第29話 森の奥
焚火に枝をくべると、乾いた音と一緒に赤い火が少しだけ高く揺れた。
三層境界付近の夜は思っていた以上に冷える。昼間は歩き続けていたせいで気にならなかったが、腰を落ち着けると空気の湿り気が服の隙間からじわりと入り込んできた。火の近くは暖かい。それでも少し離れれば、夜気の冷たさの方がすぐ強くなる。
鍋から立ち上る湯気の向こうで、エアルが木匙を揺らしながら小さく首を傾げた。
「塩、もう少し入れる?」
「任せる」
「味見しないの?」
「熱いだろ」
そう返すと、小さく笑う気配が返ってくる。
鍋の中では乾燥野菜と裂いた干し肉が香草と一緒に煮えていた。西区で買った簡易スープ袋をそのまま使っただけらしいが、香草の匂いが強いせいか、思ったよりまともな匂いになっている。
エアルは火の横で木椀を二つ並べながら、
「中央区のお店で使ってた香草、ちょっとだけ混ぜてみたんだ」と少し得意そうに言った。
「だから匂い強いのか」
「嫌だった?」
「別に」
枝葉の隙間から夜風が抜ける。
その度に火が揺れ、周囲の木々に赤い影を薄く伸ばしていた。三層側へ続く森は暗い。昼間でも薄暗かったが、夜になると奥の方は完全に闇へと沈んでいる。
木椀を受け取ると、湯気が顔に掛かった。
薄い塩気と香草の匂い。干し肉の脂が少し浮いている。
「……思ったより美味いな」
「でしょ?」
エアルも向かい側へ腰を下ろした。
近くには杖と荷物。乾かしていた外套が木に掛けられ、その横では水袋が焚火の熱で少しだけ温まっている。
今日は二層から三層境界までほとんど歩き通しだった。
途中、小型魔物とは数度遭遇したが、妙に数が少ない。
その代わり、痕跡だけは嫌になるほど見つかった。
掘り返された地面。
爪痕。
折れた枝。
踏み荒らされた獣道。
昼過ぎに見つけた狼型魔物の死骸も妙だった。
腹側だけが大きく裂け、内臓が周囲に引き摺り出されていた。しかも噛み跡が一種類ではない。狼のものより大きい歯形に混じって、猪に近い抉れ方まで残っていた。
その周囲には猿型魔物の足跡も混ざっていた気がする。
本来なら同じ場所に寄るヤツらじゃない。
「やっぱり静かだね」
エアルが木椀を両手で包みながら森を見た。
「昼間も、鳥の声ほとんど聞かなかった」
「小型も少なかったしな」
焚火の向こう側で枝が小さく鳴る。
だが、それだけだった。
本来なら、この辺りまで来ればもっと音がある。遠吠え、縄張り争い、夜行性の小型魔物が枝を揺らす音。風以外の気配が夜の森には絶えず混ざっている。
今はそれが妙に薄い。
「最初にわたしと森で出会った時って、もっと落ち着きなかったよね」
「誰のせいだよ」
「わたしなの?」
エアルは少し笑った。
「そっちも、何かある度に膝抱えてた気がする」
「……否定はできないけど普段は違うよ」
そのまま木椀へ口を付ける。
焚火の熱で少し赤くなった頬に、火の明かりが揺れて普段と違って見えた。
「でも、今は前より平気かも」
「慣れた?」
「ちょっとはね」
そう言いながら、火の中へ細い枝を一本放り込む。
ぱち、と火花が散った。
「その時は見張りもしてもらったよね」
「勝手に起きてただけだぞ?」
「今日はわたしが先やる」
「別にいいのに」
「慣れたから」
以前より自然に言うようになった。
最初の頃なら、夜になる度に緊張していた気がする。今は荷物を置く位置も、水袋を温める場所も、火からどれくらいの位置に座るのかも決まっていた。
そういう所は、確かに慣れたのかもしれない。
火が小さく爆ぜる。
風向きが変わった。
森の奥の方から、深い自然の匂いが流れてくる。
レイは無意識に視線を上げる。
三層側は暗い。
枝葉が空を塞ぎ、火の明かりも途中から森に飲み込まれている。
「……どうかした?」
「いや」
何かが少し引っ掛かる。
昼間からずっとそんな感覚が続いていた。
気配はある。
だが近寄ってこない。
死骸はある。
