第65話 貼り付いた感情
霧が濃くなった。
さっきよりも、はっきりと。
路地の奥には人の形をしたものが立っている。
輪郭は曖昧。
ただ“そこにいる”感じだけが強い。
マルタは構えたまま動かない。
距離を測る。
「……レオン」
「分かってる」
短いやりとり。
でも、少しだけ緊張が強い。
エリアスは一歩引いた位置。
視線を逸らさずに観察していた。
ユリウスはその後ろでただ、見ていた。
それが一歩ゆっくりと近づいた。
「……止まれ」
マルタが低く言う。
反応はない。
ただ、近づく。
じわじわと距離が縮まる。
レオンが前に出た。
半歩。
マルタよりも少しだけ前。
カバーする位置。
その瞬間、視界が、ほんの一瞬だけズレた。
「……?」
レオンが眉をひそめる。
何かが、おかしい。
でも、言葉にできない。
それが、さらに一歩近づく。
そのとき、ユリウスの胸の奥で、何かが引っかかった。
懐かしいような、近いような、でも違う。
それが、こちらを見ていた。
“顔がある気がする場所”で。
その瞬間、感情が、湧き上がる。
ユリウスの中で、一つの感覚だけが強くなる。
――近づきたい
「……?」
思考じゃない。
もっと浅いところ。
反射に近い。
足が、わずかに動く。
「……おい」
すぐ横でレオンの声。
「動くな」
その一言で、ほんの少しだけ戻る。
でも、消えない。
その感覚だけが残る。
それが、ユリウスに向かってさらに近づいた。
「……チッ」
マルタが舌打ちする。
「対象変えやがったか」
レオンの視線も動く。
ユリウスへ。
「……下がれ」
ユリウスは動かない。
動けない。
感覚が、貼り付いている。
“近づきたい”だけが残る。
理由はない。
でも、それだけがある。
それの手がゆっくりと伸びた。
形が曖昧なまま。
そのとき、レオンが動いた。
「――やめろ」
短く言って、腕を払う。
接触。
感触は、薄い。
でも、確かに“何か”がある。
それの動きが、わずかにズレる。
その瞬間、空気が揺れた。
ユリウスの中の感覚が、剥がれる。
「……っ」
息を吸う。
「……なんだ、これ」
初めて言葉になる。
それは止まらない。
形を保ったまま、また一歩。
でも、さっきよりも少しだけ不安定。
エリアスが口を開いた。
「……接触により挙動が変化」
冷静に。
「……継続戦闘は推奨しません」
はっきりと言う。
マルタがもう一度舌打ちした。
「……分かってる」
短く返す。
「……レオン」
「了解」
「……下がるぞ」
マルタが迷いなく言う。
レオンがユリウスの肩を掴んだ。
「行くぞ」
強引に引く。
ユリウスはそれに従う。
まだ少しだけ、感覚が残っている。
でも、一歩、また一歩と後退する。
それは追ってこない。
形を保ったままその場に立っている。
でも、完全には止まっていない。
霧の中で揺れている。
路地を抜けると空気が変わった。
ユリウスの中の違和感が、ゆっくりと消えていく。
貼り付いていたものが、剥がれるように。
でも、完全には消えない。
レオンが手を離した。
「……今の、なんだ」
低く聞く。
ユリウスは答えない。
答えられない。
ただ、一つだけ、分かる。
“あれは”言葉にはならない。
でも、確かにどこか、似ていた。




