第37話 決着
荒い呼吸を整えながら、剣身を隠し半身を向ける。
振り下ろされる熊腕を横へ飛んで躱すと、避けた先に狼頭が喰らい付いてくる。さらに飛び退くと、先回りするかのように猿腕が待ち構えている。
身を反らせば鋭い指先が目前の空間ごと削り取っていき、反撃に振るった剣は浅く肉を裂くだけで終わる。構わず踏み込むが、唸り声と共に狼頭、熊腕、猪頭が休む間もなく襲い掛かる。
「っ……!」
紙一重で躱し熊腕を斬り裂く。
硬質な音に手応えを確かめる暇もない。
猪頭が迫る。
身を捻るも巨大な牙が身体を掠める。
その場から飛び退き、着地。次の瞬間には熊腕が振り下ろされ、更に奥では猿腕を振り下ろす準備をしている。
いつまで経っても止まらない。
攻撃する度に次の攻撃が迫り、傷は増えているはずなのに距離を取る時間ばかりが長くなっていく。
呼吸を整える暇もなく、肺の奥が焼けるように熱い。それでも異形は疲れる様子を見せず、全身を走る赤黒い血管だけが不気味に脈打っていた。
ドクンッーー
異形の全身から窺える脈動と、谷底に散らばり淡く明滅している結晶群が、同じ拍動を刻んでいるように感じる。
嫌な光景だった。
通常の生き物を見ている気がしない。
谷そのものが呼吸し、まるでその体内で対峙させられているようにさえ思える。
「まだかよ……!」
吐き捨てた瞬間だった。
動きが止まり、三つの頭がゆっくり持ち上がる。
熊。
狼。
猪。
開かれた口の奥から低くも甲高い、不協和音のような叫び声に耳を塞ぐ。
「マズ――」
その咆哮は暫くの間、谷底を揺らしていた。
まるで空気そのものが殴り付けて来るようだった。
鼓膜が軋み、頭に響く。
視界が揺れて身体が強張る。
握っていた剣からは魔力の感触が抜け落ち、青白い光が刃から霧のように散った。
「っ!」
咄嗟に構え直したが遅かった。
熊頭が歪に捻れた角を向けて突っ込んでくる。
左右から狼頭と猪頭。
更に外側では猿腕と熊腕まで動き出していた。
一瞬で視界が埋まる。
「あぶねぇ!」
鋼糸に魔力を注ぐと、即座に張りを取り戻した糸に力を込め、後ろに跳ね飛ぶ。
直後、角が地面へ突き刺さり、牙が土を抉り、猿腕が大地を叩き割る。爆ぜた土砂が吹き上がり、遅れて砂粒や小石が顔を叩いた。
後方の木の幹に着地し、一息を吐く。心臓は耳障りなほど脈打ち、あと少し遅ければ終わっていたという実感だけが残ったが、異形は既にこちらへ向き直っていた。
六つの眼が真っ直ぐこちらを捉えている。
逃がさない。
そう言われている気がした。
「上等だ!こっちこそぜってぇー逃がさねぇ!」
身体を沈める。脚に力を入れ幹を踏み切る。
次の瞬間、弾かれたように飛び出した。
背後で枝葉が揺れ、正面からは唾液を撒き散らす熊頭と捻れた角が迫る。
むしろ真正面から飛び込む。
散りかけた氷の魔法に魔力を無理やり刃に流し込み、薄れた青白い光をもう一度剣身へ灯す。
「らぁっ!」
交差させた双剣を角に向かって振り抜く。
白い軌跡が走り、硬い感触が腕に伝わる。
その勢いのまま異形の頭上を飛び越え、背後へ着地し、振り返ると異形もこちらへ振り返っていた。
角に刻まれた傷は残っている。
