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鐘は鳴り止まない〜ただ一人、君の歌だけが綺麗だった〜  作者: 秘色ひすい
鐘の鳴る街

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第31話 夜明けへの帰路

「────♪」


 歌声は途切れない。


 静かな旋律が夜の森に溶け込み、その中心だけが不自然なほど凪いでいた。


 狼が飛ぶ。

 土が盛り上がる。

 足を取られた身体の横をレイの剣が走った。


 血飛沫が夜に散り、倒れた影を飛び越えて後退する。

 未帰還組は既にかなり先へ進んでいた。


 肩を貸された者。

 背負われた者。

 傷口を押さえながら走る者。

 誰もが限界に近い。


 エアルも距離を保ちながら後ろに下がっている。


 守るための撤退。

 戦うための後退ではない。


 だが魔物達は止まらなかった。

 奥で木々が揺れる。


 狼が現れる。

 猿が飛ぶ。

 猪が藪を割る。


 一体倒せば別の影が現れ、その向こうでは更に枝葉が揺れていた。終わりが見えないそれは、まるで森そのものが魔物を吐き出しているようだった。


 ――このままでは距離が開かない。


 短く息を吐き、


 ここで終わらせるーー。


 剣を握る手を逆手にし力を込める。

 周囲に視線を巡らせ、地面に突き刺す。


 魔物の血。

 溶けた水。

 周辺の氷。


 凍り付いた猪。

 地面に散った霜。

 戦い続けた痕跡そのものに、冷気が広がる。


 足元に白い煌めきが走る。

 地面を伝い、落ち葉が白く染まり、木の根を這う。


 ーー森が凍る。


 無数の氷槍が地面から突き出し、狼の死骸を飲み込みながら木々の間を埋め尽くしていく。


 藪の奥まで白く染まる。

 更に別の場所では氷棘が伸びた。


 絡み合うように。

 重なるように。


 枝の隙間を塞ぎ、獣道を埋め、森そのものを巨大な氷の檻へと変えていく。


 狼が吠えた。

 飛び込んだ先で足を取られる。


 猿が枝を伝い逃げようとする。

 だが伸びた氷は幹まで覆い始めていた。


 猪が突進する。

 砕けた氷片が月明かりを反射しながら舞い散る。


 それでも白は止まらない。


 割れた場所からは更に霜が広がり、凍結は周囲を侵食するように伸びていく。


 魔力を流し込む。氷は応える。

 だがどこまでも伸ばせる訳ではない。


 白く染まる森を見ながら、限界を理解していた。

 ただ、それでも十分だった。


「――行くか」そのまま踵を返す。


 後ろは見ないし、見る必要が無かった。

 歌声を追うように森を走る。


 後方では時折氷の砕ける音が響いていた。猪がぶつかったのか、狼が暴れているのかまでは分からない。


 だが追撃の勢いだけは確実に鈍っていた。

 それでも森の奥は静かにならない。


 木々が揺れ、また別の場所でも揺れる。

 やはり巨大な何かが動いているのだろう。


 圧力そのものは消えていない。まだ奥にいるはずなのに、こちらに届かなくなっている――そんな奇妙な感覚だけが胸の奥に残っていた。


 二層が近い。周囲の空気が少しずつ変わり始める。


 木々は今も揺れていたが、先程までのように一本の揺れが奥へ奥へと伝わり、森全体が波打つような異様さはもう無かった。


 代わりに目立ち始めたのは沈黙だった。


 木々の隙間には狼の目が光り、枝の上では猿が様子を窺い、藪の奥には猪の影も見える。


 だが先程までのように飛び出して来る事は無い。

 時折距離を測り損ねた個体だけが姿を現し、その度に剣閃が走る。


 追っては来るが、踏み込むには遠い。

 そんな距離だった。


 歌は続く。


 未帰還組も黙ったまま歩き続けていた。


 背負われた重傷者の身体は小さく揺れ、血に濡れた外套の裾が枝に擦れる。誰も無事ではない。それでも歩みだけは止まらなかった。


 立ち止まれば追い付かれる。

 そんな緊張だけがまだ残っていた。


 やがて一層へ入る頃には魔物の姿もほとんど見えなくなり、張り詰めていた空気にも僅かな余裕が戻り始める。


 そして。小さく静かな歌声が止まる。


 長く続いていた旋律が消えた途端、足音や荒い息遣い、衣擦れの音、誰かを支える鎧の軋みが一気に耳へ戻ってきた。


 今まで歌の向こう側へと押しやられていた現実が帰ってきたようにさえ感じる。


 エアルが小さく息を吐く。

 肩から僅かに力が抜けた。


「もう……大丈夫、そうですね……」


 疲労を隠し切れない声だった。

 誰もすぐには口を開けない。

 ただ森を踏み締める音だけが続く。


「……僕達だけなんだよな」


 前を歩いていた声がぽつりと落ちる。


「助かったのは」俯いたまま言葉が続く。


「ミレナも」喉が詰まる。


「エルティナさんも助けてくれたのに」

「……アタシの事はいいんだよ」


 赤髪の女性が前を向いたまま答えた。


「それでも、僕だけじゃミレナを庇いきれませんでした」

「それを言ったら、本来は怪我をしたアタシが残るべきだったんだよ。……銀級が聞いて呆れる」


 自嘲気味の笑いが漏れる。

 だが誰も続けられない。


 失った仲間の顔が、それぞれの脳裏に浮かんでいた。

 そんな沈黙の中でエアルが口を開く。


「ーー今は帰りましょう」柔らかな声だった。


「考えるのは、そのあと」小さく笑う。


「街には暖かいベッドがあって――」


 一度だけ言葉を探すように空を見上げる。


「――美味しいご飯もあります」


 その言葉に小さな笑い声が漏れた。

 本当に僅かな笑いだった。


 それでも十分だった。


「だから……今は、帰りましょう」


 誰も答えない。

 それでも先程までよりは足取りが少し軽くなっていた。


 ◇


 それからどれくらい歩いただろう。


 森の空気は少しずつ変わり始めていた。夜露を含んでいた葉は淡く光を拾い、黒く沈んでいた木々の輪郭にも僅かずつ色が戻っていく。それでも誰も大きな声は出さない。ただ歩く。生きて帰るためだけに。


