第8話 忘れていくもの
夕方の空気は、昼よりも重かった。
霧がまた少し濃くなっている。
遠くの建物は輪郭だけを残して色を失っていた。
ユリウスは教会の外に出た。
理由は特にない。
ただ、外にいたほうがいい気がした。
中の静けさが、少しだけ息苦しかった。
「また出てんのか」
後ろから声がする。
振り向くと、レオンがいた。
「暇だな」
「お互い様だろ」
軽く言い合う。
それで十分だった。
「見回りじゃないのか」
「今日は違う」
レオンは空を見上げる。
霧の向こうは見えない。
「まあ、こういう時間帯が一番面倒なんだけどな」
「何が」
「色々だよ」
曖昧に答える。
それ以上は言わない。
ユリウスも追及しなかった。
二人で通りを歩く。
人の数は減っている。
昼よりも、明らかに。
それでも完全には消えない。
誰もが急いでいるわけではない。
ただ、長くは留まらない。
そんな動きだった。
「……妙だな」
ユリウスが言う。
「何が」
「さっきから、同じ場所を通ってる気がする」
レオンは少しだけ周囲を見る。
「気のせいだろ」
軽く流す。
けれど、その目は少しだけ細くなっていた。
そのときだった。
「すみません」
声がかかる。
振り向くと、一人の男が立っていた。
年は三十前後。
整った服装。
どこにでもいそうな顔。
「少し、お時間よろしいですか」
丁寧な口調だった。
違和感はない。
むしろ、自然すぎるくらいだった。
ユリウスは一瞬だけ迷う。
断る理由も、受ける理由もない。
「……何だ」
短く答える。
男は安心したように微笑む。
「少し、お聞きしたいことがありまして」
「何を」
「あなたは、この街に来てどれくらいですか」
唐突な質問だった。
「数日だ」
「そうですか」
男は頷く。
「では、外から来られたわけですね」
「ああ」
「以前はどちらに?」
間を置かずに続く。
自然な流れだった。
答えることに抵抗はない。
「……南のほうだ」
「なるほど」
男は興味深そうに目を細める。
「どのくらい、あちらに?」
「長くはない」
「そうですか」
頷く。
それだけなのに、なぜか話が続いている感覚があった。
「旅はお好きですか」
「別に」
「そうですか」
また同じように返す。
否定も肯定もしない。
ただ受け取るだけ。
それが妙に引っかかる。
霧が、少し濃くなった気がした。
視界の端が、ぼやける。
「ここは、どうですか」
男が聞く。
「この街は」
似たような質問を、何度も受けている気がする。
誰に、とは思い出せない。
「……分からない」
ユリウスは答える。
それが一番正確だった。
「分からない」
男は繰り返す。
その言葉を確かめるように。
「いい答えですね」
微笑む。
その表情に、少しだけ既視感があった。
どこで見たのかは思い出せない。
思い出そうとすると、なぜか意識が逸れる。
「人は、分からないままのほうが、多くのことを持っていられる」
男は静かに言う。
「分かってしまうと、失うものも多いですから」
その言葉は、妙にすんなりと入ってきた。
否定する理由が見つからない。
むしろ、そうかもしれない、と思ってしまう。
「あなたは」
男が少しだけ身を乗り出す。
「何を覚えていますか」
その問いに、ユリウスは言葉を失う。
何を、と言われても答えられない。
思い出そうとする。
南の街。
来る前のこと。
細かい記憶が、ぼやける。
形はあるのに、輪郭が曖昧になる。
「……なんだ、それ」
小さく呟く。
男は何も答えない。
ただ、こちらを見ている。
その視線が、妙に深い。
霧が、さらに濃くなる。
距離感が掴めない。
男の顔も、少しだけぼやける。
「……おい」
横からレオンの声がする。
いつの間にか、すぐ近くにいた。
「そのへんにしとけ」
低い声だった。
普段とは違う温度。
男が視線をレオンに向ける。
わずかに、表情が変わる。
初めての変化だった。
「……失礼しました」
すぐに元に戻る。
丁寧に頭を下げる。
「少し、話しすぎましたね」
その言い方は自然だった。
違和感はない。
なのに、さっきまでとは明らかに違う。
「お気をつけて」
男はそう言って、後ろへ下がる。
霧の中に溶ける。
数歩で、輪郭が消える。
気づいたときには、もういなかった。
「……なんだよ、あれ」
ユリウスが言う。
声が少し掠れていた。
レオンはしばらく黙っていた。
霧の奥を見る。
追う気はないらしい。
「……覚えてるか」
ぽつりと聞く。
「何を」
「さっきの会話」
ユリウスは口を開きかけて、止まる。
確かに話していた。
内容も分かる。
でも、細かい部分が抜けている。
繋がりが、曖昧になる。
「……いや」
正直に答える。
レオンは小さく息を吐いた。
「だろうな」
それだけだった。
「今の、なんなんだ」
「知らねえよ」
即答だった。
だが、
「……でも、ろくなもんじゃねえ」
その一言だけ、少し重かった。
ユリウスはもう一度霧の奥を見る。
何も見えない。
最初から、誰もいなかったみたいに。
それでも、何かが削られた感覚だけが残る。
「……帰るぞ」
レオンが言う。
「これ以上いると、面倒になる」
ユリウスは頷く。
二人で教会へ向かう。
足元が少しだけ不安定に感じる。
理由は分からない。
ただ、感覚がずれている。
教会の灯りが見えてきた。
白い壁が、霧の中に浮かぶ。
その輪郭だけは、はっきりしていた。
中に入ると空気が変わる。
静けさが戻る。
さっきまでのことが急に遠くなる。
それでも、完全には消えない。
「……なあ」
ユリウスが言う。
「なんだ」
「さっきのやつ、前にもいたか」
レオンは少しだけ考える。
それから、首を振る。
「知らねえな」
軽い答えだった。
だが、その目は少しだけ逸れていた。
ユリウスはそれ以上聞かなかった。
聞いても意味がない気がした。
ただ、ひとつだけ残る。
――何かを忘れている。
それが何なのかは分からない。
分からないまま、それだけが、確かだった。