それ以上はまだ分からない。
短く息を吐く。
双剣を覆っていた青白い光が完全に消える。
代わりに赤い魔力が刀身を走り、黒い刃を炎が包む。
「なら次だ」
揺らめく陽炎を纏う双剣を構え、再び異形へ踏み込む。
炎を纏った双剣が唸りを上げ、真正面からの剣撃に対し、異形も変わらず熊腕を振り上げ迎え撃った。
振り下ろされる一撃を紙一重で躱し、そのまま懐に潜り込む。足元で砕けた土が爆ぜ、焦げた臭いを撒き散らしながら炎の刃が脇腹を裂いた。異形が唸る。構わず追撃へ移り、狼頭の顎下を潜り抜けながら更に一閃。返す刃で脇下と内脚を斬り付ける。
付与魔法を変えてから何度目かの交錯。
異形が嫌がるかのように頭を振る。
炎の方が効きがいい……?なんて事を考えていると、不意に視界を埋める捻れた角。
咄嗟に双剣を交差させると炎の刃と角が激突した。
――轟音。
目の前で閃光が弾け飛ぶ。
「なっ――!?」
衝撃が両腕を突き抜けた。
爆風が荒れ狂い、視界が白く染まる。
身体ごと吹き飛ばされ、地面へ叩き付けられながらも何とか受け身を取る。剣を離さなかった事が不思議なくらい突然の出来事だった。
向き直ると、異形もまた大きく仰け反っていた。
悲鳴にも似た咆哮が谷底へ響く。
「自爆した……?」
捻れた角は根元近くから砕け散り、巨大な破片を撒き散らしながら地面へ転がっていく。熊頭は苦しむように首を振り回し、狼頭は苛立つように牙を鳴らし、猪頭は土を抉りながら荒々しく暴れていた。
今までどれだけ傷を重ねても止まらなかった巨体が、初めて明確な苦痛を見せている。
「いや。アイツの魔法…じゃない、みたいだな……」
土を削りながら体勢を立て直す。爆発の衝撃で腕は痺れ、耳鳴りまで残っていたが、それでも視線だけは異形から外さなかった。
何だ今の。本当に何が起きた?
異形が睨み吠えている。砕けた角から血を流しながら、それでもこちらへ突っ込んで来る。
考える暇など無い。
横へ飛ぶ。熊腕が地面を砕く。
飛び散る土砂を掻い潜りながら反撃に剣を振るい、炎の刃が熊腕を裂く。
少し手数を減らし、観察する。
狼頭の牙が唾液を撒き散らしながら迫り、横へ飛び退いた先には猿腕が伸びる。ーーそれは見た。
身を沈めると頭上を熊腕が通過し、猪頭の牙がこちらを貫かんとする。ーーそれも知ってる。
爆発の衝撃がまだ身体に残っていそうだが、異形は構わず猛攻を再開していた。お陰で行動をもう一度確認できた。やはり、魔法などは使ってこない。
「違う……」
先程の爆発。こちらからは何もしていなかった。それなら角か、とも考えるが、魔法を使った訳でもないのに、斬っただけであれほどの爆発が起きるとも思えなかった。
攻撃を捌きながら二刀で斬りつける。
その最中にも思考は止まらない。
木を蹴って飛び込み角を斬った。その直前にあったのは咆哮と鋼糸での緊急回避、そして氷を纏わせた双剣での反撃だった。
脳裏に青白い軌跡が過る。
咆哮で掻き消される直前まで刃を覆っていた氷の魔力。あの時確かに角へ叩き込んだはずの一撃が、妙に引っ掛かって離れなかった。
「……まさか」
思わず呟き、異形を観察する。
ーー魔力が残っている?