 時折、遠くで枝葉の揺れる音が聞こえる。

 魔物だろうが、近付いては来ない。


 二層で見せていた様子見の距離を保ったまま気配だけを残し、やがて森の奥へ消えていく。


 追跡は終わった、と断言は出来ない。

 それでも少なくとも、もうあの数で押し寄せて来る気配は無かった。


 レイも剣を納めて警戒を続けている。

 それでも振り返る回数は少しずつ減っていた。


 何度か森の奥――三層の方角を振り返るが、あの圧迫感はもう感じない。


 遠ざかったのか、それとも届かなくなったのか。そこまでは分からない。ただ嫌な感覚だけは胸の奥に小さな棘のように残っていた。


 前を歩いていた人影がふらつく。

 慌てて隣が支える。


 背負われた者も、肩を借りている者も、皆が疲労と怪我を抱えたまま歩き続けていた。


 やがて。


「……ん」 小さな声が聞こえた。


 背負われていた女性の眉が僅かに動き、閉じられていた瞼がゆっくりと開く。


「ミレナ!」声を上げたのは若い男だった。


 女性はぼんやりと周囲を見回した。薄明るくなり始めた森と背負われている感覚を確かめるように視線を巡らせるが、まだ状況を飲み込めていないらしい。


「……グロウ?」

「大丈夫か!?」


 思わず裏返った声に、女性は目を瞬かせる。


「此処……ッ」


 掠れた声だった。顔色も悪く、呼吸も浅い。

 それでも意識はある。


 その事実だけで十分だった。


 グロウと呼ばれた青年は何度も頷く。助かった、良かった、そんな言葉はいくらでも浮かぶはずなのに喉の奥で絡まり、結局は俯くだけだった。


 その様子を見ていた赤髪の女性が小さく鼻を鳴らす。


「泣くなよ、男だろ?」


 どこか震えているような軽口。声だけではなく、吐く息も、前を向いたままの横顔も同じだった。


「……そんなんじゃねぇよ」

「……そうか」


 短いやり取りだった。


 それでも張り詰めていた空気は少しだけ和らぐ。失ったものは戻らない。それでも生き残った者が確かにここにいる。その事実だけは全員が感じていた。


 木々の隙間は更に明るくなっていく。

 夜が終わろうとしていた、その時。


 遠くで鐘が鳴る。


  ――コォォォン……


  低く長い音だった。


 街から届く朝の鐘は森の中にゆっくりと広がり、静まり始めていた木々の間を抜けていく。


 誰も言葉を発しない。

 自然と足が止まった。


 鐘は二度、三度と森に響いていく。


 聞き慣れた音だった。

 毎日聞いている。

 いつもなら気にも留めない。

 だが今だけは違った。


 ようやく胸の奥に実感が落ちてくる。

 生きて帰ってきたのだと。


 エアルは静かに空を見上げた。木々の隙間から差し込む光は柔らかく、長い夜の終わりを告げているようだった。


 鐘の余韻が消える。

 誰からともなく再び歩き出した。


 その少し後ろ。

 最後尾を歩いていたレイがようやく前へ戻ってくる。


「もう大丈夫そうだね」エアルが小さく言う。

「あぁ」


 短い返事だった。

 それでも視線はまだ森へ向いている。


「そっちこそ疲れてるだろ」

「……ちょっとだけね」苦笑が漏れる。


 長い間歌い続けていたのだ。

 平気なはずが無い。


「キミも」

「オレは平気だって」

「平気じゃない人ほどそう言うんですー」


 少しだけ身を乗り出して覗き込む。

 返事代わりに肩が僅かに竦み、それを見て笑う。

 隣合う二人は何も言わないまま歩き続ける。


 ◇


 森を抜けた頃には、空はすっかり夜明けの色に変わり始めていた。


 背後に広がる森はまだ薄暗い。あの圧迫感はもう感じないし、魔物の姿も見えない。


