第2話 変わらない朝
ゴン! ゴン!!ゴン!!
「師匠ー!! メシ出来るぞー!!」
レイが声を掛けるも返事はない。
明け方の森に響き渡る勢いで扉を叩くが、部屋の中からは何も聞こえて来ない。窓の隙間から入り込んだ涼しげな風が廊下を撫で、外で揺れる木々の音だけが微かに耳に届く。
「いい加減起きろよクソババア」
そう呟いた瞬間に扉が音を立てて思い切り開かれた。
「うぉおっ!?」
突如目の前の空間が、ぐにゃあと不自然に歪む。
嫌な予感がした時にはもう遅く、どこからか伸びてきた脚が弧を描きながらこちらへ向かって来ていた。その蹴りに引き寄せられるように周囲の空間が捻れていく。
逃げようとする身体ごと引き摺り込まれる様な感覚。
その次の瞬間には途轍もない衝撃が腹部に響き、気が付けば部屋から離れた場所にまで吹き飛んでいた。
「ッ――!?」
何が起こったのか確認しようとしたのも束の間、再び目の前で空間が歪み始める。
「マジかよ!? ーー! 」
身体を起こす隙もなく空間が解放された。空気が弾けるような音の直後、全身を蹂躙する様な衝撃が走り抜ける。そのまま派手な音を立てながら廊下を転がり、壁に叩き付けられてようやく停止した。
「~~~~っ……」
床に潰れたままの身体を震える腕で持ち上げる。
「……魔術の無駄遣いだろあのババァ……」
もう誰もいない廊下の先を睨む。
吹き飛んだ扉の奥では、蹴りを放った本人が何事もなかったかのようにベッドに埋もれ直しているだろう。一瞬だけ目覚めて人を吹き飛ばしたのに、もう一度眠りに戻る神経が怖かった。
「……マジで人間やめてんだろ」
痛む身体を擦りながら立ち上がる。
小さい頃なら泣いていたが、もう慣れてしまった。
ーー慣れたくはなかった。
◇
解けてしまった黒髪を後ろで適当に結び直し、吹き飛んだ扉を拾い上げる。昔は重くて引き摺る事しか出来なかった木板も、今では片手で持ち上がった。
「ったく……」
愚痴を零しながら部屋に戻ると、相も変わらず本が散乱していた。
床に崩れた本の山。机の端から滑り落ちた紙束。半分だけ椅子に引っ掛かった黒いローブ。溢れたインクの匂いが部屋に残っていて、昨夜もどうせまた遅くまで起きていたのだろうと思った。
その中心。
黒いシャツ一枚で毛布に埋もれたリュシアが、長い髪を散らして気持ち良さげに、すぅすぅと寝息を立てている。
「……なんでこの人、歳取らねぇんだ?」
昔は少女みたいだと思っていたが、今は違う。
黒銀の髪は昔より艶を増しているように見える。服から覗く白い肌は相変わらず人形みたいに滑らかで、緩く開いた胸元には妙に視線を引っ張る色気がある。毛布の隙間から投げ出された脚は白く細いのに柔らかな肉感があり、無防備に絡み付いたシャツの裾が余計に目のやり場を悪くしていた。相変わらず性格は終わってるのに。
「寝顔だけなら美人なんだけどなぁ」
呆れたように息を吐き、本を拾い集める。
昔より身体が大きくなったせいか、この部屋は少し狭く感じた。机も椅子も天井も、昔は全部大きく見えていたのに今では小さく見える。
さら、とローブの裾が棚に触れる。
今着ているローブは師匠が仕立て直したもので、黒い布地のポケットには刺繍が入っている。片方は例の猫。これはもう誰が見ても猫だ。問題は反対側だった。
「……どう見ても山羊なんだよなぁ」
師匠曰く、狼と羊。
半人前の魔術師認定をされた時に『祝いに刺繍してやろう』と妙に上機嫌で作っていた。
完成品を見せられた時は流石に絶句したのだが、感動していると勘違いしたらしく『声も出ないか』と満足げだった。
「まぁ……嫌いじゃねぇけどな」
ぼそりと呟き、本を積み直す。
窓を開いて外を覗くと、朝露で濡れた森を風が鳴らしていた。葉擦れの音に小川の流れる音が重なり、遠くでは鳥が鳴いている。昔から変わらない森の音だった。
思わず少しだけ目を細める。
昔よりずっと、この静かな時間が好きになっていた。
「コーヒー、淹れとくからな」
返事はないし、どうせ聞いていない。
何度目かも分からない溜息を吐きながら階段を降りる。
◇
昔は見上げていた棚も、今では普通に手が届いた。
欠伸を噛み殺しながら軽く指を鳴らす。
ぱちり、と竈の火が灯り、同時に浮かび上がった水瓶が鍋に水を注ぎ始めた。別の場所では包丁が勝手に野菜を刻み、棚から引き出された皿が机に並んでいく。既に焼き上がっているパンの表面を風が撫で、余計な熱だけが静かに攫われていった。
以前は火を点けるだけで精一杯だった。
教わった通りに詠唱しても上手く制御出来ず、火力を間違えて鍋を焦がし、風を流し過ぎて部屋中へ灰を撒き散らした事だってある。
