第3話 森の外へ
窓の外は薄暗かった。
朝だというのに空は重く、灰色の雲が森の上をゆっくり流れている。暖かくなったと思えば、ここ数日はずっとこんな天気だ。雨が降ったり止んだりを繰り返し、森全体もじっとりと湿っている。
葉擦れの音も少し鈍い。
「……嫌な天気だなぁ」
レイはぼやきながら、鍋を掻き混ぜた。
粉から仕込んだクロワッサンとフォカッチャが焼き上がり、長時間燻した肉の匂いが部屋へ広がっていく。香辛料で輪郭だけ整えた野菜スープは静かに湯気を立て、昨夜のうちに冷やしておいたプリンも問題なく固まっていた。
ぱちり、と薪が爆ぜる。
「師匠ー。飯できるぞー」
返事はない。
「……また寝てんな」
最近のリュシアは妙に眠そうだった。
元から寝坊癖は酷かったが、最近は輪を掛けて酷い。
昨日など、本を読みながら床で寝落ちしていた。
しかも半裸だった。
流石にどうなんだと思わなくもない。
レイは呆れながら皿を並べる。
昔は見上げていた机も、今では少し低く感じた。
なんとなく、壁に掛けてある鏡に視線を向ける。
後ろで結んだ黒髪が肩越しに垂れ、少し目に掛かった前髪の奥から、黒い瞳がこちらを見返していた。
師匠には昔『図体ばかりでかくなって……ガキめ』と言われた事があった。その時は『もう俺の方がでかいしガキなのはそっちだろ』と言い返したら吹き飛ばされたのいい思い出。理不尽ではあったが、それでもこうして同じ家で朝飯を作っている辺り、多分あの頃から何も変わっていない。
そんな事を考えていると、背後からいつにも増して気怠げな声が落ちた。
「もう十年か……」
いつの間にか、リュシアが椅子へ座っていた。
今日は薄みがかった青色のシャツ一枚だった。
滅多に出掛けない癖にシャツだけは妙に種類が多い。もっと他にも気にする所があるだろう、とレイは内心で呆れる。
気怠そうに頬杖をつきながらぼんやりと、憂いを帯びた眼差しをコーヒーに向けている。淹れたての珈琲から立ち上る真っ白な湯気が、ゆっくりと空気に溶けていく。寝癖のついた艶のある黒銀の髪が肩へ流れていた。
「お前、明日から下界で暮らせ」
「……は?」
あまりにも自然な声音だった。
優雅にコーヒーを飲みながら『今日は雨だな』くらいの軽さで言われた気がした。
レイは数秒固まる。
「急過ぎるだろ。外行きたくないんだけど、雨だし」
「顔が好みだから飼っていたが飽きた」
あんまり過ぎる言葉だった。
形の良い唇が弧を描き「安心しろ。今でも顔は好きだぞ」と天使でも惚れてしまいそうな笑顔で言われた。
「フォローになってねぇよ!!」
リュシアは気にした様子もなく、両手でスープの入ったカップを包み込み、ふぅっと細く息を吹きかけた。少しだけ熱さが和らいだのを確認してから、ゆっくりとカップに口を付ける。無駄に可愛らしい仕草だった。
窓の外では雨前の風が森を揺らしている。
いつも通りの朝だったのに。
「ちょっと待ってくれ。なんでそんな話になるんだよ」
「そろそろ社会を知らないとな」
「今更?やだよ。外うるさいし」
「慣れろ」
「人多いし」
「諦めろ」
「匂いも臭い」
「我慢しろ」
「雑過ぎるだろ……」
レイは机へ突っ伏した。
何度かリュシアに連れられて森の外へ出た事はある。
その小さな村で市場には人が溢れていたが、知らない奴らが大勢周りに群れてきた。勝手に話しかけてくるから、歩いているだけで疲れた記憶がある。
パンも肉串も美味かったし、珍しい香辛料や果物が並ぶ出店を見るのは普通に楽しかった。けれど周囲から絶えず知らない声が飛んできて、歩いているだけで妙に疲れたのを覚えている。
「村ですらアレなのに、街とか絶対にもっと人多いだろ……」
「多いな」
「やだなぁ……」
「どうせなら、お前の嫌いな鐘のある街にでも行ってこい。よく聞こえるぞ」
「嫌がらせか?」
「社会勉強だ」
絶対に違う気がする。
レイは半目になる。
あの鐘の音だけは昔から駄目だった。
聞こえるたび胸の奥がざわつき、耳の奥を無理やり掻き回されるみたいで落ち着かなくなる。
「最近天気悪いし、行きたい気分じゃない」
「そうか」
「聞いてるか?」
「荷物は纏めておけ」
「話聞けよ!」
「金は机に置いてある」
「追い出す気か!?」
「今更気付いたのか」
「横暴過ぎるだろ!!」
リュシアは面倒臭そうに頬杖をついたまま、こちらから目線を外し、コーヒーを傾ける。
カップに光が反射し、金から黒へと移り変わる瞳が僅かに細められていた。
「……お前は少し、外を見てこい」
ぽつり、と。
いつもより少し静かな声だった。
こちらとしては眉を寄せるしかない。
「別にここで困ってない」
「私が困る」
「なんでだよ」
「お前がずっと居ると、そのうち本当にダメになる」
「アンタが言うのかよ」
「私は最初からダメだ」
「開き直んなよ」
深く溜息を吐く。正直、かなり行きたくなかった。
ここは静かで落ち着く。
森の音は綺麗だし、飯も美味い。
師匠はアレだが慣れた。
魔物も鬱陶しいだけで危険ではない。
