第79話 鑑賞者の再来
足音が消えて静けさだけが残った。
イレーネは、そのまま立っている。
動かない。
動く理由もない。
少しだけ、空気が変わった。
さっきまでの張り詰めた感じが、ゆるやかにほどける。
だが、それは緊張が解けたからじゃない。
“観る側”が、隠すのをやめただけ。
奥の影が、ゆっくりと形になる。
ルキウス。
気配を消すことをやめて、姿を現した。
「……残念」
軽い声。
「もう少しで壊れそうだったのに」
イレーネはゆっくりと振り返った。
「……そう?」
静かに返す。
「そうだよ」
笑う。
「いい温度だった。疑いと恐怖が混ざる感じ。一番綺麗になる手前」
言いながら、少し近づいた。
イレーネは動かない。
「……壊したいの?」
ぽつりと聞く。
ルキウスは少し考える
でも、
「壊すだけなら簡単だよ」
あっさりと言った。
「でも、それじゃつまらない」
一歩、さらに近づく。
「きみはさ」
静かに言う。
「壊れてるのに、成立してる。そこがいい」
手を伸ばす。
触れられる距離。
でも、触れない。
「ねえ」
少しだけ声を落とす。
「さっきの、感じた?」
「……少しだけ」
イレーネが答える。
「でしょ?」
嬉しそうに笑う。
「血の匂い、少し混ぜただけ…ちゃんと反応した」
「……そうなんだ」
「怒らないの?」
ルキウスが聞く。
「……別に…やってもいいと思ったんでしょ」
淡々と言う。
ルキウスは一瞬だけ言葉を止める。
それから、ゆっくり笑った。
「いいね。ほんとに、いい」
視線が、わずかに変わる。
興味の深さが増す。
「ねえ、きみ、壊れる気ないでしょ」
「……壊れてるから」
そのまま返す。
「これ以上は、あんまり変わらないと思う」
静かな答えだった。
ルキウスは、それをじっと見ていた。
「……なるほどね」
小さく呟く。
「じゃあさ」
少しだけ首を傾ける。
「外から壊すしかないか」
軽く言う。
イレーネは何も言わない。
否定もしない。
「……でも」
ルキウスが続ける。
「今はやめとく」
あっさり引く。
「まだ“形”が足りない。もう少し積もったら、もっと綺麗になる」
そう言って、一歩下がる。
霧が少しだけ濃くなった。
「楽しみにしてるよ」
最後に言う。
「そのままでいて。壊れたまま」
そして、そのまま消えた。
音もなく。
気配もなく。
イレーネはしばらくその場に立っていた。
何も変わらない。
でも、ほんの少しだけ“見られている”という事実だけが残っていた。