けれど今では、火を維持したまま風を循環させ、水を沸かし、別で食材の温度まで管理している。いつの間にか、それを特別とも思わなくなっていた。
『ようやく半人前だ』
以前、そう言われた時の事を思い出すと苦々しい気持ちになる。
「基準おかしいんだよあの人……」
ぼやきながらフライパンへ油を落とすと、じゅわり、と音が鳴った。同時に風の魔術で熱を循環させ、火力の偏りを均していく。部屋中に香ばしい匂いが少しずつ広がると、冷えていた朝の空気が熱を含み始め、静かだった台所に暖かさが増えていく。
火の温度や湯の温度、豆を蒸らす時間に至るまで、何故か昔から妙にうるさかった。
長くても駄目。短くても駄目。
適当に淹れた時は、中身を掛けられた事すらある。
「理不尽なんだよなぁ……」
そうぼやきながらも、手は止まらない。
フライパンを2つ使い片方では肉を、もう片方では生地を広げる。鍋の中ではスープが静かに湯気を立て、焼けた肉の匂いにスープの香りが混ざっていく。
焼き上がったパンケーキを2枚ずつ皿に重ね、その上に冷たいアイスを乗せる。溶け始める前に保冷術式を掛け、マーマレード、ブルーベリーのジャム、蜂蜜を並べる。最後は彩り用のミントを添えて。どう考えても森暮らしの朝食ではない。
「これ、絶対に森で食えるメシじゃねぇよな……」
苦笑しながら、今度はベーコンエッグへ取り掛かる。
自分用は厚切りベーコン三枚と卵三つ。対してリュシアは一枚と一つだけだ。あの人は昔から量を食べない。
じゅわ、とバターが溶け、さらに濃い香りが立ち昇る。卵は白身だけ少し火を強め、最後は黄身に余熱を通して半熟に仕上げていく。
師匠は少し固めが好きだ。
だから火を止める瞬間まで計算に入れる。
「……ほんと面倒臭ぇ」
口ではそう言いながら、結局ちゃんと好みに合わせている辺り、自分でもだいぶ慣らされたと思う。
鍋ではスープが静かに煮えていた。
澄ませたブイヨンに香味野菜を加え、浮かんだ灰汁だけを丁寧に取り除いていく。本来なら付きっ切りの作業だが、今は条件設定した術式が温度管理から攪拌まで自動で進めてくれていた。
完成したスープに乾燥ハーブを散らした後、最後にヨーグルトを確認する。
濃厚な生乳から作り、蜂蜜やナッツ、グラノーラ、フルーツまで加えた自家製ヨーグルトは、もはや店でも開けそうな完成度だった。
ヨーグルトの発酵時間まで調整している辺り、自分でも少しだけおかしな方向へ進んだとは思う。発酵させ過ぎて『兵器か?』と真顔で言われた時は、流石に傷付いたが。
「……懐かしいなぁ」
今となっては笑い話だ。だが、
「この為に腕を磨いたまであるからな」
最近は割と本気でそう思う。
後は自分用のスムージーと師匠用のコーヒーだった。
今日は朝から空間魔術で吹き飛ばされた。
ならば、こちらも空間魔術を使ってやる。
八つ当たりなのは分かっているが止める気はない。
頭の中で術式を組み、魔力を指先に集めて指を鳴らす。空間に軋むよう音が響き、果物がふわり、と空中に浮かび上がる。
バナナにベリー、リンゴと蜂蜜。
今日はシンプルに作る。
魔術は便利だ。一度、構築するのに慣れてしまえば生活そのものに活かせる程の自由さがある。問題があるとすれば、制御の難易度が魔法と比べて高く、魔力の消費がとんでもない位だろう。
本来は時間をかけて魔術の式を描き、環境の変化に応じて調整していく必要があると教わった。だが、師匠の方法では自身の体内で構築済ませて行動と結びつけ発動させる。
ここまで様々な物事に転用していて、おかしいとは思うが便利さには勝てなかった。
「……よし」
空中で果物が細断され、そのままヨーグルトにシロップを加えて圧縮、攪拌、ペースト化されていく。同時に別空間ではコーヒー豆が均等に粉砕され、湯温調整まで並行して進んでいた。
昔なら考えられなかった芸当だ、と満足そうに頷く。
その時だった。
びきっ。
「……あ゛?」
空間が軋む音。浮かぶもの全てが一点に収束し始めた。
「ちょっ――!?」
果物に蜂蜜。ヨーグルトやシロップも、全部がまとめて空間圧縮に呑み込まれていく。止まらないまま混ざり、潰れ、砕けながら、回転し収束する空間。
「やっべぇ!!?」
ーーーあー、終わった。
顔を引き攣らせた、その瞬間。
「……朝から騒がしいな」
気怠そうな声が落ちる。
いつの間にか師匠が階段に腰掛けていた。寝起きのまま頬杖をつき、欠伸混じりにこちらを見下ろしている。
黒銀の髪がさらりと揺れ、そのまま軽く振られた指先が空間へ触れた。
直後。
暴走していた空間が、静止する。
「……え?」
術式そのものを、上から塗り潰されたみたいな感覚。
