第30話 襲い掛かる牙
赤髪の女がこちらに気が付いた。
焚火の明かりが届くか届かないかという距離を、鎧の割れた身体で必死に走っている。その後ろでは肩を貸された女性が半ば引き摺られるように進み、若い男は何度も足を縺れさせながらも離れまいとしていた。更にその後方にも二つの人影が続いている。
追われている。
それもかなり近い。
レイは立ち上がった。
「エアル」
呼ぶと同時に剣を抜き放つ。
焚火の向こうでは既に杖が持ち上がっていた。
「後は頼んだ」
「うん」
短い返事だけが返る。
地面を蹴る。
夜露を含んだ落ち葉が後ろに散り、暗闇へ飛び込む。背後では焚火の火が揺れ、その明かりの中で杖を構え直しているのが見えた。
赤髪の女もこちらに気付いたらしい。
何かを叫ぼうとしている。
だが、その声より先に背後の木々が大きく揺れた。
枝が折れる音。
獣臭い息。
落ち葉を掻き分ける音が重なった直後、黒い影が木々の隙間から飛び出してくる。
狼型。
そう見えたのは一瞬だった。
肩口だけ異様に盛り上がり、前脚は地面に着地しただけで土を抉るほど太い。唇の隙間から覗く牙も揃っておらず、無理やり押し広げられたように口元から飛び出していた。
「――来るぞ!」
掠れた警告。
飛び掛かる先は赤髪の女だった。
踏み込みを強める。
夜気を裂いた刃が横から身体を切り裂き、狼型は悲鳴を上げる暇もなく地面に転がった。血と泥を撒き散らしながら木の根元へ激突する。
だが、その死骸が止まり切る前に今度は左側の藪が膨らんだ。
低い唸り。
木の根を砕きながら現れた猪へ視線を向けた瞬間、まず目に入ったのは牙だった。本来なら口元から少し覗く程度のものが顔半分まで伸びていて、片方は槍のように真っ直ぐ、もう片方は捻れながら伸びているせいで、走る度に木肌を削り取っている。
突進。
避ける、ではなく、前へ出る。
身体を捻りながら首元に刃を通すと、猪は勢いを失わないまま横を抜け、そのまま大木へ激突した。幹が大きく揺れ、砕けた樹皮が夜に散る。
その振動に反応するように頭上では枝が鳴り、続けて別方向の葉も揺れた。月明かりを遮る影は一つではなく、視線を向ける度に別の木に移っている。
猿型だ。
葉の隙間を走る影は一つではなく、視界の端で別の枝も揺れる。猿型だ。二体、三体では利かない。
更に奥にもいる。
その事に未帰還組も気付いたらしい。
肩を貸していた若い男が重傷者を支え直しながら振り返る。
「まだいるぞ!!」
「止まるな!」
こちらの叫び返した声が森へ反響する。
赤髪の女は走りながらも何度か後ろを確認していた。片腕しか使えないにも関わらず腰の剣に手が伸びる。戦えるなら戦うつもりなのだろう。
だが抜かない。抜けば走れなくなる。
そんな余裕が無い事も理解している。
「あと少しだ!」外套の男が叫ぶ。
焚火が見えていた。
木々の向こうに揺れる火の明かり。
その前に立つ女の子。
杖を握る姿は小さくしか見えないが、その周囲では既に風が集まり始めていた。草が揺れ、焚火の火が不自然に流れ、空気の流れそのものが少しずつ変わっていく。
迎撃準備は終わっている。
それでもレイの眉は僅かに寄る。
多い。いや、それだけじゃない。
頭上を走る猿。
地面を駆ける狼。
藪を押し潰しながら進む猪。
本来なら縄張りも違う。
活動時間も違う。
獲物も違う。
同じ場所に集まる理由が無い。
なのに全てが同じ方向へと流れている。
狼の死骸を踏み越え、血溜まりを気にも留めず、その後ろから別の狼が飛び出してくる様子を見た瞬間、違和感は確信に変わり始めていた。
群れてるんじゃなくて、追っている。
何かに操られている訳でもない。
ただ異様な執着だけで、目の前の人間に向かって流れ続けている、そんな感じがした。
その時だった。
「逃げるぞ!!」
若い男の声が夜の森に響く。
