第68話 選ばれなかったものと、選び続けたもの
路地は静かだった。
封鎖されたまま。
人は来ない。
音もない。
霧が薄く流れている。
その中に、まだ“形”が残っていた。
人のようなもの。
でも、人ではない。
揺れている。
立っていることすら、不安定なまま。
それは、動かない。
いや、動けない。
ただ、一方向を向いている。
そこには、何もない、はずだった。
それでも、見ている。
“そういうふうにできている”みたいに。
手が、ゆっくりと上がる。
震えながらも、何かを掴もうとするみたいに。
でも、届かない。
形が、崩れる。
指先から。
霧に戻るように。
それでも、やめない。
同じ動作を繰り返す。
選ばれていない。
何も。
誰にも。
だから、終わるしかない。
やがて、腕が、保てなくなる。
形が、崩れる。
残っているのは、ただの動きだけ。
意味のない、模倣。
そして、それも消える。
ゆっくりと、霧の中へ。
何も、残らない。
最初からなかったみたいに。
路地には、ただの静けさだけが残った。
――同じ頃。
劇場は、もっと静かだった。
セラフィナは、まだ立っていた。
同じ場所。
でも、明らかに違う。
呼吸は浅い。
身体は、ほとんど限界。
それでも、倒れない。
イレーネは見ていた。
変わらずに。
何も言わずに。
セラフィナは、ゆっくりと目を閉じる。
何もない暗さ。
でも、一つだけ残る。
ユリウス。
思い出す。
顔。
声。
距離。
触れなかったこと。
触れなかった理由。
息が、少しだけ震える。
選んだ。
あのとき。
逃げなかった。
妥協しなかった。
それだけは、確かだった。
でも、それで、満たされるわけじゃない。
身体は空っぽのまま。
苦しさも、消えない。
それでも、選んだ。
ゆっくりと、目を開けた。
視界が揺れる。
でも、焦点は合う。
イレーネは変わらずにいる。
その存在が、少しだけ楽だった。
何も否定しない。
でも、それを選ばなかったのも、自分だった。
視線を落とす。
足元が、揺れる。
限界は、近い。
もう、すぐそこ。
それでも、小さく呟く。
「……まだ」
かすれた声で。
イレーネは、何も言わない。
ただ、見ている。
セラフィナは、それ以上続けられない。
言葉が、出ない。
代わりに、ただ、立っている。
崩れかけながら。
それが、最後まで残った、“選び方”だった。