収束していた空間は、気が付けば滑らかなスムージーになって、遠く離れた木のコップに収まっていた。
一滴も零れていない。
「……相変わらず意味わかんねぇ……」
呆然と呟くと、眠たそうに目を擦りながら諭される。
「空間圧縮に直接回転術式を重ねるな。干渉する。やるなら空間自体に設定を加えろ」
「いや、そんなの分かるかよ普通……」
「総じてセンスがないからだ」
「ぐっ……!」
そう言うと欠伸を漏らしながら、気怠そうに頬杖をついてこちらを見つめてくる。視線だけで「次」を要求してくる辺り、本当に遠慮というものがない。
肩を落としながら、空中で浮かぶ器具を引き寄せる。
「……コーヒーは?」
「はいはい。もう出来ますよ、師匠」
砕かれた豆から立ち昇る香りは深く、少し甘い。今月の配合は中煎り寄りで、酸味を抑え、その代わりコクを強めている。師匠は昼以降なら気分次第で砂糖も入れる癖に、朝の一杯だけは必ずブラックだった。
「今日の豆、ちゃんと覚えてるだろうな」
「わかってるって」
「前回は蒸らしが三秒長かった」
「怖ぇよ記憶力が」
ぼやきながらも湯を落としていく。細く、静かに、円を描くように注がれた湯に反応するように豆がふわりと膨らみ、その瞬間から部屋に広がる香りが上書きされる。
深く、苦く、それでいて少し甘い。
朝から目覚めさせるような匂いが、ゆっくりと台所の空気に混ざっていく。
「……悪くない」
零れた声に少しだけ口元がにやけてしまう。
昔はコーヒーなんて苦いだけだった。けれど毎朝、美味そうに飲む師匠を見ているうちに、気付けば自分でも淹れるようになっていたし、気付けば味の違いまで分かるようになっていた。
もっとも最初の頃は酷いものだった。
酸っぱいだの、薄いだの、焦げ臭いだの、毎回のように文句を言われ、流石に頭へ来て『じゃあ飲むなよ』とキレた事もある。その時の師匠は真顔のまま『弟子の成長を見守るのも師の役目だ』などと偉そうに言っていた。
なお翌日も普通に駄目出しされた記憶がある。
あまりに理不尽だった。
◇
完成した朝食を机に並べる終えると、様々な香りが食卓に広がり、食欲を誘う。その向こうでは師匠用に淹れたコーヒーからも深い香りが立ち昇っていて、ようやく「朝」が始まる気がした。
「いただきます」
「……ん」
二人揃って食事を始める。
ナイフを入れた瞬間、厚切りベーコンから肉汁が滲み出し、半熟卵と絡めて口に運べば塩気と脂の旨味が一気に広がった。そこにバターの香りまで混ざり、思わず自分自身の口から「うま……」と声が漏れる。
対面では、パンケーキに容赦なく大量のシロップとジャムを掛けていた。
「まぁ、お前は私が育てたからな」
「また始まった」
「実際にそうだろう?」
「はいはい」
適当に流した途端、不機嫌そうに眉を寄せている。
「何だその反応は」
「いや別に」
「納得してない顔だな?」
「してませんけど」
「しろ」
「めんどくせぇな……」
「聞こえているぞ」
昔から何も変わらないやり取りだった。
目の前では全部乗せ状態になったヨーグルトを満足そうに掬う姿。蜂蜜、果物、ナッツ、グラノーラが完全に混ざり切っていて、見た目は大分酷い。
「……風情って言葉知ってるか?」
「美味ければ良い」
「台無しだよ」
「味に辿り着けない風情など不要だ」
「なんかそれっぽい事言ってるけど、雑なだけだろ」
すると混ぜているスプーンを止めた師匠が、じーっ、とこちらを見つめてくる。
「お前も昔は全部混ぜていただろう」
「ガキの頃な?」
「今も大差ない」
「失礼過ぎるだろ」
呆れながらスムージーを飲むと、外に視線を向ける。
朝の森では風が静かに木々を揺らしていた。木々が揺れる音と水の通る音が混ざり、離れた場所では小鳥が囀りが聞こえる。昔からずっと変わらない森の音だ。
コォォンーー
だからこそ、聞こえてきた音は余計に耳障りだった。
コォォンーー
遠くから響いた鈍い鐘の音に眉を顰めてしまう。
胸の奥がざわつく音。
「……また鳴ってんな」
「毎日鳴っているだろう」
「うるせぇんだよなぁ……」
窓の外、森の遥か向こう。ここからは影も形も見えない人の住む場所から響いてくる。
街では魔物除けだの結界だのと言って、毎日朝と夜の決まった時間に鐘を鳴らしている。皆はありがたがっているみたいだが、昔からあの音は好きになれなかった。
綺麗じゃない。自分でもよくわからないが、泣きたい気持ちを無理矢理押し込めているような音がする。
「……嫌な音だな」
ぽつり、と零れた言葉に師匠は何も返さない。
ただ静かにコーヒーを片手に外へ視線を向けていた。