 それでも誰も警戒を解こうとはしなかった。

 長く張り詰めていた緊張は、そう簡単には消えてくれない。


 やがて街道が見える。


 見慣れた柵の向こうには踏み固められた土の道が続き、その先には街の外壁まで見えていた。


 誰かが小さく息を吐く。


「……戻って来れた」


 その呟きに答える者はいない。


 門番がこちらに気が付く。

 最初は普通の帰還者を見る顔だった。

 だが人数を数え、負傷者を見て、その表情が変わった。


「おい!」慌てて駆け寄って来る衛兵。

「何があった!?」誰もすぐには答えられなかった。


 背負われた女性の血に濡れた装備と青白い顔を見た瞬間、門番の顔色も変わる。


「医療班を呼べ!」


 朝の空気へ怒鳴り声が響いた。


「ギルドにも連絡だ!」


 慌ただしく人が動き始める。


 街の中では既に朝の準備が始まっていた。パンを焼く匂いが漂い、荷車の軋む音や店を開ける音が聞こえてくる。いつもと変わらない朝だった。


 だからこそ違和感が大きい。


 ほんの少し前まで死と隣り合わせだった森が、もう随分遠い出来事のように感じられた。


 街に近付くにつれ人影も増えていく。朝の支度をしていた商人が手を止め、衛兵が振り返り、依頼に向かう途中だった冒険者達も足を止めていた。


「無事だったのか!?」

「他の連中は!?」「何があった!?」


 次々と声が飛ぶが、誰も答えない。

 歩みだけが止まり、視線が落ちる。


 そして。


「……死んだ」小さな声だった。


 誰が言ったのかも分からない。

 だが、それで十分だった。

 騒がしかった空気が静まり、門前に沈黙が落ちる。


 生きて戻って来た者は確かにいる。

 だが足りない人数が、壊れた装備が。何より傷跡が、その代償を雄弁に語っていた。


 やがて衛兵が動き出す。


「道を開けろ!」

「負傷者がいる!」


 担架が運ばれ、水桶を抱えた者が走り、負傷者を受け取る者や状況を聞き取る者が慌ただしく行き交う。その中には既にギルドへ向かって駆け出している姿もあった。


 止まっていた街の日常が一気に動き始めていた。

 生き残った者達は、その流れに押されるように街の中へと足を進み、ある場所に辿り着いた。


 扉が開く。


 見慣れた木の匂いと昨夜の酒が残る空気が流れ出る。依頼札の並ぶ掲示板や朝の依頼へ向かう冒険者達――いつもと変わらないはずの光景だった。


 だが中にいた者達はすぐ異変に気付く。


 血と泥に塗れた装備と疲労の滲む顔。

 ーーそして足りない人数。


 ざわめきが広がる。


「おい……帰って来たのか」

「待て、人数が……」


 言葉は途中で止まっていた。


 門からの連絡も届いていたのだろう。奥から職員達が駆け寄り、重傷者の確認と誘導が始まる。


「重傷者はこちらです!」

「話は後です、まず治療を!」


 ミレナはすぐ担架へ移され、エルティナ達も半ば強引に治療へ回された。


「森の奥で――」

「報告は後ほど聞きます。まず治療です」


 有無を言わせない対応だった。

 治療が遅れると何が起こるかわからない。

 職員達の表情が、それを物語っている。


 やがて神官達も到着し、負傷者達のいる医療室に運ばれていった。


 残されたのはレイとエアルだけだった。

 二人に大きな怪我は無いが疲労は隠せず、壁際の椅子に腰を下ろしている。


 ーーようやく終わった。

 そんな感覚はあったが、周囲はまだこれからだ。


 医療室に出入りする職員や神官達の姿は途切れず、受付達も聞き取りを続けている。森で起きた出来事は、少しずつ報告として形になり始めていた。


