第1話 森の家
コン、コン。
「ししょー、おきてますかー」
返事はない。
廊下の突き当たり、奥の部屋。木の扉に耳を寄せる少年レイに聴こえてくるのは、小さな寝息だけだった。
窓の隙間から入り込んだ朝の風が静かな廊下をゆっくりと撫でていく。夜の冷たさを少しだけ残した空気が頬に触れて、外では風に揺れた木の音が重なっていた。
朝の森は静かで魔物が彷徨く危ない森とは思えない。
"外に出る時は気をつけるように"と言われているが、家の周囲には結界が張られているらしく、魔物達は近寄れないみたいで尚更実感が湧かない。
周辺も祝福されているとかで、お野菜や果物もたくさん採れるし、川も近くて気持ちがいい。
そんな森の中にぽつんと建つその古い家は、外の世界を知らない自分にとっては世界そのものだった。
まだ空は薄暗く、動物達の気配もどこか眠たそうな森。この家全体が世界に置いて行かれているようにさえ感じてしまう、そんな静かな朝だった。
「……まだねてる」
小さい肩を落とし、そのまま扉を押し開けた。
床や机には本が散乱し、椅子にまで置かれた紙束は落ちそうになっている。
積み上がった本の塔は途中で崩れたらしく、開きっぱなしの分厚い本がベッド脇に転がり、乾きかけたインク瓶や書きかけの紙束もその周囲に散らばっていた。
脱ぎ捨てられたローブは椅子に半分引っ掛かったままで、昨夜も遅くまで起きていたのだろう。
その中心。
白いシャツ一枚のまま毛布に埋もれるようにして、一人の女性、師匠のリュシアが眠っていた。
零れた黒髪は朝日に透けて銀糸のように淡く光り、少女めいた顔立ちに妙な妖しさを落としている。緩く開いた胸元から白い肌が覗き、布越しでも分かる柔らかな膨らみが寝息に合わせてゆっくり動いている。
「ごはんできますよー!」
もう少しだけ大きな声を出す。
毛布がもぞりと揺れた。
だが起きない。
「……また、よなかまで、ほんをよんでたなぁ」
呆れたようにため息を吐いて、本を抱え上げていると、ふと昨夜の夢を思い出す。
鐘と何かの響くの音。赤く濡れた地面。
誰かが何かを叫んでいた気がする。
全然、声も顔も思い出せないけれど。
起きた時には殆ど憶えていなくて、胸の奥に妙なもやもやだけが残っていた。
「……へんなゆめだったなぁ」
まだ小さな身体では分厚い本を抱えるだけでも一苦労だった。ずり、ずり、とスリッパを引き摺りながら机まで運んで積み直していくと、その拍子に自分の着ているローブの裾まで床に擦れてしまう。
その黒い布地のポケットには、妙に愛嬌のある動物の刺繍が縫い付けられていて、丸い目に短い耳、どう見ても猫にしか見えない刺繍だった。
何の動物なのか聞いたら『狼だ』と言っていた。
手縫いのそれは、どこか哀愁が漂う顔をしている。
縫っている姿を褒めた時には『当然だ。私は器用だからな』と胸を張っていたが、その直後に針を指に刺して大騒ぎをしていた事を思い出す。
次に拾い上げた本はやけに重たく、
『外界マナ循環理論』
『古代詠唱と代替音階』
『神代魔術式概論』
難しい文字ばかり並んでいた。
半分くらいしかレイには読めない文字だ。
「なんでこんなの、よむんだろ……」
師匠は毎晩飽きもせず読み耽っている。
以前も『ふふん、天才の読書姿は美しいだろう』と、わけの分からない事を言っていたし、昨日なんて寝癖がついている事を教えたら指でおでこを弾かれもした。
出来る限り正直な感想を飲み込もうと努力はしているが、それでも理不尽な事に変わりはない。
部屋の外では、風に揺れた木々がざわめき、葉の擦れる音に混じって遠くの鳥の声や小川の流れる音が静かに重なっている。
