第78話 疑いの温度
距離は一定のままだった。
イレーネはゆっくりと歩み寄ってくる。
変わらない足取り。
変わらない表情。
ユリウスは動かなかった。
マルタとレオンは一歩だけ前に出た。
止めるほどじゃない。
でも、近づけすぎない距離を保つように無意識に。
「……やあ」
イレーネが静かに言った。
ユリウスが軽く頷く。
「……久しぶり」
会話としては、それで成立している。
レオンが目を細める。
「……知り合いか」
「まあな」
ユリウスが答える。
「どこで?」
「……街の外」
短く答える。
マルタが視線を向けた。
「……名前は」
低く聞く。
「イレーネ」
マルタの眉がわずかに動く。
違和感。
はっきりとは言えない。
でも、ある。
わずかに風が吹いた。
そのとき。
ユリウスの腕。
まだ完全には塞がっていない傷。
そこから、ほんのわずかに血の匂い。
一瞬だけ、イレーネの視線がそこに落ちた。
ほんの一瞬。
それだけ。
何事もなかったみたいにすぐに視線を戻す。
でも、見逃さない。
「……今の」
マルタが言う。
少しだけ空気が変わった。
「……何でもないよ」
イレーネが穏やかに答えた。
「……何でもないわけあるか」
マルタの声が低くなる。
レオンも、完全に警戒に入る。
ユリウスは少しだけ視線を落とした。
分かっている。
ここから先。
「……大丈夫だ」
短く言う。
「何がだ」
マルタが即座に返す。
「……敵じゃない」
「……“今は”ってことか」
レオンが静かに言う。
ユリウスは答えない。
それが答えだった。
マルタが一歩前に出た。
「……お前」
イレーネに向かって言う。
「……何者だ」
一瞬の沈黙。
イレーネは、少しだけ考える。
「……別に」
ゆっくりと口を開く。
「……何でもいいと思うけど」
一気に空気が張った。
レオンが息を吐く。
「……ダメだな、これ」
完全に“普通じゃない”と認識された。
そのとき、奥の気配がわずかに動いた。
ユリウスの視線がそちらに向く。
まだ見えない。
でも、確実にいる。
楽しんでいる。
その瞬間、イレーネの呼吸がほんのわずかに乱れた。
さっきより、ほんの少しだけ。
マルタがそれを見る。
「……おい」
低く言う。
「……やっぱりお前——」
言い切る前に、
「……やめとけ」
ユリウスが少しだけ強く言った。
マルタがユリウスを見る。
「……なんでだ」
「……今は」
短く言う。
「……やめたほうがいい」
理由は言わない。
でも、はっきりしている。
“何かいる”
マルタも、それを感じ取った。
レオンも同じだった。
「……一回引くか」
低く言う。
マルタが舌打ちする。
「……チッ」
視線は外さない。
でも、踏み込まない。
イレーネは何も言わなかった。
ただ、そこにいる。
しばらくの沈黙。
やがて、マルタが一歩下がる。
レオンも続く。
ユリウスは、最後にもう一度だけ奥を見た。
見えない。
何も言わない。
でも、確実にいる。
そのまま背を向け、三人はその場を離れた。
足音が遠ざかる。
残るのは、イレーネと、もう一つの気配。
そして、ほんの少しだけ、空気が緩む。
“観測”は、まだ続いていた。




