第20話 黒爪熊
黒爪熊が森の奥へ消えた後もしばらく、誰もすぐには動けなかった。
折れた枝が遅れて地面に落ちる。湿った土には血が滲み、さっきまで暴れていた巨体の臭いだけが森の中に重く残っていた。
遠くで川音が聞こえる。
黒爪熊が突っ込んできた場所では、地面が大きく抉れていた。倒れた荷物。折れた槍。転がった盾。踏み潰された草の上に血が飛び散っている。
「おい、生きてるか!?」
「返事しろ!」
最初に駆け込んできたのは、水辺側にいた別の冒険者達だった。
木々を掻き分ける音が次々と近付いてくる。槍を構えた男。短弓を背負った女。周囲を警戒しながら、数人が一気に開けた場所に飛び込んできた。
「黒爪熊か!?」
「一区浅層で!?」
「嘘だろ……」
地面へ転がった荷物と、負傷している四人組を見た瞬間、全員の顔色が変わる。
脚を押さえていた男戦士は脂汗を流しながら呼吸を荒げていた。近くでは女剣士が裂けた革鎧の上から腕を押さえ込んでいる。弓使いの男は木に背を預けたまま座り込み、唯一立っていた女魔法使いが震える手で杖を握っていた。
「採取組は水辺側まで下げろ!」
「周囲確認しろ、まだ戻るかもしれねぇ!」
飛び交う声と同時に、周囲の空気が完全に切り替わる。
誰かが慌てて剣を抜き、その音に反応するように別の冒険者達も荷物を掴み始める。少し前まで水辺で聞いていた笑い声は消え、代わりに聞こえるのは足音と警戒を飛ばす声ばかりだった。
「脚、見せてください」
エアルは既に男戦士の横へと膝をついていた。
「っ……!」
脚に触れられた瞬間、男が歯を食いしばる。
エアルは一度だけ目を伏せ、素早く荷袋を開いた。
「無理に動かないでください。固定します」
包帯を巻き、添え木代わりの枝を固定していく。
迷いのない動きだった。
その横では別の冒険者が女剣士の傷口を押さえていた。
「止血布!」
「水こっち!」
短い声だけで周囲が動いていく。
エアルは固定した脚を軽く押さえ、
「……骨は折れてなさそう。でも筋をかなり痛めてます」
そう呟くと、今度は女剣士側へ移動した。
「腕、動きますか?」
「少しなら……」
「じゃあそのまま。無理に力入れないでくださいね」
裂けた革鎧を切り開き、水で血を流していく。傷口が露出する度、周囲から小さく息を呑む音が聞こえた。
レイはその様子を見ていた。
学校で子供達に囲まれていた時とも違う。ギルドで依頼書を選んでいた時とも違う。
今の彼女には周囲が自然と従ってしまう空気があった。
「エアル。何か手伝う事、ある?」
声を掛けると、エアルは顔を上げる。
「冷やしたいから氷欲しいかも。出来る?」
「わかった。普通の氷でいいんだよな」
「お願い」
少し離れる。
森の陰に入り、水袋の中で静かに氷を作った。周囲に見られていない事を確認してから戻る。
「これでいい?」
「うん、助かる」
固定した脚へ当てると、男戦士が苦く息を吐いた。
「悪ぃ……」
「気にすんな」
その横では、別の冒険者達が周囲を警戒し続けている。
「二区側まで降りてねぇよな?」
「いや、今んとこ一区浅層だけだと思う」
皆、森の奥を気にしていた。
黒爪熊はもういない。
それでも誰も完全には気を抜かない。
「何があった?」
槍持ちの冒険者が弓使いの男へ聞く。
男は荒い呼吸を整えながら口を開いた。
「探索依頼だった。川沿いで痕見つけたんだ」
「痕?」
「木が抉れてた。爪痕もデカかった」
そこで引き返すつもりだったらしい。
「確認だけして戻ろうとした。けど、思ったより近かったんだよ……」
そこまで話した瞬間、奥の茂みが揺れた。
周囲が一斉に武器に手を掛ける。
張り詰めた空気。
だが次に飛び出してきたのは、追加で駆け付けてきた別パーティだった。
「無事か!?」
「熊は!?」
「奥へ逃げた!」
返答を聞いた瞬間、周囲の空気が少しだけ緩む。
それでも、誰も武器を下ろさなかった。
◇
「応急処置終わりました。歩ける人から移動しましょう」
エアルが立ち上がる。
「ここに留まる方が危ないです」
その言葉に周囲も頷いた。
動ける者が荷物を纏め始め、別の冒険者達が簡易担架を組み始める。倒れた枝を集め、縄を巻き、毛布を通す。簡易担架は驚くほど早く形になっていった。
「こっち支えろ」
「担架浮かせるぞ」
レイも片側を持ち上げる。
乗せられた男戦士が顔を歪めた。
「……悪ぃな」
「いいって」
担架は思っていたより重かった。