「したでまってますからねー!」
返事のない部屋を後にし、リビングに戻る事にした。
◇
台所の空気はまだ少し冷たくて、水に触れた指先はすぐに赤くなる。森に降り始めた冬の気配のせいか最近はずっとこんな感じだった。
流し台に背伸びしながら水瓶を持ち上げる。
けれど小柄な身体では少し重い。
「ぅ、ぅぅ……」
ぷるぷる震える腕でどうにか支えながら、冷えた水を桶に移すと、跳ねる水飛沫にびくり、と身体が揺れる。
「さむいなぁ……」
小さく呟き、今度は竈の前にしゃがみ込む。
積まれた薪に指を向けた。
《──火よ》
ぱちり、と乾いた音が鳴る。
薪の隙間に小さな火が灯る。赤い熱がゆっくり広がり冷えていた空気が少しだけ緩み、満足そうに頷く。
少し前までは、これすら出来なかった。
ーー魔力がない。
そう言われた日の事は今でも覚えている。
教わった通りに詠唱しても何も起きなかった。
何度試しても。何度も試してみても火は灯らない。
その時だけは、流石の師匠も少し困ったような顔をしていた気がする。
だけど数日後には『それなら外から持ってくればいい』そう言って、今のやり方を教えてくれた。
普通の人は自分の魔力を使って魔法や魔術を扱うらしいけれど、それが無かったから。
代わりに世界に満ちる力を借りる方法と言っていたが、理屈は難しくて分からなかった。その何かを掴む感覚も最初は全然理解できなかったのに、一度出来るようになってからは息をするように自然と出来た。
鍋に水を入れ、棚から布袋を取り出す。
ごり、ごり、と静かな音を鳴らしながら豆を挽く。
「ししょーは、こーひーにうるさいからなぁ……」
呟きながらも手は止められない。
細かすぎても駄目。粗すぎても駄目。
以前適当に淹れた時は、無言で捨てられた。
その間にパンを焼いて、スープを温める。最後にベーコンに火を通して卵を落とせば、じゅわっと油が跳ね、香ばしい匂いが部屋中に広がっていった。
火入れの温度。お湯の温度。豆を蒸らす時間。
師匠はそういう所には妙にうるさいから失敗できない。
まだ失敗する事はあるけど、朝の準備をしている時間は嫌いじゃない。そんな事を考えながら木のコップに牛乳を注ごうとしていた、その時だった。
「あっ」
小さな手が滑る。
傾いた瓶から白い牛乳が溢れ、空中から床へ落ち――
る前に。ふわり、と空中で静止した。
「……」
固まっていた視線を横へ向けると、いつの間にか起きて来ていた師匠が気怠そうな顔のままこちらに向けた指を動かしている。
空中に浮かんだ牛乳は見えない器へと注がれるように形を変え、そのままゆっくりコップの中に戻っていった。
一滴も零れていない。
「おぉ……」
思わず声が漏れる。何度見ても凄かった。
本だと魔法の事は『言葉を重ねて世界へ語りかける』と書いてあったけれど、動作だけで現象を起こしている。
自分が使える魔法とはまるで違う。
師匠はいつも『本来はこういうものだ』と言うが、正直すごいという事しか分からない。
「やっぱりししょー、すごいなぁ」
素直に呟くとふん、と鼻を鳴らして目線を逸らすけど、口元だけは少し緩んでいる。たぶん褒められて嬉しかったのだろう、と思う。
「……それくらい出来なければ困るんだがな」
「うれしそう」
「気のせいだ」
「わかりやすいのに」
「弟子の癖に生意気だな」
口元に笑みを浮かべたまま椅子に腰掛け、頬杖をつく。
「今日はちゃんとしてるな」
「きのうも、まずいって、いわれたので」
「事実だろう」
「むぅ……」
膨れるレイにパンを千切りながら視線を向けてくる。
