第95話 流れの途中で
紙の音がする。
乾いた音。
規則的な動き。
ユリウスは教会の一室に座っていた。
机の上には書類。
巡回報告。
記録。
配置。
やることは単純だった。
目を通す。
確認する。
まとめる。
それだけ。
でも、手が止まる。
同じ場所で。
何度も。
視線が同じ行に戻る。
——試験
その単語だけが浮いて見える。
閉じる。
紙を重ねる。
立ち上がる。
「ちょっと外出る」
誰に言うでもなく、小さく呟いた。
止める者はいない。
それが、ユリウスだった。
外はいつも通りだった。
霧。
人の流れ。
遠い音。
何も変わらない。
でも、何かが残っている。
あの場所。
あの空気。
あの“選択”。
歩く。
目的はない。
でも、止まらない。
そのまま通りを抜け、人混みを外れる。
静かな道。
イレーネはそこにいた。
いつも通り。
なにも変わらずに。
「……よく会うな」
ユリウスが言う。
「……そうだね」
イレーネが返す。
自然だった。
偶然みたいに。
でも、違う。
「……聞いた」
ユリウスが言う。
「試験」
イレーネは少しだけ考えて、
「……うん」
短く答えた。
「……どうだった」
「……別に」
いつも通り。
「……変わんない」
その言葉に、ユリウスは少しだけ目を細めた。
「そうか」
それ以上は言わない。
責めない。
否定しない。
ただ、少しだけ視線を落とした。
「……選ばなかったんだな」
静かに言う。
「……うん」
イレーネは頷く。
「……なんで」
同じ問い。
でも、レオンとは違った。
責めていない。
ただ、理由だけを聞いていた。
イレーネは、少しだけ考えた。
珍しく、少しだけ長く。
そして、
「……選ぶ意味、ないし」
ゆっくりと言った。
「……どっちでもいいなら…別に」
その言葉を、ユリウスはそのまま受け取る。
否定しない。
肯定もしない。
「……そっか」
それだけを言う。
沈黙。
風が少しだけ動く。
遠くで、誰かの声が聞こえる。
街の生活の音。
「……なあ」
ユリウスが言う。
「……お前さ、困ったことないのか」
イレーネは、少しだけ首を傾けた。
「……なにが」
「選ばないことで」
ユリウスは静かに言った。
イレーネは少しだけ考えた。
「……今のところは、ないかな」
答える。
その言葉にユリウスは少しだけ目を細める。
“今のところ”。
それだけで十分だった。
「……そっか」
イレーネは、そのまま立っていた。
ユリウスも、動かない。
どちらも、何も選ばない。
でも、少しだけ違う。
ユリウスは、知っている。
選ばないことの先に、何があるか。
それだけの差だった。




