第82話 選ばなかった結果
空気は、張りつめたままだった。
誰も動かない。
でも、止まっているわけでもない。
その中でルキウスだけが、わずかに動いた。
倒れている人間の前にしゃがむ。
「……いいね」
小さく言う。
「まだ壊れてない」
指先で、軽く触れる。
その瞬間、人間の身体がびくりと跳ねた。
声にならない声。
呼吸が乱れる。
見えない何かが、流れ込んでいる。
痛み。
恐怖。
理解できないもの。
それを、ルキウスは受け取る。
そして、楽しむ。
「やめろ!」
マルタが踏み出す。
その瞬間、空気が変わた。
空気が、重い。
足が、止まる。
見えない圧。
進めない。
レオンも同じだった。
「……くそっ」
低く吐き捨てる。
ルキウスは振り返らない。
「いいよ」
軽く言う。
「来ても」
でも、来れないことを分かっている声。
そして、手を離した。
人間は、その場で崩れる。
まだ生きている。
でも、壊れかけている。
「これくらいが一番綺麗」
満足そうに言ってゆっくりと立ち上がる。
イレーネへ視線が動く。
「……で?」
静かに言う。
「どうする?」
一拍。
「助ける?それとも」
少しだけ笑う。
「そのまま見てる?」
問いは、優しい。
でも、逃げ場はない。
イレーネは、人間を見た。
壊れかけている。
でも、まだ戻れる。
ルキウスを見る。
楽しそうだ。
止める気はない。
教会の人たちを見る。
動けない。
でも、助けようとしている。
全部ある。
全部そのまま、ある。
「……どっちでもいいかな」
静かに言った。
その言葉が、落ちる。
空気がわずかに歪む。
マルタが歯を食いしばる。
レオンが目を逸らす。
ユリウスは、何も言わない。
分かっている。
これが、イレーネだと。
一瞬の沈黙。
そして、ルキウスが笑う。
ゆっくりと、
「……最高」
小さく呟く。
「それでいい。それがいい」
一歩、後ろに下がる。
「完成だ」
静かに言う。
「……なにがだ」
マルタが吐き出す。
ルキウスは答えない。
ただ、楽しそうに笑った。
「今日はここまで」
軽く言う。
「続きはまたね」
そのまま、霧の中に溶けていった。
気配が消えた。
圧も、消えた。
すぐに動いたのはマルタだった。
人間の状態を一瞬で見る。
呼吸。
瞳孔。
血の匂い。
「……レオン」
低く言う。
「これ以上進んでたら終わりだ」
その声は、迷っていない。
レオンが顔をしかめる。
「……まだだろ」
「“まだ”のうちにやる」
マルタの手が、武器にかかった。
「待て」
ユリウスが言う。
一瞬だけ、全員の動きが止まる。
「なんでだ」
マルタが振り返る。
ユリウスは、答えない。
答えられない。
「理由がないなら黙ってろ」
正論だった。
ユリウスは、それでも動かない。
ほんの一瞬の、均衡。
イレーネは、動かない。
そのまま立っていた。
壊れたまま。
何も選ばなかったまま。
それでも、成立しているまま、立っていた。