「そもそもお前は普段からもう少しは魔法を上手く扱え。いつまで経っても魔術の習得に進まん。あと牛乳も零すな。チビの癖に無理をしおって…。あとは……コーヒーを上手く作れ」
「いっぱい言う……」
「事実だからな」
「ししょーだって、なんかいゆっても、ほんをちらかすじゃないですか」
ぴたり、と空気が止まった気がした。
「……」「……」
「弟子が師に口答えとは、随分偉くなったものだな?」
「だってほんとうですし」
「外へ出ろ」
「なんで!?」
「勉強の時間だ」
「りふじんだぁ!?」
森の家に情けない悲鳴が響くと、鳥達も驚いたのか窓の外では一斉に飛び立っていた。
◇
ひとしきり騒いだ後。
結局、二人で朝食を囲む事になった。
雑に千切られたパンと、綺麗に切られたパン。湯気を立てるスープの隣にベーコンエッグ。冷たい牛乳と温かいコーヒー。ヨーグルトとイチゴジャムまで並んでいる。小さな森の家とは思えないくらい食卓は賑やかだった。
「ししょー」
「なんだ」
パンにジャムを塗りながら、小さく口を開く。
「ぼく、そろそろ、そとのせかいにいってみたいです」
リュシアの手が止まった。
コーヒーから立ち昇る湯気だけが静かに揺れる。
「何故だ」
「ほんでよみました」
「ろくでもない理由だな」
呆れたように言いながらも、続きを促すように視線だけを向けてくる。
少しだけ身を乗り出して、言葉を続ける。
「ぼうけん、するんですよね!」
「するかもな」
「せんしさんとか、まほうつかいさんがいて!」
「いるだろうな」
「えいゆうさまとか、せいじょさまも?」
「いたらしいな」
「こわーいまじょに、どらごんは?」
「そんなものはいつでも見れる」
「にんぎょさんは?」
「あんな奴らは知らん」
「ししょー、なんでもしってるわけじゃないんだー」
「喧嘩を売っているのか?」
「あとは、ぱんをくわえて、はしるんですよね?そのあとにとらっくではねられて、いせかいでつえー!みたいな」
「……何処で知ったんだ、そんな事」
「ししょーのへやでみたきがします」
「……」
眉間を揉んでいる姿に少しだけ勝った気持ちになる。
「まち!みてみたいです!」
森の外。
本の中でしか知らない場所。
沢山の人がいて、綺麗な鐘が鳴って、歌や詠唱が溢れる様々なものが行き交う世界。それらを見てみたかった。
師匠は何も言わなかった。
少し時間が経つと、カップに口を付けた。
静かにコーヒーを飲み込んだ後、小さく息を吐く。
「下は煩いぞ」
「しってます」
「人も面倒だ」
「それもしってます」
「臭いぞ」
「それはいやですけど…」
「諦めろ」
つまらなそうに言うと再びコーヒーに口をする。
本気で止めるつもりはないのはなんとなく感じた。
それでも、と思いながら窓の外を見る。
森の向こう。ずっと遠く。
見つめていると、微かに鐘の音が響いて来た。
コォォンーー
森の静けさを裂くような、鈍く重い音。
耳の奥がむず痒くなり、胸の奥がざわつく音。
コォォンーー
まるで、泣きそうな誰かが、声を無理やり押し殺しているような音だと思った。
「……また、あのおとだ」
「鐘だ」
「うるさいなぁ」
眉を顰めて考える。
外の世界に興味はあるけれど。
どうして下の人達は、アレを有り難がるのだろう。
本によれば、街の中心にある大聖堂の鐘らしい。人々は祈りの時間を知り、鐘に感謝するのだと書いてあったが、何故そう思うのか分からない。
師匠は鐘の音を聞いても何も言わない。
いつものように変わらず、静かに佇んでいる。
その横顔は、何かを考えているようにも見えた。