自分でも信じられない。
普通は現象を起こすだけで魔力は霧散していく。
氷を纏わせて斬った。
その後に炎で叩いた。
それだけで角が吹き飛ぶのか。
聞いた事もない。
だが他に思い当たるものも無かった。
異形は既に体勢を立て直しつつある。砕けた角から血を流しながら。それでも再生はしているのか、傷跡は埋まりつつあるように見える。
長引けばまた元に戻る。
なら確かめてみるしかない。
偶然か。それとも別の理由があるのか。
距離を取りながら剣帯へと手を伸ばす。
双剣が一部分離し、新たな柄と刀身が引き寄せられるように噛み合っていく。魔力を帯びた金属は迷いなく結合し、一振りの幅広い黒剣へと姿を変えた。
「もう一回だ」
地面を蹴る。
異形もまた迎え撃つように突進して来た。
熊腕の振り抜きに合わせ、身を沈める。
頭上を通過した巨腕が大地を砕き、遅れて飛んできた破片が頬を掠めた。そのまま懐へ飛び込むと、今度は炎ではなく青白い魔力を剣に流し込む。
冷気が刀身を走り、白い霧が尾を引き剣閃を刻む。
肩口から胸元に掛けて深い傷が刻まれた。
異形が唸るが、肉を断つ感触は重い。双剣の時とは違い手数は減ったが、より深くまで切り裂かれた傷口からは血が溢れ、白い霜は筋肉の奥にまで染み込んでいる。
これだけでは何も起きない。
短く息を吐き、魔力を切り替える。
青白かった刀身が赤く染まる。
揺らめく熱気が周囲の空気を歪ませた。
「……行くぞ」
吠える異形に向かって再び踏み込む。
振り下ろされる熊腕の更に内側へ飛び込み、先程刻んだ傷痕に向かって炎を纏った幅広剣を叩き込んだ。
――爆ぜる。
轟音と閃光。
肩口から胸元に掛けて爆発が走り、肉片が舞い、血飛沫が吹き上がる。肩の肉が抉れ、骨が露出していた。
異形は大きく仰け反り、今まで聞いた事もない苦悶の咆哮を谷底に響かせる。
暴力的な風が周囲へ吹き荒れる。
暴れるように振るわれた腕が地面を砕き、倒木を薙ぎ払う。頭を滅茶苦茶に振り回し、怒り狂っている。
もう、今までのような余裕は感じられなかった。
レイは目を見開く。
ーー本当に起きやがった。
二度目。偶然じゃない。
氷で刻んだ傷に炎を叩き込む。
理由はわからないが、それで爆発する。
今まで効いているのかさえ分からなかった攻撃が、初めて確かな傷として異形の身体へ刻まれていた。
砕けた角。
抉れた肩。
再生は続いているが、明らかに追い付いていない。
血を撒き散らしながら暴れる巨体を見据え、剣を握り直した。
「そうか……」
砕けた角も抉れた肩も確かな傷になっている。それでも異形は倒れず、全身を走る赤黒い血管は脈打ち続け、血塗れの巨体は怒り狂ったまま谷底を揺らしていた。
「でも、まだだ……!」
氷を纏わせた幅広剣を振るう。
熊腕を掻い潜り脇腹を裂き、離脱と同時に炎へ切り替える。叩き込まれた刃が爆発を起こし、肉片と血飛沫が吹き上がるが、それでも異形は止まらない。隙間隙間に背面の蛇が喰らい付き、木々を薙ぎ払い、地面を抉りながら迫り来る。
氷で刻み、炎で爆ぜさせる。
何度でも、繰り返す。
肩が削げ、腕が裂け、脇腹から血が噴き出しても、異形は苦鳴を上げながら暴れ続けている。
「しぶとすぎんだろ……!」
吐き捨てた直後、違和感が視界を掠めた。
肩の傷はそのまま残っている。猿腕の裂傷も塞がっていない。だが腹部だけは違った。爆発で吹き飛んだ肉が他の部位より早く埋まり始め、再生した肉が赤黒い血管を這わせながら蠢いている。
見間違いではない。
もう一度爆発させても同じだった。
腹部だけが妙に治りが早い。
今まで気付かなかったのは、そこへ深い傷を与えられていなかったからかもしれない。
腹部だけを狙い続ける。
熊腕が振り下ろされる。避ける。猿腕が薙ぐ。潜る。狼頭が喰らい付く。躱す。
そんな事はどうでもいい。何が来ようと関係ない。