 どれほど時間が経っただろう。


 窓の外では朝日が街を照らし始め、ギルドにも徐々に日常の賑わいが戻りつつあった。


「眠いね……」


 椅子の上で伸びをしたエアルが机に頬を乗せる。


「寝てろよ」

「ここで寝たら怒られるよー」


 長時間歌い、魔法を使い続けていたのだ。眠そうな声にも説得力があった。


 レイは立ち上がり、壁に背を預ける。


 身体は重い。


 それでも休息より先に思い浮かぶのは森の奥で見た光景だった。魔物が集まった理由も、あの圧迫感の正体も分からない。ただ、分からないまま放置してはいけない気だけが胸の奥に残っている。


 その時だった。


「レイさん、エアルさん」


 職員が近付いて来る。


「ギルド長がお呼びです」


 予想していた言葉だった。

 他の報告も揃ったらしい。


 二人は立ち上がり、職員の後を追いギルド奥に向かう。

 ベイルの部屋には報告書や聞き取り記録、地図が所狭しと広げられていた。


「来たか。座ってくれ」


 疲れた顔だったが、目だけは冴えている。

 一通り資料に目を通したのだろう。小さく息を吐き、紙を置く。


「魔物が集まっていたそうだな。追われていたのは彼らだけ。そして魔法が使えなくなった、とも」


 視線がこちらへ向く。


「お前はどう思う?」


 少し考えても、分からない事ばかりだった。

 それでも一つだけ確信に近いものがある。


「……奥に見えたアイツが原因だと思う」

「様々な特徴を持つ魔物か。根拠は?」

「無い」


 即答だった。


「見たのも一瞬だ。でも、見えてからもっとおかしくなった気がする」


 聞いた話でも、アイツの周りに魔物が集まって。戦闘をするうちに魔法も使えなくなり、未帰還組は追われたらしい。


 見ても聞いても証拠は無い。

 ただ、あれは放っておいてはいけない気がした。


 静かな沈黙が落ちる。

 ベイルは報告書に視線を落とす。


 未帰還組の証言。

 門番の報告。

 周辺情報。


 断片ばかりだが、森で異変が起きている事だけは共通している。


「本来なら経過観察で終わらせるつもりだった」


 領主、教会に報告。

 冒険者への注意喚起。

 異変段階のギルドなら普通はそれで十分。

 防衛配備などは領主や国の仕事だ。


 ベイルは窓の外を見た。

 朝日が街を照らしている。

 こちらから窺える森の様子は静かなまま。


「あの水辺の件を思い出すな」


 苦笑が漏れる。


「あの時も根拠はなかったな」

「……結果的には当たってたけどな」

「信じてみるとしよう」


 短い返答の後、ベイルは立ち上がった。

 迷い無く扉を開き、


「誰でもいい!ローエンを叩き起こしてくれ!!」

「受付には、ヴァンが戻り次第こちらへ呼ぶように」

「領主と教会には直接説明するので、連絡を頼む。後は冒険者達には緊急招集を。そちらの準備も」


 空気が変わった。


 一気に廊下を走る足音と飛び交う指示が重なり始め、落ち着きつつあったギルドは再び慌ただしさを取り戻していく。


「ありがとうございます」エアルが頭を下げる。


「礼を言われる事ではありません。これが私の仕事です」


 そう言って二人を見る。


「なので今は休息を。明日からは忙しくなる」


 窓の外では朝日が街を照らし、人々が動き始めている。

 それはいつもと変わらない朝だった。


 朝を迎えた今でも、遠くに見えるあの森だけは、まだ夜を引きずっているように見えた。

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