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鐘は鳴り止まない〜ただ一人、君の歌だけが綺麗だった〜  作者: 秘色ひすい
鐘の鳴る街

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第35話 異形の咆哮

 身構えたまま誰も動けなかった。


 谷の最奥では異形の巨体が身を起こしたまま、こちらを見ている。歪に捩れ曲がった角。熊、狼、猪の三つ頭。無理やり魔物を繋ぎ合わせたような身体が、ゆっくりと呼吸を繰り返していた。


 視線が合っている。


 そう感じた。


 だが向こうは動かない。咆哮もせず、動きを見せる気配もない。谷のあちこちに潜む魔物達も同じようにこちらを見ている。ただ、それだけだった。


 谷底では赤黒い欠片が脈打つように明滅していた。死骸の隙間や砕けた骨の陰にも欠片は埋もれ、その度に流れ出した微かな魔力が谷の最奥、異形の巨体へと吸い寄せられているように感じた。それでも誰も動かない。


 風がピタリと吹き止む。誰も口を開かず、谷底に転がる骨が僅かに崩れる音だけが妙に大きく聞こえている。


 二層で感じた圧迫感、未帰還組を追い立てていた異常、魔物の減少、谷を埋め尽くす死骸。やはりその全てが一本の線で繋がっていた。討伐は可能か否か。今助けを呼びに戻ったとして、次はどんな変化をしているのかも分からない。


 もし逃げるなら今かーー


 そんなことを考えていた矢先だった。


 異形の巨体が僅かに動く。猿のように変化した右腕がゆっくりと持ち上がり、警戒が走る。だが、その腕はこちらに伸びている訳ではなかった。


 谷壁。巨体の横に聳える岩壁へ向かっている。


「……何だ?」トマスが低く呟く。


 次の瞬間。


 轟音と共に巨腕が岩壁に叩き込まれる。岩盤が砕け、土砂が崩れ、巨大な岩塊が根元から引き剥がされた。その衝撃だけで谷全体が震え、足元の小石が跳ねる。


 その大きさは人など比較にならない。小屋一つ分と言っても大袈裟ではなく、異形はそれを片腕で掴み上げている。


 隣で小さく息を呑む音が聞こえるが、振り向かなくても分かる。エアルも同じものを見ていた。


「おい、おい……」ジェイミーの声が引き攣る。


 冗談だろ、そう言いたげな顔だった。

 だが冗談では終わらない。


 複数の頭が一斉にこちらを向く。熊、狼、猪。異なる瞳が重なった瞬間、背筋を冷たいものが走った。


 狙われている。


「伏せろッ!!」


 叫ぶと同時に剣を地面に突き立てる。


 胸の奥から何かが一気に引き抜かれる感覚と共に冷気が奔った。足元から霜が走り、白い筋が地面を這うように前方へ広がっていく。一行と谷を隔てる位置で氷が盛り上がり、白い氷壁が一気にせり上がった。


 ーー形成が終わるより早い!


 異形が岩塊を投げ放ち、空気が裂ける音。

 轟音を引き連れながら飛来する巨岩は、まるで崩落そのものだった。


 直後激突し、世界が揺れた。


 氷壁全体に無数の亀裂が走り、砕け、弾ける。巨岩もまた粉砕され、無数の石礫となって周囲へ撒き散らされた。木がへし折れ、地面が抉れる。吹き荒れる衝撃風が枝葉を巻き上げながら視界が土煙で覆い尽くされていく。


 耳鳴りが残る身体を起こしながら周囲を確認する。


「無事か!」


「な、なんとか!」「大丈夫です!」


 返事が返る。


 既にレイの視線は谷の最奥へと向いていた。土煙の向こうで異形は止まっていない。肥大化した右腕が再び動き、崩れた岩壁に伸びている。


 次を投げるつもりだ。


 ーー止める。


 そう判断した瞬間には身体が動いていた。

 砕け散った氷壁の残骸に魔力を流し込む。


 地面に散らばった氷片が震え、白い冷気を纏いながら一ヶ所に引き寄せられていく。大小様々な破片は絡み合いながら形を変え、長く伸びた先端を鋭く尖らせて一本の巨大な氷槍となった。


 狙う場所は決まっている。

 頑強そうな胴や頭ではない。


 再び岩壁へと伸びる異形化した右腕を見据え、

 踏み込むと同時に氷槍を放つ。


 白い軌跡が谷を裂く。


 異形も気付いたらしい。熊の頭がこちらを向き、狼が牙を剥き、猪の鼻先が持ち上がる。だが遅い。


 氷槍は一直線に巨腕に突き刺さり、轟音が響く。


 肉が裂け、骨が砕ける。巨大な腕を貫通した氷槍が内部で炸裂し、赤黒い血飛沫と肉片を周囲へ撒き散らす。岩塊を掴みかけていた腕が弾け飛び、その衝撃だけで谷全体が震えていた。


 異形の咆哮が木霊する。


 腹の底まで響く低い咆哮が死骸の山を震わせ、谷底に散らばる骨を跳ね上げる。その声に反応するように谷中の変異体も一斉に動き始めた。


 二つ首の狼が死骸の上を駆け、四本腕の猿が木に飛び移り、肥大化した猪が地面を掻きながら濁った息を吐き出す。元からこちらを見ていた他の魔物達も、今や隠しようのない敵意を向けながら谷の斜面を駆け上がり始めていた。


