思わず足が止まった。
「……え?」
雨音の向こう。風と木々の騒めきの中でも届いた。
自然の音ではない。人の声。誰かの声だけが聞こえる。
微かな音を頼りに声の聞こえる方向へと足を進めていく。さっきまではっきりとしなかった声がカタチを持ち始める。
森へ溶けるような柔らかな旋律は、耳にした事のある魔法の詠唱とは違う。鐘みたいに耳の奥を不快に掻き回す響きでもなく、降り続く雨や葉擦れに自然と馴染みながら、じっとりと冷えていた森の空気そのものを少しずつ塗り替えていくみたいだった。
レイは小さく目を見開く。
「……誰かの、歌?」
ぽつり、と零れた声は雨音に消える。
無意識に足が歌声の方へ向いていた。
近付くほど、さっきまで鬱陶しかった雨音が遠くなっていった。枝葉を叩く雫の音も、木々のざわめきも、不思議なくらい耳障りじゃない。
ただ歌だけが、静かに森の中へ広がっていた。
やがて、少し開けた場所に出る。
大きな木々の下だった。
枝葉が天然の屋根みたいに広がり、降り続く雨を遮っている。その根元では小さな焚き火が揺れていて、ぱちぱち、と薪の爆ぜる音が湿った空気へ小さく広がっていた。
焚き火の前には、一人の少女。
ブラウンがかった髪を肩辺りで揺らしながら、楽しそうに歌っている。火に向かって両手を翳し、時折ゆらゆらと身体を揺らす度、柔らかな歌声が火の熱や雨の匂いと一緒に森へ溶けていった。
動けなかった。
湿った森の匂いも、揺れる火の明かりも、葉を滑り落ちる雨粒の音さえも、全部が自然に歌と重なっている。
肌に張り付いていた冷たい空気まで、焚き火の熱と一緒に少しずつ遠ざかっていくみたいで。気付けば、呼吸する事すら忘れたみたいに、その光景へ見入ってしまっていた。
「……綺麗だ」
無意識に呟いていた。
少女はまだ気付かない。歌は続いている。
誰かに聴かせるためじゃなくて、ただ口から零れているだけ、ただ歌うことが楽しくて仕方がないといった風に感じる。不思議と歌声は耳を離れてくれなかった。
どれくらい時間が経ったのかわからない。そのまま、しばらく聴いていると、心の中でもやついていた嫌な感情が雨音と一緒に少しずつ流れていく気がした。
やがて歌が終わり、少女は満足そうな笑顔で小さく息を吐く。いつの間にか焚き火は大きく燃えていた。
「ふふ……」
そのまま座り込み、今度は鼻歌へ変わった。
焚き火へ薪を足し、時折目を瞑りながら、小さな旋律を口遊ぶ。その音は詠唱みたいな硬さを持たず、降り続く雨へ滲むように森の空気へ溶け込んでいく。
さっきまで煩わしかった雨音さえ、不思議と心地良く聞こえていた。
レイはそこでようやく我に返る。
「あ……」
流石にずっと黙って見ているのは不審者では?
今更ながらそんな事を思い、どうやって少女に声を掛けるべきか迷っているうちに、足元の枝を踏んだ。
ぱきっ。
「ひゃっ!?」
少女がびくりと肩を跳ねさせ、勢いよく振り向く。
揺れる焚き火の光が、アッシュグレーの瞳に映り込む。
反射的に杖を抱え込むみたいに胸元に引き寄せ、そのまま困ったように視線を揺らしている。驚きと警戒が入り混じったその反応に、レイは慌てて両手を上げた。
「あ、ごめん! 驚かせるつもりじゃ……!」
「え、あ、あの……っ」
森の奥で、雨まで降っている。しかも薄暗い木々の中から黒いコート姿の男が急に現れたのだ。改めて考えなくてもどう見ても不審者だった。
「その……歌が聴こえて」
「う、歌……?」
「すごく綺麗だったから」
思ったまま口にする。
少女はぱちり、と瞬きをした。
「……え?」
「いや、その、変な意味じゃなくて!」
慌てて付け足した瞬間、余計に怪しくなった気がした。
レイは思わず頭を抱えそうになる。
だが少女は数秒固まった後、
「……ぁ」
耳まで赤く染めた。
「き、聞いてたんですか……!?」
「ご、ごめん」
「い、いつから……!?」
「さ……最初から」
「〜〜〜〜っ!?」
少女は顔を覆ったまま、その場へしゃがみ込んだ。
焚き火の向こうで肩がぷるぷる震えている。
レイは困った。
これ、泣かせたか?
「あー、えっと……」
「は、恥ずかしいです……」
思っていた反応と違い、少しだけ目を丸くした。
少女は顔を隠したまま、ちら、とこちらを見る。
「……へ、変じゃなかったんですか」
「全然」
反射みたいに即答していた。
「むしろ、初めて思った」
「初めて……?」
レイは少しだけ視線を逸らす。
上手く説明出来る気がしなかった。
鐘は嫌いだった。魔法の詠唱もあまり好きじゃない。
人の声は耳に入る度にざわざわと落ち着かない。
村でも、師匠以外との会話は避けていた。
けれど。
「初めて――綺麗だって思った」
この気持ちは、嘘じゃなかった。
少女は目を見開き、不思議そうに瞬きをした後、少し困ったみたいに笑う。
「……変な人ですね」
「よく言われる」
「ふふっ……」
小さく零れた笑い声まで柔らかかった。
焚き火の熱が、湿った空気で冷えていた身体にじんわりと染み込んでいく。
雨はまだ降り続いている。
さっきまで冷たく感じていた雨音は、今はどこか穏やかに聞こえていた。