だが食い方がおかしい。
途中で見つけた猪型の魔物も、首元だけ異様に噛み千切られていた。しかも周囲には同種の蹄跡が残っていた気がする。
共食い。
そう考えると妙に嫌な感じが残る。
「キミも思ってる、よね」
火を見たまま、エアルが静かに言った。
「普通じゃないって」
「……まぁな」
木々の奥へ視線を向ける。
静かすぎる。
この辺りまで来れば、普通はもっと夜行性の動物や魔物の気配が混ざっている。茂みの音や遠吠え、威嚇もある。今はそれが薄い。まるで何かを避けているみたいだった。
「明日、少し奥まで見て戻る?」
「様子次第だな」
そう返しながら剣帯へ軽く触れる。
森の空気からは妙な感覚がした。
夜露の匂いと合わさり、獣臭さだけが時折風に混ざる。
その時。
森の何処かで何かが鳴いた。
二人同時に顔を上げる。
低い音。
鳥ではない。だが獣の遠吠えとも違う。
湿った空気の中を長く引き摺るような音だった。
焚火の火が揺れる。
エアルは無言で杖に手を伸ばしていた。
「見張り先のままでいい?」
「いや、先寝ろ」
立ち上がりながら周囲を見る。
火の届かない外側は暗い。
木々の間を風が抜ける度に、枝葉の影だけがゆっくり動いている。
「まだ近くにはいない」
「……うん」
エアルは頷いたものの、完全には力を抜かなかった。
レイも同じだった。
嫌な感じだけが消えない。
◇
どれくらい眠っていたのか。
浅い眠りの底で、レイはゆっくり目を開く。
焚火は小さくなっていた。崩れた灰の奥で赤い火だけが細く残り、その明かりが近くの荷物や木の根に反射して弱く揺れている。
夜は深く、空気は昼間より冷えていた。
その静けさの中で、妙な音だけが森の奥から断続的に混ざっている。
枝を踏む音。
何かが転ぶ音。
荒い呼吸。
しかも一つじゃない。
レイは身体を起こす。
剣に手を掛けた音で、木へ寄り掛かっていたエアルもすぐ目を開いた。
「……来る?」
眠気は残っていない。
既に杖を握っている。
「まだ分かんねぇけど、多分」
低く返しながら、両目を閉じて森を見る。
気配が乱れていた。ーー数えきれない程の魔力
何かが逃げている。ーー何かに追われている?
しかもかなり必死に。ーーおそらく、人間?
枝を掻き分ける音は不規則で。重い荷物を持ったまま走っているのか、途中で何度も足が縺れている。
ゆっくりと目を開く。
数が多い。もうじき近くに来る。
遠くからは更に別の大きな気配も迫っている。
だが妙だった。
狼と似た気配。
猪に近い重さ。
猿のような軽い動き。
本来なら同じ群れにならないヤツらの気配が、全部混ざっている。
「火、少し落とそう」
「うん」
エアルはすぐ焚火へ砂を寄せ、火を小さく抑える。
周囲が少し暗くなる。
その瞬間、森の奥で誰かが倒れる気配。
鈍い音。
押し殺した呻き。
枝を掴む音。
目を細め、暗闇の先を見つめる。
やっぱり魔物じゃない。
ここまで来れば足音の違いもハッキリと分かる。
装備の擦れる音が混ざっていた。
「……人だ」
直後、木々の奥から一つ目の影が飛び出した。
鮮やかな赤髪の女性。
鎧の肩口から胸まで割れていて、腕には止血布。
息もまともに整っていない。
続けて二人。似たような鎧を着けた男達。
その後ろでは、更に別の男が重傷者の女性に肩を貸したまま必死に走っていた。足元は血で濡れ、外套も途中から破れている。
最後尾の男がこちらへ気付く。
その瞬間、目が大きく見開かれた。
「逃げろ!!」
掠れた声だった。
だが切羽詰まり方だけは嫌になるほど伝わってくる。
「魔法が使えねぇ!! あいつらに近付くな!!」
その言葉と同時に。
森の奥で、複数の唸り声が重なった。
低い音。だが一種類じゃない。
狼の唸りに混じって、猪に近い鼻鳴らしが混ざり、更にその奥から木を叩くような音まで聞こえてくる。
枝葉が大きく揺れた。
暗闇の中、幾つもの目だけが火の外で鈍く光っていた。