氷を纏った幅広剣が肉を裂き、白い霜を傷の奥へ残していく。浅い。まだ足りない。傷口が閉じるより早く刃を叩き込み、捩じ込み、再生しかけた肉ごと引き裂く。
その場から離れる事なく切り刻む。
血が飛び、異形が暴れ、谷底が揺れる。
それでも退かなかった。
剣越しに衝撃が走り身体が傾く。
だが視線だけは逸らさない。
腹部の傷口。裂けた肉の奥。
明らかに、そこだけは再生の流れが違う。
肩や腕の傷がゆっくり塞がっていくのに対し、腹部だけは肉が内側へ集まるように蠢いている。まるで何かを埋め戻そうとしているかのようだった。
「やっぱり、そこだろっ……!」
確信は無いが、他に考えられない。
今までで最も深く。
今までで最も大量に。
氷の魔力を腹部へ刻み込む。
前方に飛び込み思い切り距離を取る。
額からは血が流れ、握る手は痺れていたが、腹部の傷にはまだ白い霜が残っている。
「賭けるぞ……!」
剣が軋む。
刀身が分かれ、柄が伸び、黒い金属が組み替わりながら一本の槍に変わっていく。双剣では届かず、幅広剣でも足りなかった場所へ届かせるための形。握り直した瞬間、重心が変わる。手に伝わる重さが変わる。
炎が走る。
赤い魔力が槍身を包み込み、揺らめく熱気が周囲の景色を歪ませた。
異形が吠える。
レイも地面を蹴る。
熊頭も狼頭も猪頭も視界の端に追いやる。
狙うは腹部。最後の鋼糸に魔力を込め、
異形に向け加速するーー
「らあああああっ!!」
奴の間合いに入る寸前ーー炎槍が手から離れる。
氷を刻み続けた傷口の奥。
肉を貫き。骨を砕き。
再生しようと蠢く肉の更に深くへ投げ穿つ。
次の瞬間、谷底を揺るがす轟音が炸裂した。
爆発は今までとは比較にならなかった。
腹部から噴き上がった炎が巨体を内側から引き裂き、肉と血を降らし異形の身体を燃え上がらせる。苦鳴が谷に反響し、爆風が倒木と土砂を巻き上げて吹き荒れた。
そして爆発で捲れ上がった肉の奥。
首元に続く裂け目の中に、脈打つ結晶が見えた。
分厚い肉に守られていたそれは、心臓とも違う、生き物の臓器とも違う異質な輝きを放っている。
「……あれが」
異形もこちらに気が付いたらしい。
苦鳴を上げながら後退。
そして、逃げ出す。
目に付く死骸へ次々と喰らい付き、骨ごと噛み砕きながら肉を引き裂き、谷底中に散らばる結晶片まで飲み込んでいく。
ドクン。
目に見えて脈動が強くなる。背面まで抉れた腹部が蠢き、全身の肉が盛り上がる。
まるで露出していた結晶を隠そうとするように。
「させるか!」
理解した瞬間には走り出していた。
逃がせば終わる。ここまで削っても、また戻る。
異形も必死だった。
死骸を貪り、結晶を飲み込みながら首元の傷を隠そうと身を捩る。もう先程までの猛攻は無い。ただ生き残るためだけに谷底を駆けている。
だが遅い。もうあの速さは見る影もない。
腰から短剣を抜き放つ。
鋼糸へ魔力を流し、木々や岩へ次々と糸を繋ぎながら加速する。風が耳元を裂き、景色が流れる。その速度の中で見えているのは奴の首元だけだった。
赤黒い結晶。脈打つ核。
あれを砕けば終わる。
異形の頭が振り向く。直後、背面の焼け焦げた蛇が歯を剥き出しにし、噛み付いてくる。振り払うように両腕も振り回し、悪足掻く。
だが遅い。
こちらに向き直り、口を開き襲い掛かるが、
ーーもう間に合わない。
「終わりだ!」
巨体へ投げ刺した短剣の鋼糸を引く。
身体が空を舞い、引き抜いた短剣が閃き、
首元奥深く突き刺さった刃が赤黒い結晶を砕いた。
トクン…
その脈動は、それが最後だった。
頭が力を失う。
全身を走っていた赤黒い血管は急速に色を失い、巨体は糸が切れたように傾き始める。
地鳴りと共に谷底に倒れ込み、土煙が舞う。
血の匂いと焦げた臭いだけが残る。
その中心で動くものは、もう何も無かった。
「……終わった」
短剣を引き抜く。
張り詰めていた力が抜けていく。
ようやく。
本当に決着だった。




