第72話 残るものと、残らないもの
血の匂いがまだ残っていた。
静けさが戻る。
さっきまでの緊張も、少しずつ解けていく。
ユリウスは、その場に立っていた。
腕から流れた血は、もう落ち着いている。
セラフィナも、同じ場所にいる。
さっきと同じ距離。
でも、少しだけ違う。
呼吸は整っている。
立っていられる。
それだけで、十分だった。
視線が静かに合う。
何かを言おうとして、やめた。
言葉にすると、壊れる気がした。
ユリウスも、何も言わない。
求めない。
引き止めない。
それでいいと、分かっているから。
セラフィナは、ゆっくりと視線を外した。
そのまま、一歩、後ろに下がる。
距離が戻る。
元の、触れられない場所へ。
それが、境界だった。
ユリウスは動かない。
追わない。
セラフィナは、小さく息を吐いた。
「……ありがと」
かすかな声。
ほとんど聞こえない。
それ以上は言わない。
言えない。
背を向ける。
迷いはない。
歩き出す。
静かに。
ゆっくりと。
霧の中へ。
姿が、少しずつ薄くなる。
消えていく。
もう、戻らないみたいに。
劇場には、静けさだけが残った。
ユリウスは、その場に立ったまま。
動かない。
追わない。
それでいいと、分かっているから。
少しだけ、息を吐いた。
そのとき、別の気配。
イレーネ。
ずっとそこにいた。
変わらない距離で。
「……行かないの」
静かな声。
ユリウスは答えない。
少しだけ、考える。
「……行っても」
ぽつりと。
「……多分、意味ない」
言った。
イレーネは頷かない。
否定もしない。
「……そう」
ただ、それだけ言う。
少しの沈黙。
「……でも」
イレーネが続ける。
「……あなたは、もう知ってるよね」
ユリウスは、ゆっくりと目を閉じた。
知っている。
あの感覚も、あの選択も。
全部。
目を開ける。
「……まあな」
短く答える。
それ以上は言わない。
言う必要もない。
イレーネは、それを見ていた。
変わらずに。
何も足さない。
何も引かない。
ただ、そこにあるままを、見ていた。
劇場の中に、残ったのは二人だけだった。