「来ます!」エアルの声が飛ぶ。


 剣が抜かれ、金属音が重なる。

 エルティナが腰の剣に手を掛け、グロウは槍を握り直していた。


 だが、レイの意識は最奥で腕を吹き飛ばされた異形の行動に向いていた。


 その周囲へ転がる死骸に複数の頭が食らい付く。骨が砕け、肉が引き裂かれ、構わず飲み込まれていく。赤黒い光はその度に脈打ち、谷底の結晶群までもが呼応するように明滅していた。


 ドクン。


 ドクンッ。


 吹き飛んだ断面が蠢く。裂けた肉が盛り上がり、伸びた肉同士が絡み合いながら失われた腕を少しずつ形作っていた。


「……マジかよ」ジェイミーの声が掠れる。

「ヤバいな……」隣のトマスが呻く。


 誰も否定出来なかった。

 見間違いなんかじゃない。


 回復している。ーーそれも、物凄い速さで。


 腕が再生するだけではない。死骸を喰らう度に身体そのものが膨れ上がっているようにさえ見えた。


 嫌な予感が強まる。


 削り合いになったら勝てない。

 長引けば長引くほど不利になる。

 時間を与えればどうなるか考えるまでもなかった。


 斜面を駆け上がる変異体が視界の端へ映る。


 二つ首の狼。四本腕の猿。

 その後ろにも続く影。


 このまま待てば巨体と配下に囲まれる。

 最悪の形だった。


 隣を見るとエアルもまた、再生を続ける異形と迫り来る変異体を見ている。


「エアル」


 二人の目が合う。


「任せていいか?」


 迷わず頷く彼女は、既に杖を握り直していた。

 レイは後ろに視線を向ける。


 こちらを向く魔物達を前に、エルティナ達も迎撃の構えを取っている。


「エルティナ」

「あぁ」


 短く笑い、隣ではグロウも槍を構え直す。


「オレは奥のアイツを止める」


 谷の最奥を顎で示す。


「こっちは任せた」


 一瞬の沈黙。

 そしてエルティナが鼻を鳴らす。


「最初からそのつもりだよ」


 二つ首の狼が斜面を駆け上がり、四本腕の猿が枝を飛ぶ。既に距離は近く、その横でエアルが静かに一歩前へ出た。


 レイは腰の短剣を抜く。


 真っ直ぐ飛んだ刃が斜面近くの大木に突き刺さり、鋼糸が張る。


 次の瞬間には身体が引かれていた。

 谷を吹き抜ける風が頬を叩き、視界の端を死骸の山や変異体達が流れていく。ついでに見える敵に向かって剣を振り、水の刃を撃ち込む。


 背後では既に戦いが始まっていた。狼の唸り声、剣戟、土を蹴る音。そして低く唸るような風が谷の斜面を駆け上がり、魔物達へと叩き付けられる。


 エアルの魔法の音。


 振り返りはしない。狙うのはただ一つ。

 死骸を喰らいながら再生を続けるあの巨体へ。


 刺さった短剣が近付いてくる。枝が軋み、足を掛けた幹の表面を靴底が削った。回収し、その勢いのまま短剣を放る。刃は更に奥の大木に突き刺さり手繰ると、張られた鋼糸が身体を前方へ引き寄せた。


 枝から倒木、更に岩場を蹴り、死骸の山を越えながら距離を詰めていく。


 魔物達は背後から追って来る。

 少しばかりは引き付ける事が出来たようだ。


 未だ気配は近いが、足を止めなければいずれ距離は開く。周囲では変異した魔物達が死骸を漁っている姿も見える。


 死骸の山を越えると、腐臭が鼻を突いた。


 白骨や引き裂かれた毛皮、潰れた頭蓋や砕けた牙が幾重にも積み重なり、その隙間では赤黒い結晶が脈打つように光っている。周囲を流れる微かな魔力もまた、その中心に向かって集まり続けていく。


 近付くほど嫌な感覚が強くなる。

 まるで森そのものが腐り始めているようだった。


 近くまで辿り着き、木の陰に身を隠す。

 異形の腕は未だ再生が続いていた。


 吹き飛んだ断面は既に半分以上が繋がっている。盛り上がった肉と伸びる骨が絡み合うように失われた形を歪に取り戻していた。その速度は想像していたより遥かに速い。


 再生を止める方法があるのかは分からない。だが近付かなければ何も分からないし、距離を取ったまま削れる相手にも見えなかった。


 突如、熊と狼、猪の視線が同時にこちらへ向く。


 それまで谷全体を見渡していた視線が、一つ残らず自分に集まる。嫌な圧力が肌を撫で、異形の背中が大きく膨らんだ。


 咄嗟に糸を引く。

 身体が横へ流れ、木の側面に着地。


 直後に轟音。


 先程までいた空間を黒い影が薙ぎ払う。

 大木がへし折れ、枝葉が弾け飛んだ。


 蛇だった。


 背中から伸びた長大な蛇の胴体が、一本の鞭のように振り抜かれている。折れた木々が崩れ落ち乾いた音を響かせた。


 あれに当たれば終わる。


 木を踏み台にさらに加速する。

 異形まで、もう残り僅かだった。


 積み重なった死骸の上で、巨体がゆっくりと立ち上がる。再生しつつある腕、背中で蠢く蛇、幾つもの頭、全身から覗かせる赤黒い結晶。今まで谷の奥にいたせいで分からなかったが、近付いて初めてその異常な大きさを実感する。


 想像していたより遥かに大きい。見上げるほどの巨体が死骸の山を踏み潰しながら身を起こす。ただそれだけで周囲の骨が砕け散り、谷底が僅かに震え、土煙が巻き起こっていた。


 やがて風が止まると、辺りには腐臭だけが残る。


 レイは剣を構えた。

 異形もまた、ゆっくりと体勢を低くした。


 互いの距離は、もう遠くない。

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