ようやく焚火近くまで辿り着いたらしい。
息は切れ、声も掠れている。
それでも叫ばずにはいられないようだった。
「そいつらと戦うな!!」
別の男も叫ぶ。
「数だけじゃねぇ!! 様子がおかしいんだ!!」
その言葉に被さるように、森の奥で再び木々が大きく揺れた。
一本ではない。
右側で枝が鳴り、その音を追い掛けるように別の木が揺れる。更に奥では藪が押し潰され、夜の森そのものがざわつき始めていた。
頭上を黒い影が飛び越える。地面では狼が落ち葉を蹴散らし、その奥で猪が藪ごと草木を押し倒している。
そのどれもが未帰還組を追うように同じ方向へ流れていた。
「そっちにも行くぞ!」
叫びながら踏み込む。
飛び掛かった狼の首を断つ。返す刃で猿を叩き落とし、そのまま身体を沈めて猪の牙を躱した。横を抜ける巨体に冷気を流し込むと、後脚を凍らせた猪が大木へ激突する。
幹が揺れ、枝葉が鳴る。
その振動に驚いたように別の枝から猿が飛び移り、藪の奥では狼が木々の間を駆け抜けた。
一体倒せば別の影が現れる。
狼。
猿。
猪。
本来なら同じ場所に集まる事すらない連中が、ただ前だけを見て流れ続けていた。
数の問題じゃない。
まるで森の奥から何かに押し出されるように現れ続けている。
その時だった。
後方で風が唸る。ーー振り返らなくても分かる。
猿が一体、狼が二体と抜けていく。
処理し切るより先に後方へ流れたらしい。
だが次の瞬間には、横殴りの風が夜の森を薙ぐ。
遠くにいた猿が木へ叩き付けられ、近づく狼は首元を通り過ぎた風刃に血飛沫を散らす。
続けて土が盛り上がり、焚火の周囲へ低い壁が生まれた。飛び越えようとした狼が足を取られ、新たな土槍に貫かれる。頭上では風が吹き荒れている。
抜けた魔物を次々と切断し、弾き返している。
エアルの魔法。
風と土が休む間もなく動き続けている。
レイは血を撒き散らしながら転がった狼の死骸を飛び越え、そのまま頭上から落ちてきた猿へ刃を振り抜いた。悲鳴と共に地面に叩き付けられた影の向こう側から、猪が地面を踏み鳴らし突撃して来る。
身体を沈める。
すれ違いざまに刃を滑らせると、走った冷気から後脚が白く凍り付いていき、体勢を崩した巨体が大木へ激突。その場で氷漬けになっていた。
衝撃で幹が揺れ、また別の枝が鳴る。
右。
左。
奥。
視界のどこかで必ず何かが動いていた。
狼は斬れる。
猪も止められる。
猿だって落とせる。
だが静かになる瞬間だけは訪れない。
狼が一体、土壁を回り込もうとする。
腰から短剣を抜き、投げる。
銀色の軌跡が夜を裂き、狼の肩口へ突き刺さる。
悲鳴。
転倒。
そのまま次の猪へ踏み込みながら指先を引く。
夜の中で鋼糸が張った。
狼に刺さった短剣が血を撒きながら引き抜かれ、そのまま手元へ戻ってくる。
掴み腰に差し戻す。
その頃にはもう別の猿が頭上から降っていた。
切りがない。
後ろには未帰還組がいる。
夜の森で足を止める訳にもいかない。
その上、森の奥から近付いてくる圧迫感だけは消えなかった。
「魔法は使えないのか!」
狼の首を飛ばしながら叫ぶ。
「無理だ!」
返したのは赤髪の女だった。
「疲れじゃない!そいつらと戦ってからだ!魔力を集めようとすると身体が裂けそうになる!」
「何度も試した!」
その横で若い男も歯を食いしばる。
「俺達だけじゃねぇ! 全員そうだった!」
焚火の火が揺れる。
風が吹き荒れ、土が動き固まる。
その流れの中に更に魔力が混ざり始めていた。
エアルは杖を胸元に引き寄せる。
足元では風が落ち葉を巻き上げ、焚火の火が一定の方向へ流れ始めていた。
さっきまで魔物を弾き返していた風とは違う。
散っていた魔力が少しずつ集まり始めている。
「少し集中します」
未帰還組へ向けた声は驚くほど落ち着いていた。
「でも大丈夫です。ちゃんと守りますから」
赤髪の女は何も言わなかった。