師匠の憂さ晴らしの方が危険なくらいだ。
なのに。
外が少し気になっていたのも本当だった。
「……ししょー」
「なんだ」
「ほんとに行かなきゃダメか?」
「ダメだ」
即答だった。
「マジかぁ……」
「赤子でもあるまいし、うるさいな」
「でも急過ぎるだろ……」
「図体ばかりでかくなって……ガキめ」
「もう俺の方がでかいし」
「顔は良く育ったと思うぞ」
悪魔でも堕とせそうな笑顔で頷かれた。
「そこしか見てねぇの!?」
腹立つ。
だがいつもと同じ、そんなやり取りにすら少しだけ落ち着いてしまう自分がいた。
結局、その日の昼頃には荷造りを始めていた。
◇
「……なんでこんなに本気なんだよ」
使える物があれば好きに持って行け、と言われて向かった、離れの倉庫に張られた何重もの結界を前に、レイは引き攣った顔をする。
ここは昔から接近禁止で『実験器具があるから近寄るな。近寄ったら殺す』そう言われていた。
子供の頃、一度だけ興味本位で近付いたのがバレて、半泣きになるくらい吹き飛ばされた記憶がある。後日、見せしめに連れてこられた魔物が結界に消し飛ばされるのを見て、二度と近づかないと心に誓った。そんな場所だ。
結界を潜り、恐る恐る扉を開く。
軋む音と共に、埃っぽい空気が流れ出た。
「……あれ?」
思った以上に中はごちゃごちゃしていた。
積み上がった木箱に壊れた椅子。
謎の金属部品と組み込まれた魔物の骨っぽい何か。
古びた鍋に突っ込まれた何故か大量のスプーン。
見る角度によって表情を変える意味不明な仮面。
明らかにヤバい雰囲気の見た事もない魔術触媒。
棚へ雑に突っ込まれた本。
埃を被った布袋。
旅道具らしき物もあるが、それ以上によく分からない物が多い。
「……これ、ただの要らないもの置き場じゃねぇか?」
「バレたか」
気付けば後ろにいた師匠はドヤ顔で即答していた。
「バレたかじゃねぇよ!!」
「実験器具もあるぞ」
「絶対ちょっとだろ!!」
リュシアは悪びれもなく欠伸をする。
レイは呆れながら木箱を漁った。
すると。
「……ん?」
黒いコートが目に入った。
少し厚手で足元まで隠れそうな程の長さがある。
生地は分からないが、指先へ返ってくる感触だけで上等な物だと分かった。広げてみると、動きを邪魔しないよう細かく仕立てられていて、目立たない場所にだけ控えめな意匠が入っている。
内側のを見ると、背中部分には刺繍が入っている。
白いもこもこした何かに包まれた猫。
しかも小さな角と髭付き。
「……なんだこれ」
「狼だ」
「いや絶対猫だろ」
「羊も混ざっている」
「なんで?」
「かっこいいだろ?」
「センス終わってんなぁ……」
だが、嫌いではなかった。
サイズ感も丁度よさそうだ。
「これ、使っていいのか?」
「たまたま外へ出た時に見つけてな。いい素材だったから買ったが、サイズがな」
「へぇ」
「少し大きかったがな。使いたければ使え」
刺繍がアレだけど、ちょっと嬉しい。
ため息をつき、再び倉庫の奥へ視線を向けた。
少し手直しされてある古いクッション。
妙にデフォルメされた動物のぬいぐるみ。
数える気も起きない様々なジャンルの雑多な本。
昔、あれを見て『ししょーってこういうのすきなんですね』と笑ったら、本気で殺されかけた記憶がある。未だに理由はよく分からないが、まとめてこんなとこに放り込まれてたんだな。
「ん?これは?」
棚へ手を伸ばした瞬間、奥で紫色の魔術陣が一瞬だけ発光した。
「うおっ!?」
「触るな。爆発する」
リュシアが面倒臭そうに言う。
「先に言えよ!!」
思わず振り向くと、既に誰もいなかった。
いつの間にか消えていた師匠に呆れながらも、使えそうな物を幾つか見繕い、自分の部屋へと戻る。
◇
戻った部屋の大きさ自体は、隣のリュシアの部屋とそんなに変わらない。ただ、あちらよりずっと物が少ないせいか広く感じる。軽く部屋を見渡す。
師匠が置いていった多分いらない本。
使い終わったらしい雑多なノート。
入らなくなったのか、適当に積まれた魔術書。
たまに読まされていたけど本当に面倒だった。
部屋の隅には、訓練で使っていた武器が邪魔にならない様にではあるが、雑に纏められている。気分で訓練内容を変える師匠のせいで次から次へと増えたものだ。しかも途中から『お前の汗で汚い。自分で管理しろ』と言われたから、その時は流石に殺意が湧いた。
「……ん」
棚の端へ置かれていた黒い石を手に取る。
掌へ収まる程度の、小さな黒曜石。昔、村へ行った時にリュシアが買ってくれて以来、ずっと部屋に置いていたものだった。
『お前の眼に少し似ているからな』リュシアはそう言っていた。しばらく石を眺めた後、小さく息を吐いて、そのまま黒曜石をポケットにしまう。
その後も必要そうな荷物を纏めたり、他の準備を終えた頃にはもう陽は落ちていた。
コォォォォン。
レイは少しだけ眉を顰める。
「……飯、遅くなっちまったな」
森を揺らす風の向こうで、鐘の音だけが鈍く響き続けていた。




