第94話 届かない理由
夕方。
霧は、少しだけ赤く見える。
街は静かに動いていた。
人はいる。
声もある。
でも、どこか遠い。
イレーネは歩いていた。
いつも通り。
なにも、変わらない。
「……おい」
後ろからの声に立ち止まる。
振り返る。
レオン。
少しだけ息が荒い。
探していたのが分かった。
「……なに」
イレーネが言う。
いつも通り、静かに。
レオンは少しだけ言葉を詰まらせた。
何を言うか、決めてきたはずなのに。
「……なんでだよ」
結局、それだった。
「……なにが」
「なんで、何もしなかった」
イレーネは少しだけ考えた。
でも、すぐに答える。
「……別に、必要なかったし」
軽い。
あまりにも軽い言葉。
レオンの顔が歪む。
「あいつ、死んだんだぞ」
低く言う。
「……そうだね」
あっさりと、それだけを言った。
レオンの手がわずかに震える。
「助けられただろ。お前が、選べば」
イレーネは少しだけ首を傾ける。
「……なんで」
静かに聞く。
「……なんで助けるの」
一瞬、言葉が止まった。
「……は?」
「……理由」
続ける。
「……あるの?」
真顔だった。
試すでもなく、責めるでもなく、ただ、イレーネは分からないから聞いていた。
それが、余計に重かった。
「当たり前だろ」
レオンが言う。
「目の前で死にそうなやつがいたら、助けるだろ普通は」
イレーネは少しだけ考える。
でも、やっぱり分からない。
「……それ、理由じゃなくない?」
静かに言う。
レオンの表情が固まった。
「なんだよそれ」
「……“普通”だからって、別にやらなくてもよくない?」
淡々と言う。
悪意はない。
でも、その言葉は全部を否定していた。
「……ふざけんなよ」
レオンの声が少しだけ上がる。
「じゃあなんだ。誰も助けなくていいのかよ」
イレーネは少しだけ目を伏せた。
もう一度考える。
でも、やっぱり同じだった。
「……別に」
静かに言う。
「……困らないし」
それが本音だった。
レオンは何も言えなくなった。
怒りも、言葉も、全部止まる。
理解できない。
理解したくない。
でも、分かってしまった。
この相手には、通じない。
「……お前」
小さく呟く。
「人間じゃねえな」
イレーネは少しだけ考えて、
「……そうかもね」
あっさりと言った。
否定しない。
その一言で全て終わる。
レオンはしばらく動けなかった。
怒ることも、責めることも意味がない。
ただ、違う。
決定的に。
イレーネはそのまま歩き出した。
レオンは止めなかった。
止める理由もなかった。
「……ねえ」
イレーネは少しだけ振り返った。
「……怒ってるの?」
純粋な疑問だった。
レオンは答えなかった。
答えられなかった。
イレーネは少しだけ考えて、それもやめた。
「……まあ、いいか」
小さく言って、そのまま消えていく。
レオンだけがその場に残った。
夕焼けの中で、何もできないまま。
初めてはっきりと理解してしまった。
“分かり合えない”ということを。




