第4話 旅立ち
ぱたん、と扉が閉まる。
風呂上がりの熱気がまだ少し肌に残っていた。
「……ふぅ」
レイは濡れた髪を掻き上げながら、自室へ入る。
指先を軽く振り、魔術を行使する。空気が揺れ、濡れていた髪に残る余計な水分が熱へと変換され風を伴い、空中に散って消えていった。
髪を乾かすための熱操作の魔術と風魔術の併用。
昔は上手く出来ず、髪を焦がしてリュシアに爆笑され、からかわれた記憶がある。魔力を流し過ぎて窓を吹き飛ばした事も。しばらくの間は温風代わりの簡単な風魔法を使っていたっけな、と少しだけ懐かしくなる。
魔法でも出来るが、そちらは無駄が多い。
この程度なら今はもう、魔術の方が楽だった。
ちなみに当の本人は、あまり使わない。
『乾くまで待てばいいだろう』……らしい。
面倒くさがりなのか、大雑把なのか。本気で分からなくなる時がある。……まぁ、多分どっちもだ。
「……ほんと、どういう生き物なんだか」
乾いた髪を適当に後ろで結び直し、壁際に行き窓を開ける。近くの机から引き出した椅子に腰掛け一息つく。
窓の外では風が木々を揺らしていた。
雨の匂いがする。
まだ降ってはいないけれど、遠くない気がした。
昼間のやり取りを思い返す。
突然の追放宣言に意味不明な理由。
雑な説明と横暴な命令。いつも通りの師匠だった。
でも。
少しだけ違った気もする。
「……気のせいか」
ぽつりと零し、視線を部屋の中へ向ける。
本棚へ入り切らなかった本が隅へ積まれ、その上には整理したはずのノートがまた増えている。師匠が置いていった魔術書は何度読んだかも分からず、空いた場所にはいつの間にか紙束まで突っ込まれていた。
机横の壁際には訓練用武器の束が部屋の隅に向かって雑に立て掛けられていて、目に入る度に過酷な訓練を思い出す。悪魔の様な笑い声、繰り返される無邪気な煽りに何度心を抉られた事か。
「……まぁ、それもいい思い出なのかな」
小さく苦笑する。
立ち上がり、半分だけ窓を閉めてベッドへ向かう。
うつ伏せに倒れ込みながら、部屋を横目に眺める。
気付けば、この部屋が当たり前になっていた。
体勢を変えてぼんやりと天井を見上げる。
今日は少しだけ作り置きも増やしておいた。
冷蔵庫には数日分の食事とデザートにドリンク。
冷凍庫にも1食毎にバランスよく小分けして。
下処理済みの食材も分けてある保管庫に入れたし。
コーヒーのブレンドも近年の好みだろう香りや味わい別にわかりやすく分けておいた。
放っておくと、あの人は本当に適当になるからな…
以前修行で山に放り出された時など、三日くらいコーヒーしか飲んでいなかった事もあった。生還した喜びも束の間、床に寝転んで言い訳をする師匠を叩き起こし説教したが。なお本人は『効率的だった』とか抜かしていた。本当に人として終わっている。
「……ちゃんと食うかなぁ」
多分無理だろうな。絶対に風呂も入らずベッドの上で本読みながら菓子食って寝落ちする。
深く溜息を吐いた。
「師匠……絶対今もまだ起きてんだろうなぁ……」
どうせ今日も本を読みながらコーヒーを飲み、片手間によく分からない魔術でも弄っているのだろう。
ボーッとしていると、いつもより森の音が大きくなってきた。唸る様な風の音や草木の靡く音。鳥の鳴き声とカーテンの擦れる音が重なりあう。
自然と隣り合わせの場所。心地良い落ち着く場所。
ずっとここで暮らしてきた。別に不満なんてない。
それでも。外が気になるのも少しだけ本当だった。
村で見た市場。知らない食べ物。沢山の人。
鬱陶しかったけど、ちょっと楽しかった。
「……街、かぁ」
鐘は嫌いだ。
でも。
鐘のある場所が少し気になっている自分もいた。
どうしてなのかは分からないが。
考えているうちに、段々と瞼が重くなる。
風が揺れた。
遠くで小さく鐘の音が響いた気がした。
「……うるせぇな」
眠気混じりに呟きながら、レイは目を閉じた。
◇
翌朝。
空は相変わらず曇っていたが、昨日より少しだけ明るく、遠目に見える雲の隙間から薄く光が差し込んでいる。とてもだが出発日和とは言えそうにない天気。
「……午後には降りそうだな」
確認し終わった荷物を背負いながらレイは呟く。
着てみたら黒いコートは思ったより軽かった。
内側の白いもこもこ猫羊は相変わらず意味不明だが、着心地はかなり良い。しかも妙に動きやすい。
袖口を引き、黒い手袋を嵌める。手の甲だけが露出する変わった形だが、剣も魔術も扱いやすい。
足元も履き慣れたロングブーツで固める。
旅支度としては十分だった。
黒曜石も忘れていない。今は小さな石はコートの内ポケットの中に御守り代わりに収まっていた。
静かな部屋を見回す。
しばらく戻らないかもしれない。
そう思うと少しだけ変な気分になる。
レイは小さく息を吐き、部屋を後にした。
階段を降りる。木の軋む音。
鼻へ届くコーヒーの匂い。
変わらない朝の空気だった。
キッチンを軽く確認する。
作り置きはちゃんと揃っている。
よし。
多分これで数日は保つ。
「……問題はちゃんと食うかだよなぁ」
そんな事をぼやきながらリビングへ向かう。
そして。
「あれ」
思わず声が漏れた。