揺れる度、男が息を漏らす。横では女魔法使いが青い顔のまま付き添っていた。
森を戻る途中も、何組もの冒険者達とすれ違う。
「おい、本当に黒爪熊か!?」
「今は奥行くな!」
「水辺側、一旦撤収始まってる!」
声が飛び交う。
水辺近くまで戻る頃には、さっきまで休憩していた採取組の姿もかなり減っていた。
川辺では、さっきまで湯気を立てていた鍋が慌ただしく火から下ろされていた。半端に残ったスープを地面へ捨て、水を被せて火を消している者。その横では採取籠を抱えた連中が何度も森側を振り返りながら街道に戻っていく。さっきまで聞こえていた笑い声はもう無く、代わりに聞こえるのは急ぎ足と、警戒を呼び掛ける声ばかり。
「……ほんとに危ないんだな」
「黒爪熊は死人が出てもおかしくないから」
短い返答だった。
その声は、いつもより少し硬い。
周囲を見渡す。
武器を抜いたまま歩いている者。
何度も森側を振り返る者。
街道杭の近くで注意を飛ばしている者。
何が普通で、何が異常なのかはまだ分からない。
でも“皆がいつもと違う動きをしている”事は分かった。
◇
西門へ戻る頃には、陽も傾き始めていた。
門前の空気がざわつく。
「怪我人だ!」
「治療室空いてるか!?」
「一区浅層で黒爪熊!」
門番が目を見開く。
「黒爪熊!?一層じゃなくてか!?」
「浅層側だ!」
西区画へ入ると、夕方の喧騒が一気に押し寄せてきた。解体場では熱湯を運ぶ怒鳴り声が飛び、酒場からは酔った笑い声が漏れている。その間を荷車が無理やり通り抜け、軋む車輪の音が石畳に落ちる。
「道開けろ!」
「怪我人通るぞ!」
叫び声が響いていく。
露店商達まで顔を上げていた。
「また魔猪か?」
「違う、熊だってよ」
「一区浅層で!?」
空気が少しずつ広がっていく。
ギルドに入ると、それはさらに顕著だった。
「治療室使います!」「一区水辺側の依頼は一旦確認待ち!」「未帰還確認まだです!」「二区側伝令回して!」
その中央で長い栗色の髪を後ろで纏めた女性が、報告書を捲りながら次々と指示を飛ばしている。
「一区浅層、水辺側は新規受注停止してください」
「はい!」「重傷者から奥へ。軽傷の方はこちらです」
落ち着いた声だった。受付嬢達は迷う様子もなく動き、剥がされた依頼札が次々と掲示板から消えていく。
報告を聞きながら別の紙に記録を書き込み、その横で治療室側へ指示を飛ばしている。
「黒爪熊で間違いないですか?」
「はい。視認者複数います」
エアルが答える。
「セシルさん。脚部重傷一名、腕部裂傷一名です。固定、止血、冷却までは済ませてあります」
「ありがとうございます。こちらで引き継ぎます」
そのまま視線を横に流す。
「担架はこちらに!止血布追加してください!」
奥の治療室側では既に別の神官達も動いていた。
水桶。
血の付いた布。
薬品臭。
騒がしいのに、誰も無駄に慌ててはいない。
危険に慣れた街だった。
◇
「……坊主!」
横から声が飛ぶ。
振り返ると、ヴァンが腕を組みながら立っていた。
「お前か? 熊の目潰したっての」
周囲にいた冒険者達もこちらを見ている。
「いや、オレは石投げただけで――」
「石で黒爪熊止めたのかよ?」
呆れたみたいな声。
その時、治療室前にいた弓使いの男がこちらへ気付く。
「止めたのはそいつだ」
一気に周囲の視線が集まった。
「突っ込まれる寸前だったんだよ!あれが無かったら後衛は終わってた……正直助かった」
「いや、別に――」
言い掛けたところで、別の冒険者が騒ぎ出す。
「石で黒爪熊止める新人初めて聞いたぞ!」
「しかも目ぇ狙ったらしいな?」
「真っ先に奥走ったんだって?」
「昨日銀級になったヤツだっけか?」「ローエンさんとやってたって、噂の新人か?」「あぁ、訓練場の……」「いや待て、今度は黒爪熊かよ」「なんなんだアイツ……」
次々と声が飛んでくる。
「石が飛んできた時はマジで意味分からなかった!」
弓使いの言葉に周りの冒険者達が盛り上がる。
居心地が悪くなって視線を逸らす。
「気配が追えてたから投げただけなんだけどな……」
「それが普通じゃねぇ」
ヴァンが肩を竦めた。
「まぁいい。生きて帰れたヤツがいるなら上等だ」
その時だった。
「……レイさん、ですよね?」
セシルが、周囲に指示を飛ばしながらこちらへ歩いてくる。
「現場確認をしたいそうです。ギルド長がお呼びなので、一度来てもらえますか?」
「現場確認?」
「はい。一区浅層で黒爪熊が出たので」