ただ一度だけエアルを見て、再び森へ視線を戻す。
その間にも森の奥は静かにならない。木々が揺れる度新たな魔物が押し出されるように現れていた。
そして、その更に奥。
まだ見えない何かが森そのものを押しているようだった。
まだ遠く、大きい何か。近付いて来る何かが。
荒れていた魔力の流れが静かに落ち着いていく。
散っていたものが一つへ纏まる。
草の揺れが収まっていく。
焚火の火も落ち着きを取り戻す。
反面、空気そのものが静かに張り詰めていく。
準備が終わる。
その感覚だけははっきり分かった。
「エアル!」
狼を斬り伏せながら叫ぶ。
「いつでも!」
目を閉じたまま、迷いの無い返事。
その時、木々の隙間、遥か遠くで何かが動く。
高い。異様なほど高い。
鹿の角。
狼の横顔。
蛇のように揺れる細長い影。
どれも一瞬しか見えなかったが十分だった。
――撤退だ。
「撤退するぞ!」
叫ぶと同時に飛び掛かった狼の首を刎ねる。
赤髪の女は即座に頷いた。
「あぁ、了解だ!」
迷いは無い。
ここまで戦い抜いてきた連中だからこそ分かる。この数を相手にし続けるのがどれだけ危険か。
若い男は重傷者の女性を支え直し、残る二人の外套の男達へ声を飛ばした。
「聞きましたよね!行きましょう!」
誰も反論しない。
森の奥では今も木々が揺れている。
魔物は倒している。
それでも減っている気がしなかった。
レイは一歩だけ位置を下げる。
前に出るためではない。
逃がすための後退だった。
狼を斬る。
猿を落とす。
猪の突進を逸らす。
魔物に囲まれていた場所からエアル達の方向へ。間に割り込むように少しずつ距離を作っていく。
その背後ではエアルが静かに目を開いた。
「ここからは、お話し出来ません」
小さな声だったが、不思議とよく通っていた。
若い男が振り返る。
赤髪の女も僅かに視線を向けた。
「必ず街まで届けます」
杖を握る指がゆっくりと動く。
「なので」
一人一人を見回す。
傷だらけの冒険者達。そして遠く離れた彼を。
「走るのを止めないでください」
誰も返事をしなかった。
必要が無かった。
エアルが再び、目を閉じる。
次の瞬間だった。
音が消える。
周囲の揺れていた草木も動きを無くす。
先程まで森を吹き抜けていた風が、不自然なほど止んでいた。
どこまでも静かだった。
魔物の唸り声も。
木々の騒めきも。
遠くの悲鳴も。
全て聞こえているのに、その中心だけが凪いでいる。
「────♪」
その静寂の中に歌声が響く。
小さく口ずさむような歌。
夜に溶けるような旋律が静かに広がっていく。
同時に土が巻き上がった。
回り込もうとした狼の足が取られる。
猿の着地点がずれる。
猪の進路が逸れる。
派手ではない、静かな魔法が続く。
だが止まらない。
魔物が前へ出ようとする度に地形と風がその進路を狂わせていく。
未帰還組が走り出した。
レイは最後尾へ回る。
飛び掛かった狼を斬り伏せ、そのまま後退する。
また一体。
更に一体。
だが魔物は減らない。
森の奥で木々が揺れる。
狼が倒れる。
その向こうから別の狼が現れる。
猿を落とす。
だが頭上ではまた別の枝が鳴る。
猪を止める。
それでも奥から次の影が草木を押し倒していた。
歌が続く。土が応える。
その間を縫うようにレイの剣が走った。
少しずつ。
夜の森を後退していく。
だが奥だけは違った。
木々が揺れる。また揺れる。
魔物が現れても収まらない。
一本が揺れ、また隣も揺れる。
更に奥まで続いていく。波のようだった。
森の奥で何かが動く度に、その余波だけがこちらまで伝わってくる。
大木の梢が夜空を横切る。
枝が軋む。地面が微かに震える。
それでも姿だけは見えなかった。
レイは振り返らない。
ただ迫り来る魔物を斬り伏せながら後退していく。
歌声だけが静かに続いていた。