縁側にリュシアが座っているのが見えた。
しかも身支度まで終わっている。
珍しいどころの話じゃない。
「……雨でも降るのか?」
「降るだろうな」
「いやそうじゃなくて」
近づくと、リュシアは窓際へ寄り掛かりながら、
自分で入れたのであろうコーヒーを飲んでいた。
黒銀の髪は珍しく整っている。
今日は寝癖も少ない。
「似合っているぞ」
「ありがとよ。師匠こそドレス似合ってるよ」
「私だからな、当然だ」
嫌味のつもりなんだけど。
あまり着ることのない純白のドレスに縫い込まれた銀糸が日の光に照らされて時折、黒く輝いている。
「刺繍がコート内側で良かったよ」
「見える様にしてやろうか?」
「…本当に出来そうだからやめてくれ」
呆れながらキッチンへと戻る。
「朝は軽めでいい?」
返事はない。
窓際から動く気もなさそうだったので、朝食のメニューを軽めなものに変更する。
熟成させていた昨日の燻製肉をひとくち食べる。一日寝かせておいた事でいい感じに水分が抜けて、一体感が増している。数日後が楽しみな味だ。
焼き立てのパンに燻製肉を挟み、保管庫から新たに取り出した数種類の野菜もパンに挟む。ソースを手作りする時間をかけるのも手間だったので、自作のバジルソースとシーザードレッシングで代用。
その間に温めておいたスープもカップに注いでおく。師匠が入れておいてくれたであろうコーヒーを片手に、朝食を小さなテーブルごと魔術で浮かせ、縁側へ運ぶ。
静かな食卓だった。
外では夜より落ち着いた風が森を揺らし、朝露を落としながら鳥が羽ばたいていくのが見える。川のせせらぎが、いつもより近く聞こえる。雨の匂いのせいかもしれなかった。
コーヒーの湯気が静かに漂う。
リュシアは垂れた髪を耳に掛け直しながら、いつも通り、優雅にカップを傾けていた。
しばらくの間、外の音に耳を傾けていた。
お腹が膨れて満足したのか、どこか眠たげなあくびが隣から聞こえてくる。
名残惜しいけど、心地良い時間も終わり。
「……じゃ、そろそろ行ってくる」
「ん」
短い返事。
それだけなのに、少しだけ喉が詰まる。
「あー、飯。ちゃんと食えよ」
「…」
「夜更かしするなよ」
「……」
「ちゃんと風呂には入れよ」
「………」
「ベッドの上で菓子食うなよ」
「お前は私の母親か何かか?」
「冷凍庫の左から主菜、副菜、スープ、デザート、間食だから偏って食うなよ?あと冷蔵庫の方にあるおかずだけど――」
「早く行け」
「はい」
どうやら、本当に行くらしい。深く溜息を吐く。
すると。
「そうだ」
リュシアが小さな封筒を投げて寄越した。
「街に着いたら、これをギルドへ届けてこい」
「ギルド?」
「人に聞けば分かる」
「あー、了解」
適当に返事をしながら封筒を鞄へ入れる。
どうせまた雑なお使いだろう。
今更気にしない。
「あと、これも持っていけ」
今度は小さな袋を投げられる。
受け取ると、中には携帯食料が入っていた。
干し肉、乾パン、保存用果物。調理道具まである。
よくある割と普通のもの。
「……これは?」
「どうせお前は大きな荷物は空間魔術で収納するから大丈夫だとか考えているだろう、バカ弟子」
ぎくり、とレイの肩が跳ねた。
「魔術に割くリソースも維持も馬鹿にならん。お前ならすぐにでも分かるさ。第一、外で使うのは目立つ」
「う゛」
「普通の荷物も持って歩け」
正論だった。
レイは少し気まずそうに袋を見る。
「……師匠」
「なんだ」
「ありがとう。大切に使う」
「ふん」
少しだけ満足そうだった。
そして。
「もう一つだ」
追加で投げられた黒い袋を受け取る。
軽い。
「……こっちは?」
「空間圧縮済みだ。無くすなよ」
「俺の感動返せよ!?」
「作るのは大変なんだぞ?」
「普通作れねぇんだよ!!」
レイは思わず叫ぶ。
そんなものを気軽に渡すな。
しかも素材からして絶対高級品だ。
リュシアは面倒臭そうに欠伸をした。
「油断するなよ」
「ああ、強い魔物には気を付ける」
「魔物だけじゃない」
「?」
「人にも、だ」
レイは少しだけ目を瞬かせる。
「まぁ……確かに、うるさいしスリとかあるもんな」
「……はぁ」
何故か深い溜息を吐かれた。
失礼な。
「じゃあ、ほんとに行くからな」
「あぁ。……気を付けろよ」
短い言葉だった。でも、
その声は少し静かだった気がした。
小さく息を吐いて、森の外へ向かって歩き出す。
◇
しばらく歩き続ける。家の周りの結界を越えた瞬間、空気が少し重くなった気がした。森の音が少し騒がしくなる。しばらく歩いたところで、レイは立ち止まった。
「……あれ?」
景色に見覚えがない。
いや。
さっきまであった道が消えている。
ゆっくり振り返ると、全部同じ景色だった。
「……そういえば」
リュシアの結界。
この広大な森そのものにも張っていると昔、言っていた気がする。森の深くへ行こうとするほど迷いやすい、とも。そして家は森の深部にある。という事はつまり。
「……迷った?」
沈黙。
風が吹く。
木々が揺れる。
ぽつり、と。
雨粒が頬へ落ちた。
その直後。
ざぁぁぁぁ――――っ!!
森へ雨が降り始める。
「マジかよぉぉぉ!!?」




