第36話 谷底の戦い
腐臭が鼻を刺す。
谷の底、積み重なる亡骸の上で異形がゆっくりと身を起こしていた。
熊、狼、猪。
三つの頭が別の方向を向きながらもこちらから視線を外すことはなく、低く唸り声を上げる。
吹き飛ばしたはずの右腕も既に形を取り戻している。裂けた肉の奥で骨が伸び、筋肉が絡み合いながら失われた部分を埋めていく光景は、生き物というより肉の塊が無理やり捏ね合わせて形を保っているようだった。
近くで見ると余計に異常だ。
熊を土台にしているのは分かる。だが肩から伸びる左右の腕はまるで別物だった。片方は熊の前脚をそのまま巨大化させたように太く硬質的で、もう片方は猿のようで指も発達している。関節の位置も筋肉の付き方も滅茶苦茶で、何体もの魔物を力任せに縫い合わせたような違和感が全身から滲み出ている。
全身に見える赤黒い血管が脈打つ。
ドクンッ
谷底の結晶群まで呼応するように淡く明滅する。
異形の三つの頭がこちらを向き、
六つの眼が揃ってレイを捉えていた。
剣を構え直す。
死骸の山を挟んで数十歩。互いに動けば一瞬で埋まる距離で先に動いたのは異形だった。
低い姿勢の巨体が更に沈み、爪が地面に跡を残す。
嫌な予感が背筋を走った次の瞬間。
ーー死骸の山が爆ぜる。
腐肉が飛び散り、骨が舞う。
異形の巨体が地面を抉りながら突進して来る。
「ッ――!」
見上げるほどの巨体が、二層で遭遇した狼型の魔物にも劣らない速度で大地を削り取り、突っ込んで来る。
大きく開いた顎だけが妙にゆっくり見えた。
鋭く並んだ牙。肉の隙間から覗く赤黒い舌。
視界を埋める巨体を前に反射的に身体が動く。
踏み込んだ足で白骨を砕きながら、横へ跳び退き、降り掛かる亡骸を避けながら体勢を立て直す。
直後。
轟音が鳴り響き、直前までいた場所の背後で大木が音を立てて倒れる。
折れた?いや違う、噛み砕かれた。
実際、幹の半ばから食い千切られた跡が見える。
地面が震え、砕けた木片がこちらまで飛んできた。
冷たい汗が背中を流れ、想像する。
あれに喰われていたら終わっていた。
異形は噛み千切った木を吐き捨て、砕けた木片が周辺に降り注いだ。
異形がゆっくりと首を回し、逃がす気は無いとでも言うように、三つの頭が再びこちらを向く。
喉の奥が乾くが、視線だけは外さない。
踏み込みは異常に速い。だが噛みついた後、一瞬だけ身体が流れていたようにも見えた。
気のせいかもしれないがーー
たった一度、避けただけで分かっている事はまだ何もない。だが、戦わなければ始まらない。
白骨を踏み砕きながら僅かに位置を変える。
狼の頭が低く唸った。
そして異形が再び、大地に爪跡を刻む。
今度は突進でなく、熊腕を空気を切り裂きつつ真横から振り抜いて来る。
咄嗟に身を沈めると頭上を通過した巨腕が木々をまとめて薙ぎ払う。枝葉が舞い、幹が軋みながら倒れていく。
避けた、と。
そう思った直後には、逆側から長い猿腕が迫る。
「っ!」
反射的に地面を蹴り後方へと飛び退くと、さっきまでいた場所に五本の指が突き刺さる。土が抉れ、掘り起こされた白骨が砕け散り、崩れた亡骸の下から赤黒い結晶が覗いた。
熊腕の直後に猿腕。左右で間合いが違う。
着地と同時に後退するが、異形は止まらない。
熊腕が薙ぎ払い、猿腕が追う。その度に木が折れ、山が崩れ、谷の景色が少しずつ変わっていく。転がり、跳び、倒木を踏み越えながら回避を続ける。
判断が遅れれば終わる綱渡りのような状態だが、見えてくるものもある。
突進、噛みつき、薙ぎ払い、と全ての行動の後にほんの僅かだが身体が流れる。踏み込みの勢いに巨体が追いついていない。
まだ油断は出来ないが、隙が見えてきた。
崩れた倒木を蹴り上げるように飛び越え、その勢いで短剣を抜く。
投げた短剣が木に突き刺さる。構わず迫る猿腕から木を足場に躱すが、伸びる指先が髪を掠めていく。
やがて開けた場所に着地し、後方に向けもう一本、短剣を放つ。繋がれた鋼糸はまだ緩んでいる。
追いついた異形が吠え、熊腕が振り上げられる。
もうここからは逃げない。
異形に向かって踏み込むと、振り下ろされる巨腕を紙一重で躱し、懐に潜り込んだ。
剣に魔力を流すと青白い光が刃を覆う。
振り抜く氷刃。
熊腕に白い線が走り、肉が裂け血飛沫が舞う。
傷口が瞬く間に凍り付き、周辺に白い霜が広がる。
血が肌を濡らす。
それでも構わず剣を振るう。
一撃。
また一撃。
白く凍る傷が少しずつ増えた頃、次第に異形が苛立つような唸り声を上げ始め、動きは更に激しさを増していく。
迫る猿腕を避け、振り向き様に鼻先を掠める爪から飛び退きつつ、剣を振るい距離を少し離す。
傷口を見ると、白く凍ってはいる。
だが――
異形の動きが変わる様子はない。
踏み込み、腕の速度にも衰えはない。
何一つ鈍った様子が無かった。
巨体が地面を蹴り、身体ごと覆い被さるように腕を振り下ろしてくる。思わず横に避けた瞬間、足元の土が弾け飛んだ。
衝撃で飛ばされた身体が揺れる。
まずい。
そう思った時には土煙の向こうから猿腕が迫っていた。身を捻るも、伸びた爪が頬を掠め皮膚を切り裂く。
熱を帯びた痛みを無視して着地する。
攻撃の手は止まらない。
嵐のような暴力の中へ踏み込み、剣を振るう。
脇腹を撫で斬りにし、返す刃で脚を削ぐ。
ドス黒い硬質な毛に白い霜が広がる。
熊腕が倒木ごと地面を抉り飛ばし、狼の顎が木片ごと噛み砕く。暴れる度に木が倒れ、岩が砕け、周囲の景色が少しずつ変わっていった。
その間を縫うように駆ける。
肩。
猿腕。
腹部。
剣が肉を裂く度に白い傷跡が増えていく。
だが一向に勢いは落ちない。
踏み込みは重く。
振るわれる腕は速い。
むしろ傷が増えるほど荒々しさを増しているようにさえ見えた。熊腕を躱し反撃へ移ろうとした瞬間、猿腕が割り込んで来る。
寸前。剣で逸らすが、重い一撃に骨まで痺れる。
攻撃の隙間に次の攻撃が入り込んで来る。
傷は増えている。凍ってもいる。
それでも異形は止まらない。
レイは後退しながら剣を構え直した。
効いていない訳ではない。
だが――
まだ足りなかった。




