第75話 そのままでいるということ
霧は少しだけ薄かった。
街の外れ。
人通りの少ない道。
イレーネは一人で歩いていた。
足取りは軽い。
急いでいるわけでも、迷っているわけでもない。
ただ、歩いている。
先日のことを、思い出しているわけでもない。
でも、忘れているわけでもない。
全部、そのままある。
ユリウス。
セラフィナ。
あの場所。
どれも、特別には扱わない。
大事でも、大事じゃなくもない。
ただ、あっただけ。
それでいいと思っていた。
ふと、足を止めた。
視線が、少しだけ横に動く。
隠されていない気配。
「……見てるんでしょ」
静かに言う。
沈黙の後、やがて、ゆっくりと影が動いた。
ルキウス。
最初からそこにいたみたいに、壁にもたれていた。
「よく気づいたね」
楽しそうに言う。
イレーネは振り返らない。
「……別に」
小さく答えた。
「……隠してなかったから」
ルキウスは笑う。
「そうだね」
数歩近づき、距離を詰める。
「きみ、面白いね」
軽く言う。
「壊れてるのに、普通に立ってる」
イレーネは少しだけ考えた。
「……そう?」
「そうだよ」
「……でも」
静かに言う。
「……別に、立ってなくてもいいと思うよ」
ルキウスの表情が、少しだけ変わった。
興味の方向に。
「それでも立ってるのは?」
「……なんとなく」
ルキウスは笑う。
「いいね、それ。意味がないのに続いてる感じ」
さらに一歩、近づいた。
「ねえ」
少しだけ声を落とす。
「きみさ、壊れてること、分かってるでしょ」
「うん」
あっさり答える。
「じゃあさ」
ルキウスが続ける。
「なんでやめないの?」
少しだけ考える、けれど、
「……やめてもいいけど……別に、やめる理由もないから」
静かな答え。
ルキウスは、しばらくそれを見ていた。
理解しようとして、やめる。
「いいね」
小さく言う。
「すごくつまらないけど、すごく面白い」
「ねえ」
ルキウスが言う。
「僕と来る?」
「……どこに?」
「どこでも」
また少し考える。
「……行ってもいいけど……行かなくてもいいかな」
曖昧な答え。
でも、それで成立している。
ルキウスは少しだけ楽しそうに笑った。
「いいね、じゃあ」
一歩、後ろに下がる。
「今はやめとく」
「でも」
最後に、少しだけ目を細める。
「そのままいてよ、壊れたまま。観てたいから」
イレーネは頷かない。
拒否もしない。
ルキウスは、そのまま音もなく、気配もなく霧の中に消えた。
イレーネはまた歩き出した。
何も変わらない。
壊れていることも、そのまま。
それでも、歩いていく。




